十五、 蕗谷虹児(ふきや こうじ)

 母は「蕗谷虹児と三の丸小学校で同級生だったよ。」と云う。竹町にあった有馬の湯という小さなお湯屋が虹児の母の実家であった。母は子供の頃、ミイ祖母に連れられて湯に入りに行ったこともある。子供の頃の虹児は何か貧相な感じする子だったとのこと、やがて父親について新潟に行ってしまった。大正十年頃から「令女界」という若い女性向けの雑誌の表紙や口絵に彼の絵がのるようになったのでびっくりしたそうである。やさしい叙情的な少女の絵は詩情溢れる美しさで、随分人気が出たもので母も同郷同窓のゆかりもあり虹児の絵を好きになった。婦人画報や婦人倶楽部にも挿絵が出ていたそうである。母はキレイなもの、美しいものは大好きと云うのであった。

 夢見るような美しい女性を画くことで既に一家をなしていた竹久夢二と並び称される人になったけれども似ている様でありながら画風がやや異なっていた。私自身の好みからすれば、たよりなげな、何か嘆いている風情の夢二の絵の方が少女の頃は好きであった。

 挿絵画家として有名になり、特に若い女性に人気があったけれども虹児自身としてはそれにあきたらず、本格的な画家として修業をする為に渡欧したのであったが、身内の人たちの経済的事情から志半ばにして帰国しなければならなかったという。しかしこの気持ちはずっと彼の願いであったらしく中年になってからも橈(たわ)まず勉強をし、戦後になって本格的な作品を幾枚か残したと聞いた。

 母は絵に限らず、与謝野晶子の歌や北原白秋の詩も好きでよく読んでいたと云う。私の子供の頃に買ってもらったコドモノクニや子供の友など子供向けの絵本の中に美しい絵や詩が出ていたように思う。鈴木三重吉の童話の本が出回って好んで読まれた時代でもあったと聞いた。


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