十四、 城下町

 新発田には藩主溝口公の城として栄えた江戸時代からの名残りとして今も立派な石垣とお濠がある。新発田の殿様ははじめは六万石、幕末には十万石ということであったけれど、実質はその三倍位の値打ちがあると云われていた。何せ肥沃な水田地帯の中心であり、米野菜の豊富な土地柄の上、海の幸、山の幸にも恵まれた所であった。

 今は新発田市であるが、私の子供の頃は北蒲原郡新発田町であった。私の生まれた家は竹町(たけちょう)にあって練兵場に近く、うちの裏が二の丸であった。

 その頃お濠にはびっしりと蓮が生えていて夏には見事に花開く、その花が咲く時にポンと音がするのだときいたので早起きして見に行ったことがある。でも実際にはそんな音はしないのであったが、いかにもそんな感じのする大型の立派な花である。夏の朝涼しいうちにお濠端の散歩はすがすがしく、この早朝の気分を楽しんで来ている人達も三々五々見かけられるのであった。あやめもあったらしくあやめ城とも呼ばれている。

 その城趾に新発田歩兵第十六聯隊が置かれていた。お濠の内にある兵舎からは朝に夕にラッパの音が響き家に居ても良く聞こえた。夜に聞こえてくる消灯ラッパの音は何となくもの淋しい感じがしたもの、又家の前の道を隊列を組んで行進する兵隊さん達の姿をよく見かけたもので歩調をとって歩く独特の重そうな靴の音がザックザックと響きわたって砂埃が舞い上がる。

 年に一度は招魂祭が行われた。その日は早朝から練兵場でバンバンと威勢よく鉄砲の音がして喚声がきこえ、一しきり演習が行われた後、兵隊さん達の仮装による踊りの輪が出来たりした。またその日は兵営の中をさまざまに飾りつけをして一般人に公開見学させる様なこともあった。

 母の話によると竹町から外ケ輪の方へ行くあたりに偕行社といって陸軍軍人のクラブがあった。将校さんたちの集会所であった。そこで月一回位に奥様方のお茶の会も催され、下級将校の夫人達はそれに着て行くものや、お茶の接待の仕方やら、なかなか気を遣ったものだという。

 後になってうちは収入印紙とか煙草を売る店を開いたのであったが司令部があった関係で近くにそういう店が必要なのでやってくれないかと軍の方から話があったからだと聞いた。

 町には城下町であった頃の昔なつかしい由緒ある町名がそのまま残っている所も多かった。本丸を中心にして二ノ丸、三ノ丸、外ケ輪、後免町、馬場町、御徒町等である。又竹町の向かい側に小人町という町内があった。母からきくところでは、あれはお城の役でお小人と云われた人たちが住んでいたのだという。私たちも女学校へ通うときによく通った路で竹町から西の方に斜めに走る細い小路である。お小姓とは又違うお小人衆といったか、お小人組といったものか、又何の仕事をした人々であったかは知らないけれど、あまり位の高い人たちでは無かったと云う。勿論、今住んでいる人とは関係のない遠い昔の話である。又、下鉄砲町という所もあった。新発田の城下町の下の入口にあたる街道すじを守るため足軽鉄砲隊がそこに住んで要所を堅めたのだという。上鉄砲町もあった。五十公野の方へ行く所の道筋であった。又諏訪神社の近くには清水園という名園があり、藩主の別邸として造営された美しいお庭であった。池をめぐって茶屋が三軒も立てられて居り、各所に近江八景を模してあるという回遊式庭園で品の良いお庭であった。藩主溝口公はなかなかの茶人であったとも聞く。そのそばに足軽長屋もあって復元保存されているそうである。

 母によると祖父は若いとき、師匠についてお茶を習っていたそうで、その道が大層好きであった。気の合った同好の仲間達と清水園でお茶会を催した事があったとか、池に舟を浮かべて風流を楽しんだこともあったという。

 又日露戦争の直後の頃の話もある。明治三十八年に日露戦争が勝利に終わって国をあげて皆喜んだのであったが町の人達は夜は提灯行列をして祝った。町の南のはずれに町裏練兵場があり、それは竹町のよりはずっと広い原っぱであったが、そこで敵将クロパトキンの仮装人形を作りそれを燃やして万歳万歳と囃し立てたりした。母は番頭の広川に手を引かれて見に行ったが、その時に鳴らされた大砲の音があまり大きくて怖くなり、早く帰ろう帰ろうと広川にせがんだ覚えがあるという。何であんな野蛮な事をして喜んだものだか、今思うとバカバカしいようだね。と母は笑って云った。


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