十二、 親戚の小母さま達

 祖母は祖父の姉妹たちの嫁ぎ先とは良くつき合っていられた。それぞれ横町のとか新築地の、と町名で呼んでいた。横町の松崎家は塩物屋で、新築地の大森家は大工さんであった。(祖父の姉妹は三人ときいていたのに、いつもその二軒のことしか話に出てこないのを最近ふしぎに思って母に問うてみたところ、祖父の姉は横町のお父っつぁまの所へ嫁ぎ、三女がその倅の所へ嫁入ったのだという。姉の方は後妻であったのか、とにかく姉妹で姑、嫁となっていたとのこと、二女は新築地の大森家へ嫁入っている。)

 若い頃、実家へ来てはとかく勝手なふるまいのあった人はその姉の方(母には伯母)であったけれども、その他の叔母も似たようなものだったと母は云った。その人はいつ頃亡くなったかはっきりとは判らないが、私がわかるのは祖父の妹の方の小母たちであった。(私から云えば大叔母となる)小母たちは何かあるたびに竹町にやってくる。又、何がなくてもちょいと来ては、「オヤ、ここんち良い帯があるねし、二本あるすけ俺一本もろうていぐたい」(もらってゆきますよ) 母の若い頃は何でもそんな調子であったという。実家のものは俺のものという感じであった。

 他家に嫁に行った女にとって実家というものは良いもので殊に祖父の事業がうまく行って家もくらしぶりも盛大になるにつれ兄の家に甘えることが多くなったろうし、祖父も兄として頼られて大らかな気持ちでそうさせて置いたものと思われる。しかし、兄嫁としての祖母はたまらなかったと思うが、でも亭主がバッチリと稼いでくる人であったから文句を云う程のことはなかったらしい。

 その頃人々は、皆普段の日はつましい暮らしをしていたものであった。そしてお盆とか正月とか法事、お祭りとか何かにつけてのご馳走は大いに楽しみであった。祖母はその時節時節のお膳を調えて親類衆をもてなした。夏はそうめんにキウリなます、天ぷら、なす焼き等、冬は鮭の焼きもの、くわい、油揚、麩、親芋を大ぶりに切って煮込んだお平、源平なます、豆腐汁、又白和えもよく作られた。その頃豆腐や油揚はご馳走であって常には用いられなかった。

 三人の小母にしてみれば自分の実家である。実家に招ばれてゆくのに何の遠慮が要ろうか、と子供等には「おまえ達、今日は竹町に招ばれて行くんだすけ弁当なんか持って行かんでいいで」と朝から腹の調整をさせて置き、子供等は学校が終わるとまっすぐに竹町にとんで来て先ず昼のごはんを食べる。そして晩のお膳にはたっぷりと盛り込まれたご馳走をタラフク食べるのであった。二の膳つきでお菓子も一皿ついていた。そして帰る時には家に待っている人の分までタップリと祖母は持たしてやるのだった。
 他家に嫁いだ女にとって実家というのはそうしたもので親が元気でいるうちは殊更に良いものである。又祖母は姑が亡くなってからも前と変わらずに小姑達を良くもてなしていた。又そうする事が嫁のつとめでもあったのである。

 そして祖父はそうしたゆかりの人達を集めてもてなすのが大好きであった。子供達まで連れて来させてお膳をズラリと並べ、「さあ腹いっぱいたべれや」といってニコニコしながら自分も箸をとる。皆手料理であった。料理はもちろんの事、膳椀の出し入れも手がかかり女中二人を使って祖母は良く働いた人であった。後年祖母の法事の席で母はたまたまその頃の親戚の娘さんと顔を合わせた時(祖父の一代前の分家であった五郎さのうちの人でもう三十過ぎ位であったか)つくづくと母に「俺、子供の頃、竹町に招ばれて行くのがいっち楽しみだったて」と昔の事を偲んで云ったそうである。


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