十一、 加治のおじさんと加治まんじゅう

 加治川村というと見事な桜堤は当時から有名であった。花の頃になると長堤十里と言って川の両岸にびっしり満開の桜が続く光景はほんとに目を見はる程に華麗で見事なものであった。花見客が遠くからも来て大層賑わったそうである。

 加治のおじさんと私達は呼んでいた人が祖母の弟で高沢貞太郎と云った。実直で話し好きでよく笑う陽気な人で大好きであった。祖父と何か話してはカッカッカッカと高笑いする賑やかな声が茶の間から響く。おじさんは笑うと目が細く弧を描いて目尻が下がり柔和な顔になる。加治のおじさんのお土産はいつも加治まんじゅうの山盛りであった。一包み三十ケ位は入っていたろうか、五十センチもある大きな朴の葉に包まれていて酒まんじゅうであったから大そう香ばしくそのおいしい事、少し小ぶりなせいもあって一人で幾つも食べたものだった。

 母の話によるとこの加治のおじさんは村の収入役をしている人で農閑期で役所の仕事の休みの時等はよく竹町の家へ来て何十枚とある障子張りを引き受けて忙しい姉を手伝ってくれていたそうである。
 新発田では何回か大火があった。明治二十八年の大火の時、祖父の家はまだ下町にあって被災したのであった。上町の方から出た火が町筋をなめる様に下の方まで焼いたのであったが、火の手があがると間もなく加治のおじさんが一番にとんで来てくれたという。そのうちに他の親戚衆もかけつけてくれて皆で避難の手伝いをしてくれたそうである。

 祖母はまだ若い嫁であったが、その時六才になっていた長女キヨノを手伝いの者に背負わせて加治に連れて行かせ、仏壇の位牌やミイ祖母の帯着物を先ず火の来ない方の親戚の家に預かってもらい、次におじさんは祖母のもの、留守中であった祖父の身のまわりの物を出せるだけ出して逃げたのであった。雑貨店の品物はもうどうしようもないので見離されたのである。隣村とはいっても加治との間は田圃道を一と原越さねばならない距離をどうやってそんなに速く来てくれたものやら田舎ではまだ一般には電話もない、自動車もない頃のこと、自転車はあったのだろうか。私がこの話しをきいて思うにきっと役場の電話で出火の知らせを受けて役場の自転車を借りて駆けつけたのではないか。

 又おじさんの冷静沈着な行動はなかなか感心されたものであった。先ず子供を安全に避難させ、次に位牌と姑と姑のもの、その次に姉のものという順を踏んだことは大層賢い事であった。火急の場合、いくら嫁の実家の者とは云え姑をさしおいての逃げ支度は後々までも嫁の立場を辛いものにし兼ねない。咄嗟の場合でも良く気が働いた人であった。このときに限らずおじさんは姉である祖母の為に事がある度にとんで来て骨身を惜しまず働いてくれた人であったから祖母はこの弟を心強い後盾とし祖父も又一段と信頼を深めていったのであった。これは母が生まれる二年前の事であるから母も後になって祖父母からきいた話しである。

 母が四才の時、加治のお祭りに招ばれていって祖母と一晩泊ったことがあった。丁度その夜に大水が出て村の半鐘が鳴らされ皆が大騒ぎになった。祖母の母親という人が気丈な人で手早く着物を着ると鉢巻きをしめ、モンペを着けて名前を書いた手拭いをシッカリ腰にはさみいつどこで死んでも見苦しくないようにキリリと身支度をして、子供達を守り、男衆は高張提灯を振り振り土嚢を運ぶなどして土手を守ったそうである。怖かったがまるで討ち入りでも見るようだったとの事である。

 それにしても私が物心ついてからは祖母は実家へ帰らない人であった。「それだけうちが忙しかったんだよ。親の葬式位ではなかろうか。」と母も云う。

 私が十才の頃、この加治の家からフジエさんと云う娘さんが新発田の工芸学校へ通うため、竹町の家に来ていた事があった。主に裁縫や手芸を教える学校であった。私は子供心にも綺麗な人だと思った覚えがあるが色白で細面の衿あしの美しい美人であった。後に聞いた所によるとお嫁に行って暫くして結核にかかり亡くなったそうである。又加治のおじさんも何年か後には結核で亡くなられたという。まだ五十才位ではなかつたか。そして四人居た男の子のうち二人は東京の学校へ行っているうちにやはり結核にかかって亡くなり、一人は結婚したばかりの妻を残して戦死し、一人は他家へ養子に行ったらしいがあとはどうなっているか、血筋が残っているか、家はどうなったか、分からない。と母は寂しそうに云った。


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