十、 祖母のこと

 北蒲原郡といえば越後平野の中でも米どころといわれ、大稲作地帯の中心地であった。天王新田の市島家、金子の白勢家、五十公野の相馬家、二ノ宮家、中蒲原郡では伊藤家等々、大地主の繁栄した所で、それぞれ豪壮な邸宅を構え大した暮らしぶりであったと云う。人々は市島様とか白勢様とか、様づけで呼んだ程であった。秋の収穫時には数万俵の米が集まるので、あちこちに倉庫が分けて建てられ、それぞれに取り仕切る番頭が居たものだと云う。

 それに較べものにはならないがその頃小さいながら祖父も地主であった。秋になれば小作人達から米が運ばれて来て裏庭の米倉には二百俵程の米が集まったそうである。(本家は千俵位の地主であったと聞く)

 その他に大小の貸家が十五軒位あって祖母はその収入をすっかり祖父から任されていた。祖母が嫁に来た頃は広川という番頭が店で会計をやっていたが、私が生まれる前にもうその人は辞めて故郷に帰り、それからは専ら祖母が一手に仕切る様になっていたと云う。お金が要る時は米屋を呼んで米を引き取らせて換金し自由に使えたのであった。けれども普段の生活は決して無駄はせず、派手なこともしない人であった。又そういう所を祖父も信頼して任せたのだと思われる。そして家族のここ一番という大事な節目の時には惜しみなく出して呉れたのであった。「考えてみると母(祖母)もなかなか太っ腹な所があったものだよ」と母はつくづくとその時の事を思って云うのであった。

 祖母は加治の人である。名はウノ。新発田の隣のあの桜堤で有名な加治川村の高沢家から嫁に来た人である。私の思い出の中の祖母はもうおばあちゃんであったが母の話によると、若いときは色白で面長で品の良い美人であったという。若い頃は向学心に燃えて東京に出て下田歌子について学びたいと親にねだったこともあったそうだ。なかなか好奇心の強い人で嫁いで来て間もなくの頃、新潟沖に軍艦が来て停泊し、一般の人達にも公開されたことがあった。その時、姑や夫に願って新潟港まで見に行って来たそうである。港から艀に乗って沖の軍艦まで渡り、内部をすっかり見学して来たのであった。艀の中では屈強な男達が船酔いで青い顔でゲーゲーしていたのも居たけれども自分は何ともなかった。面白かったと至極元気で帰ったという気丈な所のある人でもあった。


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