九、 父のピアノ

 父の生家は北蒲原郡葛塚村字黒山にあり、中村家七人兄弟の次男であった。新潟師範学校に学んだ父は音楽に興味を持ち音感も良く、又声楽が得意であった。師範学校の音楽の先生に認められて目をかけてもらい、なかなかの好成績で卒業した。新発田の後免町小学校に五年勤めた後、世話する人があって竹町の杉浦家の二女シゲヨと結婚して杉浦勉となったのである。大正九年二月の事であった。ツトム

 当時父は祖父からうちへ婿に来てもらった人に何も仕事はして貰わないで良いから、と言われていたけれど若い身の男として一生の仕事を持ちたいと思っていた。出来ればその得意だった音楽の道に進みたいとかねがね思っていたのである。それで胸の病が治った時に祖父から祝ってもらって申し出たのがピアノ一台欲しいという事であった。

 当時は大正も末の頃、五百円で家が一軒建てられた時代に国産ピアノが一台五百円であった。祖父はその時機嫌良く
「ようし。俺がそれ買うてやるで」
と直ちに返事をしたそうである。その頃ピアノは学校に有るだけで普通の家には新発田では殆ど無かったのではなかろうか。

 所が父はどうせ買うならドイツ製のが欲しいと思ったとの事、母といろいろ相談して新潟の楽器屋に問い合わせたら二千円位の値段であった。なかなかの金額ではあると思ったけれども”ものは試し”とばかり母が祖母にそっとこの話をした所、祖母も可愛い娘の婿の言う事に否やはない。
「よし、そういうことだば俺が金出すすけそのドイツのピアノを買はさい」(買いなさい)ということで早速米屋を呼んで米倉の米を売り千五百円を足して二千円のドイツ製イバッハ( IBACH )というピアノを手に入れたのであった。

 その頃日本の音楽界ではなかなか権威のある人で自身チェロ奏者でもあった伊庭孝という人の書いたものを見て日本の様な湿気の多い気候にはドイツのイバッハという製品が良いとの事で決めたのであった。

 祖父母は長女キヨノの婿を芸者の件で離縁してしまったのに懲りて、勉強の為ならその位の出費は厭わないという気持ちになっていたのではないか。

 家の一番奥の上の間次に四畳程の祖父の骨董品を並べたり掛け軸をかけて品定めしたりする小間があった。そこの畳を上げて一寸厚み(約四センチ)の板をしっかりと敷き詰め漆を塗ってピアノを置けるように改装して北の壁を背にしてそれは据えられた。父の猛勉強が始まった。師範学校在学中に皆生徒は初期の教則本(島崎赤太郎の横綴じ本)の練習はほぼ終わるのであったが父は好きであったからソナチネの練習に入っていた。中村勉と記名のある古い楽譜を見た覚えがある。父は新しくバイエルからやり直して、ツェルニー、ソナチネ、ソナタと順々に練習した。くりかえしくりかえし夜遅くまで練習しているのを私は遠い寝間で子守歌のようにきいて眠った事が思い出される。中でもシューベルトの幻想即興曲が美しい曲で印象深い。丁度夏の頃であったが寄せては返す波のようにかすかにくりかえし聞こえてくるのだった。コの字型に家があったので隣へ聞こえる事はなくその室の西側は小庭をはさんで石塀があり、その外を通る人がきく位なので誰憚ることなく夜遅くまで毎日毎晩の様に練習が続いた。そうなると独学では能率も悪いし適切な指導を受ける事が大事で週に一回位それぞれ得意とする先生について習うために通ったのである。

 新潟師範の林先生には和声学をみっちり基礎から教えてもらったのが後々非常に役に立ち実力がついたという。初見の音譜に和音をつけて弾くという試験にも割に良い成績であったし、後に女学校の生徒指導にも役に立った。ピアノはやはり新潟の林先生の所まで通ったし、声楽は長岡の今井先生、外に作曲法、理論、音楽史といろいろあった。又当時音楽界で権威のあった伊庭孝の本、その他参考書を買って良く読んだそうである。

 又父はピアノを買ってもらう前から同じ音楽好きの仲間が居て時々集まってレコード鑑賞の会を催して楽しんで居たそうである。その仲間には本家の兄様も入っていた。諏訪前の市島酒造の若主人もいた。まだまだ一般的には西洋音楽にはなじみのうすい時代であったから、そんな事も後々音楽史の勉強や音楽評論を読むにも役だったことであろう。又、「好きであったからこそ、あんなに一生懸命に勉強することが出来たんだよ」とも母は言った。

 受験をめざして二年目で第一次ペーパーテストを受けたのは新潟であった。このときはまだ様子もよくわからず、勉強不足でもあり、失敗に終ったのは仕方がなかった。

 二度目に東京で受験したときはペーパーテストは合格したが、ピアノの実技がいま一歩という所であった。林先生の勧めもあり実地試験は翌年受けることにし、更に一年間懸命に練習に励んだのである。
 昭和四年七月いよいよ三度目の挑戦となった。二日程前に上京し、宿近くの楽器店で幸いピアノを貸してもらい練習が出来て好都合だったとのこと、又林先生の御紹介で上野音楽学校の教授 弘田龍太郎先生にピアノ、発声、聴音を見てもらい、大丈夫でしょうとの言葉に大層自信がついて良かったという事であった。二百人程度の全国からの受験生の中で去年と今年の一次に残った人約三十数人が当日実技テストをうけた。この年の二次の本試験ではたった三人の合格者であったとか、父はその中の一人であった。

 八月になって文部省から師範学校中学校の教員たることを免許す(音楽科)の免許状が届いたときの喜びは何とも言い表し難い程のものであった。思えば病気療養中に志を立ててから長年の研鑽を経て、ようやく到達し得た喜びであった。(そしてあれから六十年余り経ってしまった。)以来父はこの時の事を絶対に忘れる事は無かった。長らく教職にあって無事勤めを果たし、又三人の子供達をそれぞれ女の子は嫁にやり、一人息子は立派に育て、そして安らかな晩年を夫婦そろって過ごせることを感謝し、皆あの時の新発田の祖父母のおかげであるといって月々の命日には必ず花と供物を忘れないのであった。
「お父さんは感心だよ。私でさえ時々忘れていることがあるのにお父さんはちゃんとお花をあげ、御飯まで上げなさる」
と母は言う。母はここ四、五年足腰が弱って来ているので父はそれを自分でさっさと行うのであった。

 現役の頃の父は頭の禿げ具合と縮れ毛のヘアースタイルからドーナツとかバテレン、ベートーベンとかいろいろな仇名がついて、なかなか人気があった。女学校の生徒の年頃というのは感じ易い乙女の年頃であり音楽の授業は学校の教科目ではあるけれども情操教育でもあり、生徒の情緒に訴える所があるので、他の教科の先生とは少し違った特別の感じを抱く生徒もいたのである。
 学校では毎月十一月頃になると音楽会があり、父は夏休み前からソロをする人や演奏する生徒、又クラスの合唱もあり、人選と選曲に大層忙しい思いをするのであった。毎年同じプログラムというわけにはいかないし、生徒の技量に応じたものでなければならない、又日本の歌曲と外国の曲も適当に混ぜて変化をつけ、決定すると夏休み前に楽譜を渡して充分練習させるのであった。やがて会が近づくと生徒達は放課後暗くなる頃まで居残りをして特訓を受けたりしてそれぞれ頑張るのである。そして懐かしい曲、心にしみる音楽を持って卒業してゆくのであった。結婚したり、いろいろの人生を経験した後にふっと懐かしい歌と共に少女の頃を思い出したり、又人生の岐路に立ったとき、歌で慰められ力づけられることがあった等と手紙を寄越す卒業生もあって父はそれを大層喜んでいた。

 長岡に来る前は大津市立高女に八年間教えたので関西に教え子達が居るし、大津から同窓会の招待状も来る、又思わぬ地方に嫁いでいるかっての生徒からの便りに驚かされることもあった。又個人的にピアノを指導した生徒も数え切れない。もう孫が居るような年齢の教え子から乙女の頃の思い出をるると綴った懐かしい便りが届くこともあるのであった。 
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 後になって聞いた話であるが、祖父がピアノを買って呉れた時、かねてから大正天皇の御不例が報じられていたが、ようやっとの思いで手に入れたピアノが家についたときに天皇が崩御されたのであった。大正十五年十二月二十五日のことである(昭和元年)。それで一ヶ月間音曲停止のお触れが出された。ピアノは家についたがしばらくは触れることは出来なかった。父ははやる心を抑えて一ヶ月、喪に服したのであったという。


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