八、 父の病気

 「それは心配な事で」
と仲人は祖父にさっそく話を切り出した。父の病気の事である。父は結核性の肋膜炎にかかり母をはじめ家中の人たちの心配の種であった。私が生まれる半年前頃の事である。結核は当時不治の病と云われて特効薬もまだ無く、長いこと病んでやがて亡くなることも多い怖しい病であることは皆知っていた。家族に伝染する事も多かった。
「長うかかりますし治る見込みがあるとは限りませんしのう。お父っつぁま」
仲人は自分が口をきいて来させた婿だからというので責任を感じてしきりに低頭して言った。
「いっそ今のうちに去らせなさいますか。子供さんにうつっても悪うございますしのう」
その人はこの言葉を言う事を覚悟して今日訪ねて来たのであった。祖父は刻みたばこを煙管に詰めてしばらく考えては吸いつけるのであった。祖父としては芸者と事件を起こした婿を去らせてしまった長女の淋しい身を思いやって可愛想でならなかった。そして二女である母の又々離婚かという事態に心は重かった。やや沈黙があって後、祖父はきっぱりと言った。
「子供が親なしになる様なかわいそうな目には会わせられんね。しっかり養生して治して貰わねば・・・」
「ではしばらくお家から出て黒山で養生させなさいますか。里の母親も一生懸命に世話して呉れますろうし、元気になりなさるまでその方がよろしうございましょう」
等とやり取りがあった後、父は一時家をはなれて静養する事になった。実際来客の多い竹町の家では寝巻きのまま便所へ行ったり、ご飯の部屋に行くにも茶の間の前の縁側を通らねばならないので父も大層気を使ったそうである。

 まず父は茅ヶ崎の南湖園という割に新しい結核療養所に入ることになった。出来たばかりで施設も良くモダンな感じの病院であったという。父の病は比較的にまだ軽症の方だったので医師のすすめもあって良く海岸を散歩したそうであった。日本海側と違って冬も暖かく空気は清浄で景色も良い所であった。

 一年近くそこに居てから退院し、一夏を上高地で過ごした。その頃はまだ今の様に若い人が大勢遊びに行く様な所ではなかった。当時はまだ数少なかった登山家が穂高岳へ登る登り口として開かれたばかりではなかったか。又当時の結核患者の療養法としては清い空気の中で安静にしている位しか手がなかった。これという薬もまだ研究されてはいなかったのであった。
「この時の入院と転地でおぢいちゃまはどの位お金を使いなすったか、私はきいてないけどねえ、しかもかかったと思うよ」
と母は述懐する。秋になってから山を下りて、父はしばらく黒山の実家へ帰って静養することになった。

 北蒲原の米所の中心部であり、又副業に梨の栽培も手がけて居た父の家は中流の農家で暮らし向きは楽な方であった。又浜にも近く砂つぶのついたままの生きの良い魚をしょっちゅう売りに来るし安静と栄養とが大切な結核患者には良い療養環境であった。まだ父の親達も元気で居たから親の手もとで手の届いた養生をさせてもらうにはもってこいの状況であった上、本人も治りたい一心で生活したこともあってほぼ三年位で大分好転したのであった。

 やがて病癒えて大正十五年の秋、新発田の家へ帰って来た時の祖父母の喜びようは大変なものだった。いろいろと万一良くならなかったらなど悪い方へ考えたりして不安な日々を送っていた母や祖父母たちをすっかり喜ばせた。ニコニコしながら茶の間の囲炉裏の前に坐っていた祖父は前に膝を揃えてかしこまって挨拶した父に、
「お前の好きなもん欲しいもん何でも買うてやるすけ言うて見れ」
と上機嫌であった。父はその時ピアノを買って欲しいと言ったのである。
「これから音楽を勉強してみようと思いますすけ、買うて頂けるならピアノ一台お願いしとうございます。」


目次に戻る     次へ進む