七、 長姉の不幸

 やがて長姉キヨノは結婚した。世話する人があって婿様が来たのである。祖父は銀行へ就職の話もあった婿にうちへ来たからには何も勤めに出る事はいらない、とその話を断って時々はうちの金の出入りの帳簿つけを頼む位であった。しばらくは平安な幸福そうな日々がつづき、やがて長女信子が生まれた。

 ある時祖父は長旅の予定でしばらく家を留守にしていた。それが予定よりかなり早く突然のように帰った所、銀行から人が来て、
「杉浦様ともあろうお家が若い婿様にこの様な大金を下ろさせなさいますのはどういう事でございましょうか、それで宜しいのでございますか」
と聞いたそうだ。祖父は愕然として婿に問い糺した所、三百円の株券を処分して換金しようと頼んでいたのであった。それにいつの間にか竹町と目と鼻の先の馬場町に板塀をまわした小作りの家に芸者をひかせて置いていたのである。祖父の留守中にまとまった金を手にして二人で北海道へ逃げる相談をして居たのであった。

 未然にわかったのが不幸中の幸い、仲人が呼ばれて即刻婿は家を出されてしまった。この義兄は早稲田大学へ二年まで行った人で優しい人であったという。私が子供の頃「都の西北」や「城ヶ島の雨」等母はよく知っていて歌ってくれたのであったが、その様な当時としては新しい歌を義兄が時々上手に歌ってきかせてくれたのでそれで覚えたのだという。そして母は言う、あんな良い人だったのにどうしてこんな事になったのか本当に姉が可哀そうだった。しかし今は義兄の気持ちも少しわからぬでもない。姉は無口で静かに本を読むのが大好き、という人だったので女として面白味に欠けていたのではないか、たまには冗談の一つも言ったり猥談の相手位は出来ないとね、男の人ってそうゆう所があるものだよ等と随分さばけた事を言うのであった。自分達姉妹は何も知らないで育った世間知らずで今でいえばおくれていたし、さぞかし面白くなかったのではないか。小説類はいろいろと読んでは居たから頭ではいっぱし世の中を知っているつもりになってはいたが色っぽい話など見た事も聞いた事もなく育った娘であった。

 又始めに話があったようにお勤めに出ていた方が良かったろう。朝から晩までこれという仕事もなく家に居れば常に父母の目もあるし婿としてきた人はなんぼか気づまりであっただろうと思われる。
 しばらくして後に東京方面からシャナリと着飾った婿の縁者だという婦人が訪ねて来て以後行いを改めるからと云って復縁を願った。しかし祖父は大切な最愛の娘を裏切った男を到底許す気にはならなかった。何と言われようとも頑として受け付けなかったそうである。

 大正八.九年に全国的にスペイン風邪という悪質な風邪が流行した。これで命を落とした人が数多くいたのであったが長姉キヨノもこの風邪にかかりアッという間に幼い娘一人残して亡くなってしまったのであった。まだ三十才という若さで、信子はその時七才であった。大正九年一月の事である。

 余談になるけれど宮様方の中にもこの時亡くなられた方があったとか、又津田梅子と共にアメリカへ留学して来て社会的にもいろいろ功績のあった大山捨松夫人もこの時亡くなられたそうであった。

 祖父母、叔母達にかこまれて女中も居たし何不自由はなくとも父母のいないさびしさは小さい娘信子にとって辛いものだったに違いない。祖母も母も気をつかって育てたという話である。私は幼い頃父母の事をパパさんママさんと呼ぶ様に躾られていた。後になって聞く所によると信子姉がお父さんお母さんと父母を呼んでいたのでなるべく思い出さずに済む様にとの配慮から皆で相談してそう呼ばせる様にしたとしう事である。


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