六、 娘の結婚

 三人娘を三人とも手もとに置いて誰もよそへは嫁に出さないと云うのが祖父の方針であった。うちの中は大家内になり食事から洗濯から大へんになるが、その分は何人でも女中を使って祖母の指揮のもとに家事万端行えばよいと思っていたらしい。その時の祖父の経済力のもとでは充分心配なく出来ることであった。ただ愛らしい娘を手ばなしたくないということのほかに、祖父は嫁になった女の辛さというものをよく知っていたからだと思う。手塩にかけた娘でもいざ嫁にやれば、その日からそこの家の人間になり、その家の家風に合わせて暮らさねばならない。みそ汁や煮物の味付け一つさえ自分の勝手には出来ない。舅、姑に仕え、夫に仕え、夫の兄弟達につくしてあたり前、その上自分の子供を五人、七人と生まれれば生まれただけ、皆立派に育て上げねばならない。それらを立派にやりとげた人だけが家の人や親戚の人々からやっと認められるのであった。

 祖父は口には出さなくとも嫁の苦労というものをよく見て知っていたにちがいない。気づかいと働きの大変さ、又うちばかりでなく世の中、知り合いの家を見ても嫁というものは皆そうであった。昔は子が生まれないといっては家を出され、姑の気に入らないといっては出され、はては夫の暴力、酒ぐせに泣いている女も多かった。少し金があれば男は遊ぶ、又金がなくても遊ぶ、呑むという暮らしの中で子供を育ててゆくのが女のつとめとされていた。婚家から出された女は「出もどり」といわれ、実家へかえっても肩身をせまくして生きねばならなかった。

 男尊女卑とされた明治の真只中、まだまだ女の立場でものを考え、云う人は少なく、その声は世間にきこえて来なかった。大正になって平塚らいちょう等一部の目覚めた女性達によって女性の自立に向かって少しづつ運動がはじまったけれども世間一般から見てまだ微々たるものでまじめに取り上げる人は少なかった。

 当時結婚は親同志が定めるのが殆どであった。世間では娘を持つ親は先ず食うに困らない、少しでも暮らし向きの良い家に嫁にやりたい、次に当人の人柄や健康、次に係累の少ないこと等の順に考えられた。そしてこれから家同志が親戚としてつき合ってゆく上で不都合のない家が選ばれる。

 そして親が決めた所に娘は相手を見定めることもなく、まして交際もなく嫁にやられるのが殆どであった。写真を見せられるのは良い方で母の頃はそれも少なくお見合いをするということはまだあまりなかったという。又あっても男の方の諾否で決められることが多いのであった。親は娘のしあわせを願ってこれぞと思う所へ嫁がせるのであったが先の事は分からないのが人生の常というもの、こればかりは運、不運としか云えないこともある。

 大きな店を持ち盛大な商いをしていた家でもひょんなことから家が傾くこともあり、誰の目にも幸せそうな夫婦であっても相手が結核にかかって亡くなるとか、百人百様の人生があり、また勿論幸せに暮らした人々もあったわけだけれども概して男の浮気や多少の無理は許された時代であって、女は大した落度がなくても一方的に不利な立場になることが多かった。

 いろいろの事を考えた挙句に祖父は娘達三人共うちへ置いて自分の目がねにかなった婿をとらせることにしたのであった。「お前たち三人ともどこへも嫁にやらんぞ、俺がいい婿探してやるすけな、皆この家に一緒に居れや」と、祖父は晩酌をやりながら母達三人によくそう云っていたという。


目次に戻る     次へ進む