四、 母の武勇伝

 母の云う所によると母が女学校を出たばかりの頃の事、母の祖母にあたる人(注、のちゃやのおばあちゃま、ミイ祖母のこと)が亡くなる少し前ずっと床についたままだった。
(この章に限り母一人称、従ってここで私というのは母シゲヨ、母というのはウノ祖母のこと、祖母は貞吉の母にあたるミイ祖母のことを指す。)

 そのとき母はこまごまと手をつくしてよく看病していたのであった。
「横町のあねさ(嫁いでいった自分の娘、母には伯母にあたる人)も良くしてくれるども俺はやっぱりうちの母ちゃんの味つけがいっちうんめいのう」と云い云いしてうちの嫁のする事が気に入っている様子であった。その伯母がしょっちゅううちへ手伝いに来て寝ている母親の膳の用意などしてくれていたが時々その母親(ミイ祖母)の眠っている頃を見計らって寝間のタンスを開けてスルリと昨日は帯一本、今日は着物一着という具合に持って帰るのであった。祖母はそれに気づいていた。目をとじていても病人は眠っているとは限らない。他家に嫁いだからといっても実の母娘、親の物だもの、生き形見という言葉もある。軽い気持であったかも知れない。しかし病人は悲しい気持ちになった。
 「俺はもう治らんで死ぬんだろうか、あの子はそう思ふているにちがいない。」ポツリと寂しそうに言った祖母の言葉に私はグッと胸に来るものがあった。しばらくして又横町の伯母が来た日に皆が茶の間で顔を合わせた時、父の居る前で私は言った。
「叔母様、この間おばあちゃまが『俺がぢきに死ぬと思ふてあの子は俺の着物を持って行ぐんだろか』と言ふて居なすたよ」ジロリと父は目を光らせただけで何も云わなかった。がそれから伯母はパッタリと持ち出す事をやめたそうである。父にとっては自分の姉にあたる人であった。

 やはりその頃の事、寝た切りになった姑の為に母はいつも好きな魚を絶えず膳につけるように心を配っていたのであったが、たまたま海が荒れた翌日などは魚屋に行っても大して良いものが手に入らない事もあった。丁度そのような時に親戚の見舞い客が来たので、小魚を二本膳につけ今日は大きい魚がなくて、と母は恐縮しながら進めたのであった。そこへ例の伯母が来ていて文句を言った。
 「オヤ、こんな小せえ魚を出すとは何てこった。わざわざおっ母様の見舞いに来られたってのに、竹町の杉浦ともあろうもんが・・・」
 居合わせた私はサッと伯母のお膳の魚をひっ掴むと茶こぼし目がけて投げつけて叫ぶように云った。
 「そんなに魚が喰いたければ自分で買うて来て喰いなさればいいんでないのっ」
 その剣幕に押されて誰も何とも言えなかったとか。若い娘としては大した武勇伝で、それから親類衆の間ではシゲちゃんはしっかりした娘だ、とかきつい人だと皆一目も二目も置くようになりその母に対してもあまり勝手な口をきくような事はなくなったという。後でその事を母は喜んで「俺あの時、胸がスーッとしたて」と言ったそうである。嫁としての立場上言いたくても言えなかった事を娘が代わって啖呵を切った、ということであろうか。
 忙しい家事のかたわら母が心を砕いて姑につくしているのを常に見ていた娘として母が非難されるのは許せないことであった。又姉はじっと一人で本を読んでばかり居る人であったし、妹はまだまだ女学校へ入ったばかりの年頃であったからそういう役割は私の所へ来たのだよ、ということであった。

 しかし年頃や役回りばかりとも言えない。生来きかん坊であった所へ押川春浪の冒険愛国小説を読み耽って血沸き肉躍るという痛快な場面が大好きであった。正義漢であり熱血漢であったのである。そして何よりも祖母への愛、父母への愛が深かったからなのだ、と私には思われるのであった。
 母の話によるとこの祖母の姑にあたる人は大らかな人で世によくきく所のきびしい姑に泣かされるとか、意地悪な仕打ちをうけるとかいうことはなかったという。そして交際家であったから友達の家へ茶菓子持参で「ちょっと行ってくるで」と云ってはよく出歩く人で家の中の事は嫁にまかせてあった。親戚とのつきあいとか台所の事でもきけば何でも云ってくれるし細かいことはあまり文句を云わない、気を遣わないで済む人であったと云う。そういう所はミッちゃんが似たんだよと母は言った。


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