二、 シンガーミシン

 次女であった母もその頃有名な女性の医者として草分け的存在であった竹内茂代女史に憧れ、是非とも自分も勉強して女医になりたいと両親にせがんだ。祖父は閉口して丁度知人がミシンの売り込みに来て説明するのを聞き、よし少し高いおもちゃだとばかりに当時最高の品とされたシンガーミシンを買ってくれたのであった。母が女学校卒業の年であった。その頃シンガーミシンは九十一円であったという。
(若い勤め人の給料が四十円位であった。)

 少し話が前後するけれどその年に姉婿が離縁となり何かと心を痛めていた祖父は元気の良い次女を手元に置きたかったのではないかと母は言う。その頃婦人倶楽部や婦人之友に比較的簡単に縫える夏の家庭着等は付録に型紙が付いて来たり解説の記事もあり、新しい柄の服地の通信販売もあったので先ず子供ものの夏服や自分たちの夏ものなどミシンで縫えるようになった。

 アッパッパと少し品のない云い方で呼ばれる様になったのは、もっと世間一般の女性の間に普及した昭和に入ってからのことと思うが、家庭着として用いたこの様な夏の簡易服のことである。

 暑い季節にいくらうすものや浴衣とは云え、着物に帯をしめているのに較べ衿なし袖なし、襦袢いらずで格段に涼しく楽であった。洗濯も楽だった。袖なしといってもその頃大人の服としては肩からまるまる腕を出すことはなく、身頃からつづけて布巾の許す寸法にとれば、半袖とまでゆかなくても三分袖位になって丁度よく、袖つけの面倒もない。ウエストはあまり絞らずゆったりとしい何よりも裾が軽くて涼しいのが嬉しかった。どんなにゆるく楽に着物を着ても子供でもなければ裾は上げられない。「夏はこれに限るよ」と暑がりの母は喜んだ。でもそれは家の中だけで外出のときにはちゃんと着物を着なければならない。家へ帰ってヤレヤレといって帯を解くと乳の下から腰ひもののあたりまで汗がにじんでいる。アッパッパに着がえてホッとするのであった。

 私の夏服やひよこの縫い取りのあるごはん前かけなども作ってもらった覚えがある。このミシンは後に大津へ行ってからも「子供のものは殆ど私が縫ってずいぶんと役に立ったよ」と母は言っていた。

 その頃うちでは婦人雑誌の他にもいろいろの本が読まれていた。祖父は先ず俳誌ホトトギス、大法輪、講談ものが主なキング、祖母や母達は皇室画報、歌舞伎画報、女学世界、令女界、コドモノクニ、少女の友、実用記事の多い婦人クラブ、進歩的な婦人向きの婦人之友、等々月刊誌の他にも漱石や樗牛や、又黒岩涙香、押川春浪の愛国冒険小説もよく読んだという。それぞれの好みで種々雑多な本が買われていたのであった。


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