一、 三人姉妹

 今は生まれる子供が女でも男でも そんなにこだわる事も少ないと思われるが、明治の中頃、世の中はまだまだ男主体の社会であった。祖父は大層男の子が欲しかったけれども 生まれた子供は三人共女の子であった。
 三人姉妹の真ん中が私の母である。
期待に反した女の子であったけれども祖父は非常に可愛がって育てたのであった。少し長じてからは学校が休みであれば旅行に連れて歩き、又、旅の帰りにはお土産は欠かさなかった。
 母の云う所によると、その頃の尋常小学校は四年、高等科二年であった。長姉キヨノは小学校と高等科を終えると丁度その年に設立となった北蒲原郡立高等女学校の一期生として入学した。寺町の宝光寺という大きなお寺を仮校舎としてとりあえず女生徒百人が募集されたのであった。校舎は二年後に尾ノ上町に新築されたという。百人の生徒の中、早生まれは一年生、遅生まれは二年生として発足した中に姉キヨノは一年生に入学したのであった。
 その後 四、五年して新潟と長岡にそれぞれ県立高女が新設された時に同じく県立新発田高等女学校となったそうである。母は十回生であった。もう県立高女となっていた。

 姉は物静で本が好きで又一人刺繍などの手芸を楽しむ娘であった。姉様といわれて女中さんや番頭さんから大事にされた人であったという。
 八歳下のシゲヨが私の母で、明治三十一年六月二十九日に生まれた。なかなかお転婆で元気が良くまるで男の子みたいだと云われて育った。女学校の頃の母は出来たばかりの県立高女の生徒であるということで なかなか威張ったもので、生来のお転婆娘でもあったから 肩で風を切るようにして行き復り闊歩したものであったそうな。当時の学校へ行く服装は エビ茶の袴の裾の方に山形に白線を入れたものをはき、白足袋に下駄履きで通学した。校舎の中は白緒の麻裏草履と定められてあった。課外でピンポンやテニスの指導もあったと聞く。

 長姉キヨノは女学校を終えると 成績優秀だったらしく、女学校の校長が訪ねて来て うちの学校の裁縫、手芸の先生として来てもらいたいとの話であった。祖父は即座にうちの娘は勤めさせませんと断ったそうである。昔は成績の良い卒業生は校長の判断で割と簡単に母校の教員として迎えられる事があったものだという。長姉はその上、東京の某美術学校へ二年程、主に手芸やデザインの勉強に行かせてもらった。祖父は大地主であった白勢家とはずいぶん親しいつき合いがあった。何軒もあった分家衆の中でも上屋敷の白勢家の主人とは肝胆相照らす仲であったという。東京駿河台にあったその別荘は普段はあいていて婆やもいるから自由に使ってよいとのことで、そこの一と間を借りて寝起きし、そこから学校まで通ったそうであった。

 末の妹はミヨシと云って五才下であった。色白で唇が赤く目は切れ長で利発な可愛い子であった。使用人からもミッちゃまと呼ばれて可愛がられ、番頭さんはよく「おっ母様、少しミッちゃまをお借りしますが」と云って街中を連れて歩いた。ある時は自分の子供の様なふりをして銭湯に連れて行った所、いい加減に飽き飽きした娘から「広川、うちへ帰ろう」と大きな声で呼び捨てにされたので主人の娘であることが仲間にバレてしまった。などという笑い話もあったという。この広川という番頭さんは実直で無口な人で旅暮らしの多かった祖父を援け、祖母の云うことも良くきいて仕事をした男であった。ずっと独身を通した人で竹町の近くに小さな家を借りて母親が居り、そこから出勤してくる通いの番頭であった。私が生まれた頃はもう年取ったので辞めて生まれ故郷の福島へ帰ったそうであった。

 白勢家の別邸を祖父は上京する度に宿にしていたのであったが、母達三姉妹はそれぞれ女学校を卒業すると一ヶ月程祖父に連れられて上京し、東京見物と称して遊ばせてもらったという。そして歌舞伎座、市村座、帝劇等、順々に見せてもらい、又三越、銀座のパウリスタ等連れて行かれた。又ミッちゃんは母の云う所によると一番遊び好きな子であったから、東京の外に父にねだって京都、大阪から、四国の金比羅様まで行って来たという。でも旅慣れている祖父は又人一倍せっかちな人でもあったからなかなか大変であった。着物は当時着慣れているとは云へ娘は帯も形良く結ばねばならず、髪を結ってお化粧するだけでも時間がかかるものだから帰ってからボヤく事、「お父っつぁんてば急かせてばっかりいるんだもん、もうこりごりだわ。」等と、自分からねだって連れていってもらったくせに文句たらたらだったと母は笑って話してくれた。

 又こんな話もきいた。新発田近郊の五十公野(いじみの)の大地主である相馬家に美しい娘さんが居て、母が女学校へ通っている頃 その人は俥に乗って毎日女学校へ通ってくるのであった。途中男子中学校の傍の道を通るので男の子達が「あ、相馬の娘が来たぞ!」と皆憧れの目で見たものだという。上級生になったある日(母は同じ組ではなかったそうであるが)習字の時間に教頭先生が案内してさる御大家の執事、奥様、姉様らしい人が三人教室へ入って来た。しばらく生徒の様子を見て出て行ったのであったが後にあれは縁談で本人の様子をこっそり見に来たのだと評判になったという。お目当ては相馬さんらしいということであった。母の記憶によると確かその時見に来られた家との縁談は血筋に結核のおそれがあるといって断ったそうで、他のさる御大家の人と結婚したそうであったが、やはりしばらくしてその主人は結核で亡くなったという。その頃結核で死ぬことは随分多かった。


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