はじめに

 手紙であれ、なんであれ文章を書くことが一番不得意であった私が、この年齢になってこの様な事を書いてみたくなった。自分でも不思議に思われる。

 昨年秋九十二歳になった母(杉浦シゲヨ)が かねて持病の心臓病の為に入院療養をした二ヶ月程の間 時々私は病室を訪ねた。母はトイレに行けないので病室で用便をする事に気を遣い、その為に個室に入れてもらっていた。他の人に気遣いがいらない代わりに 誰も話しかける人がいないので ついウツラウツラと眠ってばかりいるようになった。先生の回診、検温、給食、給薬等の外は つい目を閉じてしまうのであった。看護婦さんも忙しい中、時々声をかけて下さるのであったけれども。折角今まで長命を保ち 頭もボケないできたものを、この入院をきっかけにボケ老人になったら本人も 周りの私達も辛い事になると思って 三日に一度は昼過ぎから夕飯のお膳が出るまで私は話し相手をつとめに通った。妹は毎日朝から昼過ぎまで居てくれた。弟一家も東京から入れ代わり立ち代わり見舞ってくれた。

 母と私の共通の話題は自然に新発田の家の事に向かっていった。母は生まれ育ったあの家に三十六年間暮らし、私は十三歳になるまでそこで育った。祖父のこと、祖母の事を中心にうちの年中行事の事、母達三姉妹が育った頃の事、次々と母の思い出を引き出す様にきいてゆくうちに、ただ聞き流してしまうには忍びない愛着と感動が私の心に湧いて来て書き留めて置きたい衝動に駆られた。

 盆や正月の行事もなつかしく、今は行われなくなった事も数々ある。母が敬愛してやまなかった祖父母の生前の一コマ一コマを 母の思い出すままに忠実に写しておきたい。そして、私の子供時代のあの家で暮らした日々、庭のたたずまい、家の間取りまでも はっきり記憶が蘇る。暮らしに使われていた小道具、囲炉裏、鉄瓶、火箸に至るまで目に見える様に浮かんでなつかしい。この年齢になって何という事だろう。この年齢になったが故になつかしいのであらうか。すべてが去って行った人々であり、無くなったものであるからだろうか。

 母は驚く程昔の事をよく覚えていて事細かに話してくれるのであったが、何せ私はすぐ忘れてしまうので 帰ると忘れないうちに書き留めるのに一生懸命であった。録音するという手もある。要点筆記でも良いようなものであるが 何となく三十キロあるかないかという所まで痩せ細って弱っている高齢の母の余命を測っているような気がして そうする事が憚られた。まだまだ元気なときにそうすれば良かったと悔やまれる。今はあくまでもただの話し相手として聞く態度でいたかった。母の状態を思えばいろいろと話をきき出すにも遠慮があった。病状にさわるのではないか、また咳がひどくなるのではないか。

 話は母から聞いたものが殆どであり、私の子供の頃の竹町の暮らしの様子も覚えている限りのものであってフィクションではない。ただ、頭がしっかりしているとは思っても母は九十二歳の高齢であり遠い昔の話である。私は子供の頃のうろ覚えであるから正直に書いたつもりでも少しは思い違いがあるかも知れない。

 

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