『父と戦争』
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昭和14年3月5日 1939年 父は31才4ヶ月 写真のせいか、肥満のせいか、皮膚はピンとしていて20代にも見える。 お気付きだろうか、父は既に歯科医師になっていた。しかし、歯科軍医として従軍したわけではない。 おそらく歯科専門学校生の在校期間内に兵隊検査「甲種合格」。2年間の現役後、予備役となり、復学。(事実、3才年下の末弟・悌治叔父と同年に卒業している。) 卒業、修業、開業後 嫁を貰ういとまもなく応召。一般兵科として出征したのだ。 輜重科になったのは なんとなく分かる。 当時の日本人としては巨人に属する体格。歩兵などでは敵弾が当たりやすくて不向きなのだろう。戦車兵としては当然サイズが大きすぎる。 山本五十六の故郷であるからには 海軍という選択肢もあったかもしれないが、陸軍が兎に角 人員を多数必要だった。海軍も、軍艦搭乗員の総体重を気にして父への招集をパスしたのかも知れない。 そもそも、帝国陸軍では歯科軍医というものが当初無かったという。「明日 死ぬかも知れない兵隊の虫歯など放っておけ」ということなのだろう。後に歯科の軍医という制度が出来たらしいが、最高位限度が少将というもので、医科・薬科の最高位が中将 と比べても余り厚遇されなかったらしい。 歯科が軍隊で重要視されたのは朝鮮戦争の時の米軍からだということだ。「兵士の歯痛は腹痛よりも 銃の照準、志気などに影響が大きい」というリサーチ結果があったそうだ。映画「MASH」にも巨根のインポ「無痛屋」という歯科医が登場している。 歯科軍医ではなかったが 歯科医であった堀田中イは、たびたび師団の兵士の治療をしたという。 高度な治療器具が戦地にあるはずもない。殆ど「抜歯」だったという。今でも 付け焼き刃の治療を「野戦病院並み」と言う。 患者たる兵士は「巨漢で将校で歯科医」の父の前で縮み上がったことだろう。3っつの属性の内、一つだけでも畏怖に値するころである。 下の写真は帰還寸前の写真。第一ページにも大きいのがあった。 自分自身気に入っていたらしい。ほうぼうの親戚に配ったらしく、違ったサイズのが何枚か残っている。 陸軍の将校はいろんな物をぶらさげている。 左右に三つづつベルト・ヒモが見える。 身体の左側に下がる 結んであるヒモは鉄兜であろう。その下の幅の広いバンドは雑嚢。その下は双眼鏡。 右側(本人の)はピストルだけが確認出来る。南部式であろう。 16ページの写真から考えて、右の一番上のヒモは水筒か。 腰の二重のベルトの内 上の方は軍刀の為の物であろう。下の方の用途はうかがい知れない。もちろん、上着の下のズボンにもベルトがあったことだろう。そうでなければ この腹ではズボンがずり落ちてしまう。 応召から2年4ヶ月。 父は32才になっていた。 |
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