こんな事をしている内にいつのまにか最後の週が来た。
ある日、わが校全員は第2種礼装で校舎前に整列を命じられた。何か要人が視察に訪れると言うような事だったらしい。整列して待つ内に俺はその時まで経験した事の無いような鋭い痛みを上腹部におぼえた。同時に言い様の無い虚脱感と嘔吐感、排便感を自覚してヒヤ汗をにじませた。担当指揮官にその事を告げて隊列から外してもらい、そのまま転がるように校舎と道路を隔てた向い側にある事務棟のトイレにまろび込んだ。そこがいちばん近いトイレだったからだ。排便は真っ黒く 軟便だった。嘔吐感はあったが何も出なかった。トイレの床にしばらくしゃがんでいてから医務室へ行った。
診断は「胃潰瘍」だった。原因と考えられる状況はすべて揃っていたのだ。
@国家試験前後の運動不足の為 肥満していた俺は、減量のためごはんの量を極端に減らしていた。
A江田島に来てからの訓練で汗を大量にかき、胃酸の濃縮が起ったであろうこと。
B俺はむかしから胃酸過多であった。
C今までの「遅寝・遅起き」の生活から「早寝・早起き」の生活ペースに慣れなかった事。特に睡眠時間が短縮された事。
Dスキッパラにビールを飲む機会が多かった事。
などであった。
実は、入学1週間目ぐらいから胃部のチクチクするようないたみがあったのだ。そして、Mと I の勧めで毎日「サクロン」を飲んでいたのだった。しかし、こんなにひどい痛みは初めてであった。じつは、この時命も危なかったのだ。東京に帰ってからすぐに判明した。
後日談である。
東京の自衛隊病院に帰り着いた俺は 同寮の内科、外科、放射線科のゴキブリ医者どもにタカられて検査漬けに遭ったのだ。その結果分かったのが「ペルフォラチヨーン寸前のマーゲン・アルサーでもう少しでパンペリになるところだった。」というものであった。
放射線科の淫乱医者は俺のバリウム入りの胃のX線写真を看護学校の教材にしたいと申し出た。みごとな数ミリのニッシェがとても分かり易く教材としてうってつけだというのだ。俺は肖像権を主張したが認められなかった。内科の変態どもは俺の食道狭窄部に 内視鏡でゴリゴリと傷をつけたばかりか 俺が嘔吐反射でゲーゲーいっているのに順番にスコープを覗いては
「おい、どこにあったって?」
「あっ、あったあった!」
「どれどれ。」
「俺にも見せろ。」
などと検査時間をイタズラに長引かせた。とうとうMがやって来た。
「どーれ、うわぁ!すごいや、堀田センセ これ勲章モノだよ。見る?」
(「ぶわっかもの!終ったらはようぬかんかい。このサディストどもめ!!」)
俺は喋れないのでハラの中でどくづいた。そうこうする内に耳鼻科の鼻毛チンピラ医者までやってきた。院内のドクター全員に情報が流れていたのだ。チンピラは今、外来担当のはずである。長蛇の列を作って待つ患者様をほっておいてナンたることだ。なんと、こやつ笑いだした。「ハハハ、こりゃだめだ。最悪だ。」 な、な、なんてぇ奴だ。いくら友達でも今俺は患者なのだぞ。デ、デ、デリカシィちゅうモンが無いのんか、オノレは。
顔じゅう唾液と涙でどろどろになった俺は、「いつか きっと」と復讐を誓ったのであった。マワし(輪姦)とはこんな感じなのかとも思った。

そんな運命が1週間後に待っているとは夢にも知らず その日の午前中は予期せぬ休養をもらい、医務室のベッドでうたた寝をしていたのだった。医者に酒を止められ、睡眠を充分とるように勧告され、薬をもらって午後から教室に戻った。その日から1年間、「ストロカイン」と「ゲファニール」は俺の常備薬になった。「タガメット」はまだ発明されていなかった。
|