江田島

7.堀田中尉潜水艦内にこける


 訓練の日課の間に、呉の衛生隊と護衛艦、潜水艦見学のコースが設定されていた。伊東3佐に連れられてピクニック気分で出かけたのだった。
 衛生隊の見学などは はなから我々の眼中には無く、初めて見る護衛艦、潜水艦への期待で胸イッパイだったのだ。護衛艦の名前は残念ながら忘れてしまった。「××くも」という「くもクラス」の護衛艦だった。各護衛艦には名前がついていて、同型艦には同じ語尾がつくのだった。たとえば「あさぐも」「むらくも」「しらくも」などである。 

「××くも」の一室で講義を受けた。護衛艦であるから 積極的な攻撃兵器は対潜水艦用のものであった。即ち駆逐艦なのであった。艦の兵器担当士官(正式の名称は忘れた)が得意そうに説明をしている時、I が突然変な発言をした。「そんなヘッジ・ホッグなんてアメリカ海軍ではもうとっくに時代遅れのしろものなのに なんで今更護衛艦に装備するんですか?」 I は変なところには やたらと詳しいのであった。士官の顔色はパッと土気色に変わり 表情は硬くこわばった。I の銃殺を免れるために 咄嗟にMが助け船を出した。「まあ、自衛隊の予算も限られていることもあるし、実戦で使われることは殆ど無いんだから 潜水艦に対する抑止力としては充分じゃないの。」講義はそそくさと終ってしまった。 

 艦内の廊下を歩きながらMが俺にささやいた。
 「ったく、あんなこと言う奴があるか。一瞬ひやりとしたよ。」
 「おれも・・・。」
艦内の通路の壁のいたるところに斧が取り付けられている。緊急用だそうである。どのような緊急の場合が想定されているのであろうか。ひとつはずして I の後頭部にお見舞いしてやろうかなどと感じたのであった。 

 やがて、士官食堂に案内されて そこで昼食をいただいた。専用の給仕(2士の自衛官)がいて 食器の上げ下げから食後のコーヒーまでサービスしてくれる。なんだかわるいようだ。軍艦に限らず 船というのは一般社会よりも露骨な階級差別があるものなのだ。ましてここは階級社会の最たるもの 軍隊(自衛隊)なのだ。食事の内容は 我々のための特別なものでは無いそうだが、かなりイイものを喰っているなぁ という印象だった。 

 潜水艦の名前は 型式にかかわらず「××しお」というそうで、我々の見学した潜水艦も「××しお」という名前だった。(細かいことを忘れてしまっているのはかえすがえすも残念だ。)潜水艦の内部は予想どおりかなり狭いものであった。護衛艦に比べて通路の天井も低い、幅もとっても狭い。隔壁の所ではずうたいのでかい俺はちぢこまらなければ通れないのだった。ちぢこまったまま士官食堂に案内された。
いわゆる「コンパ」のボックスシートのようなかんじで、奥に詰めて座った者はしょんべんにも行かれない構造だ。閉所恐怖症のケがある俺にはとっても勤まらない場所であった。陸、空に比べて海上自衛隊の敬礼の肘の上げ方が狭い理由が分かった。しかし、エアコンは完ぺきに効いていた。狭い艦内では隊員の出す体温と二酸化炭素と湿気と屁と口臭を随時除去していなければ すぐに反乱が起きるほどに不快指数が上昇するであろう事は用意に推測できる。潜望鏡などのある指令室の見学もそこそこに 我々は再び真っ青な瀬戸内海の初夏の空を仰いで大きく深呼吸をして ホッとしたのだった。  


 3週間目の水曜日、担当教官殿の官舎に招待された。伊東3佐は営外に家庭を持っておられる。そこではない。中津2尉の単身赴任将校用の営内官舎である。予め予期していたが 全く女っ気の無い家というものはかく有りなんという住宅だった。デコレーションが全く無いのだ。ちょっとした花とかのれんとか、人形とかの類の物は全く無い。殺伐とした・・という表現が当てはまるだろう。米軍の接収時代を経ているので 窓枠などにはやたらにペンキが塗ってある。が、その後の改造で畳の部屋は充分にある。
持ち込んだ一升ビンを飲んでいると教官殿達が台所に入って何かしている。伊東3佐も中津2尉も「遠航」と「南極」を経験している。男所帯の手料理は得意なのだ。見事な刺身である。荒々しく雄々しい瀬戸内海の刺身である。「わさび」よりも「しょうが」の方が似合うのである。ビールよりもお酒が似合うのである。
そんなわけで ガンガン飲んだ。全員ベロンベロンに飲んだ。 

 中津2尉が俺に聞いた。
「堀田中尉は出身はどこでありますか?」
「や、やっ、山本五十六元帥の出身校であります!!。」
「ならば 長岡中学でありますか。」
「はい。その伝統を継いだ長岡高校であります。」
勿論、彼は俺より年上であったが 教官殿も一介の自衛官に戻ると 同等の官位の者に対しても 礼を失さない発言をするのだ。あっ、そうそう、伊東3佐も中津2尉もけっして我々の階級を「2尉」とは呼ばなかった。「中尉」と呼ぶのであった。旧帝国海軍に憧れるアナクロ人種なのであった。
そのことを指摘すると中津2尉の答えは、「中尉」の方が言い安いからだということだった。
用語の懐古傾向はこの学校周辺の住民にも普遍的で、「海上自衛隊幹部候補生学校」などと言う人はいない。「海軍兵学校」と呼んでいるのだった。 

宴は夜の闇とともに高まって行った。 

 俺は普段でもめったにカラオケはしない。酔って歌うことは殆ど無い。が、その俺が先頭になって歌ったのだ。軍歌だった。小学校6年の時に”The Baetles"が流行り始めた。"Beach Boys"も聞いた。そのほか" Dave Clark Five" " The Animals" " The Rolling Stones" もファンだった。そんな俺も小5以前は日本の歌しか知らなかったのである。そして、明治生まれの父と 大正生まれの母からじかに教わったのが「軍歌」だった。
小学校低学年を馬鹿にしてはいけない、その頃に耳から覚えた歌は一字一句間違えずに覚えているのだ。
「水師営の歌」「愛馬行進曲」「軍艦マーチ」「加藤隼戦闘隊」「ラバウル小唄」などをいっきょに歌った。これがアナクロ教官殿にいたくウケた。今や どんなT.P.O.で歌ってもシラけるだけの歌であるが、このTime Place & Ocasion ではもっともピッタリくる歌なのであった。

 カラオケ好きな人には分かって貰える事と思う。飲んで歌うと酒がまわり易いのである。俺が殆どの軍歌を熱唱したため 他の医官候補生はいざしらず俺は ベロンベロンに酔っぱらってしまった。その夜の途中からの記憶が全く欠如してしまった。 

 翌日の点呼では半分眠っていた。腫れぼったい目をして我が分隊が朝の授業に集まると、中津2尉が颯爽と現われて言った。
 「いゃー、夕べは堀田中尉のおかげて盛り上がりましたなぁ。」


目次に戻る     次へ進む