訓練はえんえんと続いた。
行進訓練。
これは 鉄砲を担いだまま指揮官の号令の通りに隊伍を崩さずに行動する訓練であるが、ひとつ変わっているのは 候補生が順番に指揮台に上がって号令を発することである。指揮官養成所としては至極当然の教科である。
場所は校舎に囲まれたグラウンドである。やってみると分かるが、なかなか思う通りには行かないものである。号令の種類にもいろいろあり 行進も一列だけでなく並列で進む場合もあるのだ。何でも好きな号令を発していいということだった。何と言おうかまごまごしていると 隊列は砂場を乗り越え校舎の軒下にぶちあたってしまう。もごもごと言語不明瞭な号令では隊伍がばらばらになる。他人を思い通り動かすというのは大変な事なのである。
登山訓練。
登山と言うよりもクロスカントリーであった。学校の裏山は古鷹山という標高三,四百メ
ートルの山である。その頂上まで走って登るのである。帝国海軍の時代からこの訓練はあるそうで、ある有名な戦時中の将軍は候補生時代の一年間に在籍日数よりも多い400回以上もの登山を成し遂げてこの学校の記録保持者だそうである。毎年この記録に挑戦するモサがいるそうで、今年も何人かが自由時間と休日を返上して挑んでいるそうだ。
登りはじめて分かった。毎日多数の訓練生が通るので土の所はツルツルしている。従って山の中で道を間違うということは無いが、道路整備は全くなされていない。手を使わなければ全く前に進めない所も数々ある。クロスカントリー+ロッククライミングだ。
ちょっとでも登りの坂を走った事がある人には分かって貰えるだろう。それはとってもコタエるのだ。百メートルもしないうちに息が切れ始めた。いちばん続いたのはその時の教官殿の中津2尉だった。30代中頃の教官殿は何回も経験があるという地の利を差し引いてもや はりタフである。色の浅黒い小柄な教官殿はその歳で2尉であるからもちろん「たたきあげ」である。20代中頃の我々を後目にトットッと軽いステップでどんどん登って行ってしまった。
それに一番最後まで付いて行ったのは やはりMであった。どこまで走り続けられたのかは知らない。Mの次に
I と俺が山頂にたどり着いた時にはMと教官殿は何事か楽しそうにお話されていた。Aを待つ間にさきほどの逸話を拝聴したのだ。かわいそうなAは 山頂の景色を堪能しながらひと休みすることも出来なかった。すぐに下山の号令が下ったのだった。
内火艇訓練。
これは面白い訓練であった。いわゆる小型ランチを操縦するのであるが、単に一人で操縦するのではないのが江田島らしい。指揮官役が付くのである。「艇指揮」という。そして、蛇輪を握るのは「操舵手」という。別に指揮官に命令されなくても操縦席から前が良く見えるのであるが 指揮することの訓練ということでそれに従うのである。
「おもーかーじ」と言う。決して「おもかじー」とは言わない。英語のイントネーションをまねているのだ。”STARBOARD”右に舵を取れということである。「とーりかーじ」。同じく”PORT”左舵である。
これは以前は船が港に停泊する時は決って左舷を接岸させていたなごりだそうである。右舷の彼方には星”STAR”が見えたのだろう。
艇指揮を無視しても必死に艇を接岸させようとするが、なかなかスムースには出来ない。「へさき」を突提にぶつけたり、突提に艇尾を向けて離れてしまったりする。車の運転とは違うのだ。「イキアシ」を計算に入れて早めに「アテカジ」と「コウシン」をする必要があるのだ。(用語説明:「イキアシ」とは惰性と言ってもいい。なにせ下は水なのだ。ブレーキをかけてもすぐには止まらない。蛇輪をきってもすぐには曲がらない。このことを「行き足」と言う。「アテカジ」とは”counter steering”のことである。四輪ドリフトなどというわけにはゆかない。下は水である。「当て舵」という意味だろう。右にきっても暫くは今までの勢いで左に周り続ける。「コウシン」は「後進」のことだろう。「ブレーキ」が効かないからバックギアに入れて「行き足」を止めようとするものだ。)
悪戦苦闘しながら全員でそれぞれの役目を練習した。
「後進いっぱい!!」「とーり舵・・あっ違ったおもーかーじ!!」「ああーーっ!!」「ドッスーン!!」
突提、内火艇ともに吃水線の所にはゴムタイヤが吊してあったのでどちらも壊さずに済んだ。
最も楽しかったのが「ヨット訓練?」であった。
本来はこんな教科は無いのであるが、「漕短艇訓練」をするには我が分隊の人数が少なすぎるので 短艇をヨットに代えてくれたのである。そして、教官殿はこの訓練に関しては全く口を挟まなかった。特別教官がいたのだ。Mである。なにせ日大医学部ヨット部キャプテンである。我々(俺とAと I )にあたかも名前だけに憧れて入った新入部員に対してヨットのノウハウを教えるかのごとく優しく懇切丁寧に御教授下さったのだ。「タック」とか「ジャイブ」とか「ウィンド・ア・ビーム」「スピン」「チン」などの用語もこの時教わった。
江田島湾の沖のブイを行ったり来たりするだけの間に 俺はもうイッパシのヨットマンになったような気がして、派手にオーバーハングしたり忙しくラインを引き込んだりしていた。
が、今思うとなんにもできないのだ。だいいち艤装のしかたも知らないのだ。せっかく教えて貰った「もやい結び」の方法も今ではすっかり忘れてしまった。
ただし、最も理解したことは俺のような体重の多い者が乗っていると その重さゆえにただそこに居るだけで艇のバランスが左右されるのだ。従ってMと
I ,またはMとAが組んだ時にも 俺はじっとしていられない。Mの指示に従って「前だ!後ろだ!右だ!今度は左だ!」とデッキを這って動き回らせられた。這っていた理由はセイルのブームが横殴りに飛んでくるからである。俺は「動く重石」(walking balancer)と呼ばれた。
そんなわけで、今でもバランサーぐらいの役目はできるほどの体重は維持している。(不本意ながら・・・。)
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