江田島

5.し・死ぬぞっ


 江田島で一番ヤバイ訓練だと聞かされていたのは 消火訓練であった。
消火ホースを持ったことをある人は御存知であろうが その水圧は凄いもので、ひとたび手を離してしまうとまるで手負いの八股のオロチのごとくクネクネと暴れ出すのである。
従って、比較的体力のあると思われる俺がその「筒先」という役を仰せつかった。部隊は先頭4人が衛生課幹部候補生、もう3人の候補生がその後方のホースを支えるという布陣であった。さらに、かわいそうなことに一人の候補生が指揮官として「筒先」の脇に居て指示を発するのであった。

 教官に手渡された防火頭巾はまるで「股が別れていないズロース」みたいなもので、布を濡らして鼻の上、目の下にゴムが通るよに口と鼻を覆う、という簡単な物であった。あとは、防火ヘルメットをかぶり、厚い綿の防火服を着て頭から水を浴びるだけだ。そして、重油による火災を水だけで消すということであった。俺も最初は信じられなかった。
 この方法は太平洋戦争中 米海軍が採用して非常に有効だったそうだ。
重油が燃えるのは周囲の温度が上がるからであり、延焼を防ぐには火災現場の温度を下げればいい、という理論であった。そのためには水を「水霧」の状態にして火元周辺の温度を下げることが有効である との対策が考案された。そしてその「水霧」切り替え装置は「筒先」のH型のレバーを満身の力を込めて引き起こすことによって作動するのであった。

 江田島の消火訓練場は 射撃訓練場からほど遠くない海岸の平地にあった。
最初は直径10m高さ1.5mの円形のプールの火災を消す仕事であった。水をはったプールになみなみと重油が注がれて火がつけられた。たちまち重油火災独特の紅蓮の炎と真っ黒な煙が音をたてて立ち昇り、見ている我々を不安にさせた。ナパーム弾の炎だ。2チームで両側から迫る作戦であった。
最初の候補生の2チームが突撃して行った。まず、自分達の方向に向かって来る火炎に対して「水霧」を浴びせ、そのまま突進してプールの縁に達すると火炎全体に「水霧」をまんべんなくほとばしらせ、火炎が劣勢になったと見るや シャワーで水面を掃くようにしてその温度を下げ、あれよあれよという間に1分足らずで消火してしまった。

 なんだ、意外と簡単なんだなぁ。などと言っている内に第2陣が出撃した。今度も割合簡単に消火してしまった。何組目かのチームは「筒先」がホースを取り落としてしまい、暴れのたうちまわるホースに追い回されるという失態を演じたが、大抵のチームは無難に訓練を消化していった。最後に我々のチームであった。

 楽観はしていなかったが さすがに目の前にゴウと迫る火炎には 言葉で言い表せない凄味があった。指揮官から「水霧!」の号令があって、俺はH型のレバーを垂直に立てた。
左手はホースを握ったまま左の腰に当て、右手で筒先の金具を握り 顔の前に持って、上半身を90度近く前傾させて、H型レバーの間から前方を見る、というポーズをとった。
水の方向を変えるときは躰ごと動かすのだ。「前進!」の号令がかかった。「水霧」の傘に守られて我々は長崎の大蛇踊りの様に前進した。「水霧」のおかげで殆ど熱さは感じられない。地獄のような劫火も2,3度ホースを振るとたちまち元気がなくなり、あとは水面にチロチロと燃え残る火を掃討するだけだった。

なんだ、楽勝ではないか。なんでこんなものがヤバイなんて先輩は言ったのだろう・・。

「これから、消火訓練の本番を始める。」教官殿が嬉しそうに宣言した。
やっぱり、まだ何か有ったのだ。「これからはこうは行かないのだぞ!」と言う宣言なのだ。

 第2ラウンドが始まった。火災現場は実際の艦内火災に模した ブロック作りの建物だった。
縦横20〜30m位の長方形の平屋の建物で、屋根はまん中があいていて、入口は二つ、入口までには 数段の手すりのついた階段を登らなければならない。図のごとき構造であった。
で、どこが艦内に模してあるかというと、床 すなわち足元であった。機関室に模したに違いない いわゆるキャットウォークになっていた。要するに鋼鉄製の金網が張ってあった。
その下は30cmぐらいに水面があって、もちろん、その水面にはなみなみと重油が注いであるのだ。そして、そこに火をつけるのだ!。そして、さらに、我々はその火を消しながら図の矢印のごとく進んで「火元」を消火するのが任務とされていたのだ
例によって2チームで2つの入口からそれぞれ進軍するという作戦であった。
だが、図の迷路は予め公表されてはいない。燃え盛る火炎と戦いながら道を探すのだ。

ブロック小屋に火が投入された。ボワン!という爆発音とともに 2つの入口と屋根の穴から真っ赤な炎と真っ黒な煙が吹き出した。
第一ラウンドのように炎の横から火を消すのではないのだ。炎の上から消さなければならない。残り全員の見守る中で最初の部隊が進撃して行った。

 まず、入口で難航していたが やがて入口から吹き出す炎が下火になると内部に突進して行った。屋根からの炎はいっこうに衰える様子はない。まもなく、中から怒号と罵声が聞こえて来ると 入口から赤い炎がチラチラ、ゴワッと現われた。外で遠巻に眺めていた残りの候補生は「おおっ!」と言って腰を浮かせたのだった。
怒号と罵声がいっそう激しくなると、やっとすべての火が下火になり煙だけがしばらく続いたが それも薄れると2つの入口からゾロゾロと先発隊員が無事な姿で現われた。その間約3分ぐらい。
みんな目をショボつかせている。息が荒い。しきりに目をこすっている。近くに来た隊員に「どうだった?」「やばいのか?」の質問が矢継ぎ早に発せられた。先発隊員は全員興奮兼虚脱状態。答えがまともな言葉にならない。この世の地獄を見てきた表情だ。ひとりが言った「まつげが燃えた・・。」と。

 そして、我々衛生課幹部候補生部隊の順番が回ってきた。
例のズロースのできそこないをかぶり、防火服と防火ヘルメットを被り直して、俺の持つ筒先からのシャワーを我が隊全員に浴びせた。
階段下に取り付いて待つ。間近で見ると、重油の炎は入口から真横に向かってゴウゴウと音を立てている。指揮官の「前進!」号令も聞こえづらい。まず、入口付近の炎に水霧を浴びせ、これを撃退すると 顔,躰は陰に隠れたまま筒先だけを戸口に入れて 中に向かって放水する。ぐるぐる回しながら充分に放水して侵入路全体を冷やす。これはうまくいった。
すぐさま指揮官殿の号令だ。「3歩前進!」。先頭はもちろん俺だ。指揮官は俺と二番手のMの間、即ち、俺の右肩の後ろで号令しているのだ。ブロックの建物の中は壁が黒い。水霧が当たってもとれないススだ。
通路の突き当り付近にはまだ残り火なんて物ではない劫火が生き生きとして燃え盛っている。
そして、足元は湯気のたつバーベキューの金網だ。所々チロチロと水面、壁に残った温度の高い重油が燃えている。指揮官は、まずそれらを掃討するよう指示を出した。教官殿の教えの通り冷静だ。生き残ったら良い士官になれるだろう。

 命令どうり行動しながら奥へ、突き当りまで進んだ。先頭の俺は水霧の傘とそのはねっかえりで火炎からは充分に守られている。指揮官と二番手もそうだ。
通路を折り返す手前で我が隊の後方から悲鳴があがった。突き当りの付近を掃討している間に横のグリッドの下の水面を這って引火した充分に熱い重油が我が隊の後方を襲ったのだ。
三番手以後の全員がバーベキュー網の上の生きた海老のように踊っている。突然俺はパニックになった。指揮官が何を叫んだかもう聞こえない。振り向きざま「水霧」を彼等の足元に充分にお見舞いした。その火はすぐに消えたが、いま来た方向にまっすぐ戻るという愚を犯したのだ。ホースが折れて水流は弱り 通路の折り返し点に残された指揮官はまだ燃え残っていた重油が火勢を取り戻した瞬間から もろにバーベキューだった。慌ててホースを立て直し通路の折り返し点を水霧でカバーした。指揮官殿は生きていた。

 気を取り直して折り返すと、次の突き当りまでは慎重に進んだ。前線と後方に同様な気配りをしなければならない。指揮官の教育としては最高の教材である。
もう何が何だか分からない内に最終目標の火元に「集中水流」を浴びせた。
 反対側の入口から入った部隊の「筒先」といつのまにか肩を並べて放心したようにつっ立っていた。どちらからともなく力弱く握手した。炎はいつのまにかすべて消えていた。
30分もかかった様な気がしたがおそらく数分だったのだろう。

 外に出ると初夏の日差しがまぶしい。
指揮官役の候補生に謝ろうと振り返ると、彼は無言で焦げた「まつげ」をこすっていた。


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