江田島 

3.登場人物


 自衛隊の階級について説明しておこう。旧日本帝国陸・海軍の位と比較してみよう。  

 三士・・・二等水兵
 二士・・・一等水兵
 一士・・・上等水兵
 士長・・・水兵長
 三曹・・・二等兵曹?
 二曹・・・一等兵曹?
 一曹・・・上等兵曹?
 曹長・・・兵曹長?
 准尉・・・?少尉と軍曹の間の地位。
 三尉・・・少尉
 二尉・・・中尉
 一尉・・・大尉
 三佐・・・少佐
 二佐・・・中佐
 一佐・・・大佐
 將補・・・少將と中將。海上自衛隊では「海將補」という。
 將・・・・大将。海上自衛隊ならば「海將」という。

 我々は海上自衛隊の二尉、二等海尉ということになる。空ならば二等空尉、陸ならば二等陸尉という具合いだ。将校に関して言えば、大が一に、中が二に、少が三になっているのだ。
すると、あのサンダース一曹の上官は ヘンリー三尉となるのか。我々よりも位が低いではないか。


我々、衛生課幹部候補生は4月の入隊と同時に一曹であり、
国家試験合格と同時に二尉になっていた。
従って肩章は 黒地に金の桜、金筋が細・太の2本である。


他のおおかたの候補生は防大ないし一般の大学をでたばかりの
純然たる幹部候補生で、肩章は黒地に錨と細い金筋が1本である。

 初日から授業が始まった。「戦史科」は面白かった。日本海会戦の実写フィルムを見せられた。まあ、日本海軍が誇りに出来るのはこの会戦だけだったであろう。もうひとつの大勝利、真珠湾作戦は 戦後の日米安保の体制下の自衛隊では声高に語りづらいのであろう。
マル秘資料も授業の教材となっていた。授業の開始時に配られて、終了時には教室入口の鍵のかかった木箱のポストに返納しなければならない。内容はここには記せない。どうせ衛生課である。たいした機密を教えてくれる筈がない。

 しかし、それまで全く知らなかった日本周辺の軍事的状況は 我々一同を驚かせた。
「瀬戸内海には 太平洋戦争中にアメリカ軍が落した機雷がまだ数百個もあって、そのための掃海作業は 海上自衛隊の主な任務のひとつである。」「その為か、日本の掃海技術は世界でも屈指のものになった。」とか、「朝鮮、対馬、津軽、宗谷の各海峡は日米安保条約で自衛隊の監視受持ち海域で、津軽海峡ですら年に何回か、ソ連潜水艦は潜航したまま通過する。」「一年に360回以上のスクランブルがあるほど、日本の上空にはソ連機が飛び回っている。」とか・・・、こうして、何の政治的意識も持たないノンポリの若者を洗脳して愛国精神に目覚めさせるのだろうか。
我々衛生課幹部候補生はその様な方面には全くと言っていいくらい無知であった為、生徒からは積極的な発言も殆ど無かった・・・。

 しかし、我が隊にひとりの変人がいた。I である。
俺(東京歯科大学)、M(日本大学医学部)、A(慶応大学医学部)、3人は私立大学出で ある。現実主義者で頭は柔軟である。(国立大卒の先生ごめんなさい。)

 I (信州大学医学部)は国立大学出である。非常にウブなのであるが、変な分野にはやたらと詳しい。国立大出であるからもちろん頭はいい。(私立大出の先生ごめんなさい。)

 国民の税金で勉強してきたはずなのに、愛国心は薄い。志願して自衛隊に入隊したはずなのに、文句ばかり言う。何事にも懐疑的であるが、代案は全く考えもつかず、難解な事を言うが、行動には出ない。・・・ここまで見ると非常にイヤな奴に思えるが、個人的につき合うと控え目で、賢く、かわいげのある奴であった。

 こんなふうに書いてはいけないのだ。I は大学入学前に1年浪人している。俺よりも年上なのだ。しかし、I はいつも俺を「サン」付けで呼んでいた。俺が「俺の方が年下なのだから、そのサンはやめてくれ。」と言っても聞かなかった。I は俺の中に何か尊敬に値するものを感じ取っていたのか、ただ単に俺がデカいからだけなのか今だに分からない。

 I は何かにつけて教官が返答に困る様な質問をした。I の授業態度に対して、なだめ役にまわったのが俺とMだった。

 M は俺より2才年上で日大医学部ヨット部の部長をしていたというツワ者で、学生時代から東京を離れた海岸で合宿しては 情婦を寂しがらせていたというオトコであった。メカにはめっぽう強く、俊敏ではないが腰が強く(ヨットマンは大抵そうだとMが言った)、規律には厳しかった。日大の運動会系の常としてMも俺に言わせれば愛国者であったのだろう。俺とMは息が合った。

 統率力に欠けるAに代わってMが我々のリーダーとなりそうだった。現に、俺は今でもMがあの1ケ月の実質的リーダーだったと思っている。我々の監視にあたっていた連中もそう思っていたらしい。

 我々の監視をしていたのは前述の2尉、3佐の教官殿ではない。我々といくらも年の差の無い「幹事付」という不幸な役命の2尉達だった。「幹事付」はふたり居た。松若2尉と竹内2尉だ。彼等の仕事は 我々に限らず候補生の日常を取り仕切ることであった。海軍将校としての規律を叩き込むことであった。実際、我々はよく叩かれた。彼等は自衛艦隊の優等生であったのであろう。ふたりとも、何時見ても、きびきびとして精悍で、制服がよく似合った。

我々、だらしない衛生課幹部候補生の入校した日から彼等の不幸が始まった。
彼等は我々にも増して我々の無事卒業を願っていた事だろう。我々(お荷物)が入って来て、出て行くまでの1ケ月間は彼等自身の試験期間でもあるのだそうである。分かるような気がする。1年間を訓練する大学卒よりも1ケ月しか期間のない軍医候補生の気まぐれな奴らに振り回されるのは不快であったに違い無い。ここに場を借りて彼等にお詫びとお礼の言葉を献上したい。

 そして、我々衛生課幹部候補生の残り3人も持て余したAがいた。慶応義塾大学医学部卒業の小児科の医師であった。やはり2浪していた。
自衛隊の医官に小児科が必要か?・・と俺に聞かれても困る。俺に言えることは、自衛隊病院では防衛庁と防衛施設庁の健康保険が使えると言うことだ。もちろん、家族もいる。だから、婦人科の医官だっている。
 まあ、そのAだ。その体型は撫で肩、身長は165pくらい、細面で、眼鏡使用、歯はむちゃくちゃに悪く、(これは、俺がじかに見た。入校時の身体検査の時、歯科医師が江田島にいなくて 俺が全員の歯科検診をしたのだ。)言語不明瞭で、運動神経皆無、酔うと大ボラ吹きで、しらふの時はいたっておとなしいという 全くこの学校には不向きな人材だった。

このひとが我々の隊の最先任士官だったのである。

俺は気楽な先任順位3番目(下から2番目)だった。


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