★第十一章〜与那国紀行〜★

【1】
 今度は最西端の島、与那国島に向かう。写真は東崎灯台。
【2】
 ハガキは私が帰ってからの、自称・売れない作詞家イマさんからの便り。
【3】軍艦岩をバックに。
 石垣島での情報では、与那国島での宿泊は民宿「どなん」を奨められていた。なんでも新潟の人が経営しているらしい。そこで宿泊をして島内観光を楽しんだり、同じ内地からの連泊客のイマさんたちからダイビングを教えてもらっていた。
【4】
 4月から海岸で焚き火をしながら、民宿の連泊客でスキン・ダイビングをしていた。この頃のみんなは、どうしているのかな〜?
【5】民宿「どなん」での宴会。
 毎日、ダイビングで採ってきた夜光貝・シャコ貝・魚で宴会をしていた。新聞も雑誌も無く、情報源はNHKテレビと新しい内地からの旅行者だけだった。内地からの旅行者を空港や港まで迎えに行き、民宿の客引き?もした。この頃、ピンク・レディーのサウスポー?だったかが流行っていたらしく、踊ってくれた学生には感激し、宴会も盛り上がった覚えがある。
【6】
 港に客引き?に出かける。この日の客のWケイコが、しばらく民宿を盛り上げてくれた。
【7】海岸の牛の塗擦場にて。
 この民宿のオーナーである加茂市出身の加茂さんが、島で土木作業に従事し、奥さんが民宿の経営をしている。資金もそこをついた頃、「土木作業に行くのなら。宿泊代を3食つきで1,500円にしてくれる。」という。
 即座にアルバイトをはじめた。アルバイトから帰るとそのまま海に行き、晩飯(宴会)まで海に入っている毎日だった。バイト料金は4,000円くらいだっただろうか。島では裸で土木作業をしては、波多浜で泳いで帰った。
 アルバイトをはじめて数日すると、「年度末の工事が終わったので、子牛をつぶして、午後からお祝いをする。」という。午後から牛の解体を手伝い、記憶が無くなるまで飲んだ。この時、初めて牛刺しとレバ刺しを口にした。...美味かった...。
【8】送別会。
 写真に映っているカレンダーを見ると、1978年5月18日の事らしい。
 「どなん」に2ヶ月くらい滞在しただろうか...。社会復帰を目指し日本最西端の島から、新潟に向かって出発する決意をする。仲間が送別会をしてくれ、朝まで飲んでいたような気がする。
 俊二、サム、Wケイコ、MM、ドット...みんな懐かしい。みんなニックネームで呼び合い、私は「オジヤ」と呼ばれていた。
 お〜い、みんなどうしてるんだ〜。近況を知らせてくれよ〜!!!
【9】ダイビングの先生、イマさんと。
 イマさんからはダイビングを教えてもらい、ダイビングの戦利品で毎晩のように飲んでいた。
【10】与那国島。最初の見送りダイブ。
 北海道の礼文島だったと思うが、見送りの民宿のスタッフが堤防から飛び込んで見送ってくれていた。ここ与那国島ではイマさんとサムが船長に話しをつけてくれ、私が乗っている沖縄本島に向かう船に乗り込み「与那国最初の飛び込みじゃ〜。」と、飛び込んで見送ってくれた。岸壁ではさっきまで飲んでいた民宿の仲間が見送ってくれている...。
【11】那覇空港で、ドットさんと恵美ちゃんと。
 与那国を出てからも那覇空港をベース基地にして、本島をウロウロしていた。黄色のシャツを着たドットさん(故人)は、某旅行会社の添乗員だったとか。私に日にちを指定してきて落ち合い、何回もあちこちの軒下に泊まって飯を食ったり酒を飲んだ。
 ドットさん曰く「こんな旅行は初めてだよ。オジヤと一緒だと金が掛からなくていいよ。」と言いながら、世良正則とツイストの「宿無し」ばかりを歌っていた。
【12】那覇空港で、Wケイコを見送る。
 与那国島からWケイコが大阪に帰ると言うので、那覇空港で落ち合い、ドットさんと恵美ちゃんらと見送る。私が「大阪まで2時間で帰れるんか〜。おれは自転車で3ヶ月も掛かって新潟に帰るというのに、飛行機は化けもんだな〜。」と言うと、「オジヤの方が化けもんだよ。」と言われてしまった。
【13】与論島へ
 みんなをそれぞれ見送ったあと、与論島に渡っている。チケットを見ると密航ではなく、1978年6月1日に鹿児島に向かっているらしい。
【14】記憶にないが、ここはどこだろう...?
 世論での1ショットだけど、記憶にない。周りを見ると浜茶屋みたいでもある。与論バージョン「蟹の家」かな...?こんな所にも泊まっていたようだ。