★第一章〜序の口である。〜★

 30数年前の中学生の頃、母に連れられて本町に買い物に出かけたときのこと。
ちょうどその日が成人式だったため、晴れ着を着た女性が体育館の方へ歩いていた。
この時、母が言った「成人式の着物を見ていこう」の一言が子供心にも“成人式は着物の見せ物”というイメージを持ってしまった。
 それ以来、生意気にも「自分は成人式の見せ物にはなりたくない」と考えるようになり、自分の成人式が近づくにつれ、“何か面白いことはないか”と考えてみるがそうそう思いつくものでもない。

【1】
 当時、週刊漫画の少年キングに「サイクル野郎」という自転車で日本一周をする連載物があった。
とりあえずこれを真似てみようと、5万円くらいで自転車とテントとキャンプ道具を買い込み、1976年5月の連休に雨の中を成人式の代わりに、4泊5日の房総半島一周の旅に出た。
【2】
 千葉県では雨の中を公園の休憩所やバス停、公会堂の玄関先などで雨をしのぎながら泊まっていたが、暗くなっても良い泊まり場所が見つからない日があった。道行く人に泊まれる所はないかと訪ねると「あそこのお寺なら泊めてくれるはず」と紹介され、暗い山道を、腹を空かして因幡晃の歌を口ずさみながら自転車を走らせた。
 お寺の住職に泊めてほしい旨伝えると快諾してくれ「今日は檀家が集まり断食修行をしている」と、広いお堂に案内してくれた。バックの中には食料が入っているが、食べるわけにもいかない。布団の上で横になれたのは良いが、空腹と疲労で眠れない。その上、朝早くから太鼓を叩いてお参りまでして来た。とりあえず水を飲み、お参りが終わったら逃げるように寺から飛び出した。
【3】
 房総半島から帰ってくると満足感に浸り、連休になると取りつかれたようにあちこちに出かけた。日光へはいろは坂を登り、工事中で通行止めの山王林道から川俣温泉に抜けたが、道に迷い、雨と寒さで死ぬ思いをした。
【4】
 富士五湖を巡り、奥多摩あたりを走った時、青海街道の柳沢峠の厳しさには参った!「何でこんなバカなことを始めたのか」「こんな所に、二度と来るもんか」と心に決めた。
 しかし、峠の食堂で食べたカレーうどんは美味かった。
【5】
 1976年8月。10連休のお盆休みに、自転車で新潟に帰ることを決意。
 バイトを終え、バイト先の友人達と飯を食べ、午前零時に見送られて出発する。名古屋・京都・滋賀と順調に走る。しかし、よく考えてみると、新潟に背を向けて走っていたことに気がついた。そしてやっと新潟に向かったのでした。
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【6】
 日本海に抜けてからがいけない。も〜雨の連続。公園が見つからず、夜中に漁船の小屋に黙って泊まりこんだ事もあった。小屋は魚の腐った匂いとゴミだらけ。おまけに体はびしょ濡れで泣きたくなった。
 それから能登半島は、大雨で道路の通行止めに出くわして、足止めを食らうなんてまだましな方だった。親不知では道路決壊のため完全に通行止め。他のサイクラーやバイクが引き返していく。冗談じゃない!今日中に家に着けるのに...。近くで聞くと鉄道は大丈夫らしい。近くの駅で訳を話し、道路の決壊箇所を列車で越えさせてくれと頼む。すると、もうすぐ貨物列車がくるのでそれに乗せてくれると言う。
 ところが財布がない!!落としてしまった!!!
 もう駄目。ふと買ったばかりのカメラと時計に目が行く。泣きたくなる。ところが、岡山からのサイクラーがやって来て、同じように列車で決壊箇所を越えて長岡駅に泊まると言う。訳を話し、「長岡駅に泊まるなら俺んちに泊まってくれ。その代わり金を貸してくれ」と頼み込む。そして二人で市振駅から青海駅まで貨車に乗り、小千谷の家に夜中の一時半頃についた。両親、兄弟、みんながあきれていた。この時の人とは今でも連絡を取っている大切な友人だ。
 翌朝、雨の中を東京に向かって出発し、湯沢付近で停車していた車に追突してしまった。自転車のホークが曲がり、ハンドルが切れない。雨の降る中、今度こそ観念し、トラックをヒッチハイクして東京まで帰った。
 とにかく、えらい目にあった。