齋藤眞紀
1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。
COLUMN2026
À Noite(夜に)
元町
2026年1月
しばし画家たちは、彼ら自身の語彙の中にあってほとんど技術的な一つの語を口にして来ました。つまり紋切り型というものです。紋切り型は、すでに彼らが始める前にさえ絵の上にある、すでに最悪のものがそこにある。絵画において悪しきもののあらゆるおぞましい例がすでにそこにある、と言えるでしょう。(ジル・ドゥルーズ)〈注1〉
「絵がつまらないか?」と、晩飯の時、父が怒るでもなくこちらに問いかけて来た。数日前、いまの絵は面白くないと母に漏らしたのを聞いたのだ。確かにその頃の父の絵には力が無かった。前年の個展で画面いっぱいに横溢していたエネルギーがまるで感じられなかった。もちろん次のステップへの試作だと重々分かってはいたが、それでも自分の目には過去の焼き直しだと映ったのだ。それから程なくして急性白血病を発病して入院することになる。父が亡くなったのは34年前の1991年12月31日のこと。61歳だった。早くに父親を亡くした子供(この場合は息子)は、父親の年齢を越えられないものだという、強迫観念にも似た思い込みに苛まれるものだ。かく言う自分も長年その不安と共に生きて来たので、まんざら嘘ではない。それに、世間では天才は早世するものだと相場が決まっている。ならば、父より長く自分が生きるはずがない。もし生きるのだとしたら、そもそも非才だったと諦め筆を折る。それもかっこいいかもしれない。そんな自分が今年父親の年齢を越す。どちらにしても61歳という年齢は自分にとってひとつの軛だった。軛(くびき)と言えば、34年前、駆け出しの作家だった自分にとって、その同業の、多少高名でもあった父親の存在そのものが重い足枷だった。だから父が亡くなり、いきなり自立を迫られて困ったものの、内心は、頭を押さえていた重荷が外れてとても楽になった。すでに34年が経つ。そう正直に告白しても構わないだろう。
リスボンでいつも泊まるホテルの近くにお気に入りの本屋があって、街の散策に出る前に、この本屋で本を何冊か買い、それをホテルの部屋に置いてから出かけようと、ホテルのレセプションの男性に声をかけるが、初めはうまくこちらの意図がが伝わらなかった。そこで翌日はChatGPTにあらかじめリスボンっ子らしいフレーズを教えてもらって試した。「Vou ali à livraria, volto os livros no quarto e depois sigo.」〈注2〉すぐに分かってもらえた。やはりポルトガル語話者ならではの言い方というものがあって、それを外すと、分かり難いのだろう。しかし、恐るべきはChatGPT。
自分が何歳のときだったかも、季節も、なぜ父親とその日行動を共にしたのかもすでに覚えていない。おそらく、その日母が用事か何かで家を留守にするので父について行ったのだと思う。まず、関内の駅前にあった横浜市民ギャラリーに寄り、次が神奈川県民ギャラリー、その途中かをりでお茶を飲み、そしてそのまま歩いて元町に。着いた頃は日暮れ時で、深い青色の空にオレンジ色のネオンが眩しく、それから数十年も経ついまでも鮮明に覚えている。元町の中程、ビルの少し奥まったところにある階段を上った2階に、父の知り合いのブティックがあって、そこのオーナーはちょくちょく我が家に遊びに来ていたから、ちびっ子の自分とも顔馴染みだった。夜の帳が降りた元町はいまよりもっと大人びた街だったように思う。軽々しく子供が足を踏み入れてはいけない、差し詰めいまなら異世界とでも言えば良いか。しかし、覚えているのはそこまでで、その後の記憶がない。異世界での出来事は、霞む記憶の向こう側にある。
注1 Gilles Deleuze “Sur la peinture Cours mars-juin 1981”(『ジル・ドゥルーズ講義録 絵画について』ダビッド・ラプジャード編/宇野邦一訳 河出書房新社)