横浜・山手にある服飾資料博物館<岩崎ミュージアム>スタッフによる情報告知用HPです。

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スケッチ月記_2026

齋藤眞紀

1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。

COLUMN2026

詩画集『山手』

山手本通り

2026年2月

 
 
石川町の駅の裏道から 大丸谷坂を登る
影を作るもののない 真夏の太陽の照り付ける路面は 光り輝く〈*〉
 
3月に銀座で一週間版画の自薦展をすることになり、大慌てでアトリエをひっくり返していると思わぬ物にぶつかって、自分でも作ったことさえ忘れていたものだから、あまりの懐かしさに手が止まり、ついページをめくり見惚れてしまう。
その画集の奥付きを見ると2002年9月18日発行。限定10部。「ドライポイントによる“山手”の風景連作」とある。
 
崖に立つ 女子校の校舎を横目に ほどなくすると イタリア山庭園
外交官の家 ブラフ18番館
静かな木陰 朝の空気 さわやかに〈*〉
 
昨年、スケッチ40%展の20周年記念冊子に寄せた文章で、詩画集『江ノ島』のことに触れた。それもアトリエの片付けをして見つけたもので、その仕事が風景を描くきっかけになったと、その時はなんの疑いもなくそう思い込んで書いた。ところが、『江ノ島』の前年に作ったとされる(作者の記憶にない)幻の詩画集『山手』が見つかったのだ。これは齋藤眞紀氏の画歴を書き換える画期的な発見だ。なので、ここに謹んでその誤りを訂正したいと思う。え、それはもう遅い。そう言われれば面目もない。ただ、ニンゲンノキオクハアイマイデツネニユレウゴキ、シバシキョコウヲネツゾウシテハソレガマコトノキオクダトウソブクモノ(人間の記憶は曖昧で常に揺れうごき、しばし虚構を捏造してはそれが真の記憶だとうそぶくもの)だから仕方がないと、苦しい言い訳を付け加えてお茶を濁すことにする。
もちろん若気の至りで作ったものだから、下手くそである。でもどこか憎めないところがある。若い頃の仕事を冷静に見られるのは、こちらが年取った証拠でもあるが、おそらくいま同じように作ろうと思ってもこうはいかない。手が不器用な分、意図しない思惑が入り込んでいるように思えて微笑ましいし、なによりも一生懸命さが良い。20年以上経ったいまでも臨場感が失われずに、新鮮に映るのが素晴らしい。何度も書くが、作った本人が覚えていないのだからここは手放しで褒める。
 
眼下に広がる港 言葉の隙間に入り込む叙情 フランス山に薫る 異国の香り
始まりと 終わり 始まりと 終わり 始まりと 終わり…〈*〉
 
それから二年後、岩崎ミュージアムのカフェと中村川沿いにあったシャノンで『山手の冬、そして春』と題したドライポイントによる展覧会をして、2006年にはその続編にあたる『山手の夏、そして秋』を今度は岩崎のギャラリーで開くことになる。こちらは水彩とドライポイントだった。
 
たゆたう風を 体に受け止めて 木々が 鬱蒼と生い茂る 元町公園
私達と違う 歴史を生きて 私達と違う 時間が流れる 木造の洋館 石造の教会 外国人墓地…
ヤガテココニモ 大きなマンシヨンが建つだろう 私達の歴史と時間が建つだろう
せめて人間の醜いエゴが 見えないように 木々が 覆ってくれるように〈*〉
 
残念ながらその後の山手は自分が書いた(とされる)、予言めいた詩の通りになった。「鬱蒼と生い茂る」木々が切られ「私達の歴史と時間」を押しとどめるものがなくなった。その善し悪しの判断はしばし保留する。ただ、ここに添えられた詩を読むと、自分が絵描きとして生きて行く上でいまポルトガルが担っている役割を、2002年の山手が引き受けてくれていた、そんな気がする。
 
どこからともなく ロッシーニのアリア 心に響く
Una voce poco fa Qui nel cor mi risuonò, Il mio cor ferito è già,…〈注〉
ときには スケッチブックを片手に 心の風景を描いてみるのもよい
ゆったりと 腰をおろし カメラには写らない あなただけの風景を〈*〉
 

2026年1月31日 齋藤 眞紀

 
 
今月の絵は:絵具、ダニエルスミス/紙、ファブリアーノ・アルティスティコ(cold pressed)
 
〈*〉詩画集『山手』より
 

注 Una voce poco fa Qui nel cor mi risuonò, Il mio cor ferito è già,…
 (たった今聞いたあの声が 私の心に深く鳴り響き 私の心は、もう恋に射抜かれてしまった、…)ジョアキーノ・ロッシーニ《セビリアの理髪師》第一幕冒頭のアリアより

À Noite(夜に)

元町

2026年1月


 しばし画家たちは、彼ら自身の語彙の中にあってほとんど技術的な一つの語を口にして来ました。つまり紋切り型というものです。紋切り型は、すでに彼らが始める前にさえ絵の上にある、すでに最悪のものがそこにある。絵画において悪しきもののあらゆるおぞましい例がすでにそこにある、と言えるでしょう。(ジル・ドゥルーズ)〈注1〉

 
 「絵がつまらないか?」と、晩飯の時、父が怒るでもなくこちらに問いかけて来た。数日前、いまの絵は面白くないと母に漏らしたのを聞いたのだ。確かにその頃の父の絵には力が無かった。前年の個展で画面いっぱいに横溢していたエネルギーがまるで感じられなかった。もちろん次のステップへの試作だと重々分かってはいたが、それでも自分の目には過去の焼き直しだと映ったのだ。それから程なくして急性白血病を発病して入院することになる。父が亡くなったのは34年前の1991年12月31日のこと。61歳だった。早くに父親を亡くした子供(この場合は息子)は、父親の年齢を越えられないものだという、強迫観念にも似た思い込みに苛まれるものだ。かく言う自分も長年その不安と共に生きて来たので、まんざら嘘ではない。それに、世間では天才は早世するものだと相場が決まっている。ならば、父より長く自分が生きるはずがない。もし生きるのだとしたら、そもそも非才だったと諦め筆を折る。それもかっこいいかもしれない。そんな自分が今年父親の年齢を越す。どちらにしても61歳という年齢は自分にとってひとつの軛だった。軛(くびき)と言えば、34年前、駆け出しの作家だった自分にとって、その同業の、多少高名でもあった父親の存在そのものが重い足枷だった。だから父が亡くなり、いきなり自立を迫られて困ったものの、内心は、頭を押さえていた重荷が外れてとても楽になった。すでに34年が経つ。そう正直に告白しても構わないだろう。

 
 リスボンでいつも泊まるホテルの近くにお気に入りの本屋があって、街の散策に出る前に、この本屋で本を何冊か買い、それをホテルの部屋に置いてから出かけようと、ホテルのレセプションの男性に声をかけるが、初めはうまくこちらの意図がが伝わらなかった。そこで翌日はChatGPTにあらかじめリスボンっ子らしいフレーズを教えてもらって試した。「Vou ali à livraria, volto os livros no quarto e depois sigo.」〈注2〉すぐに分かってもらえた。やはりポルトガル語話者ならではの言い方というものがあって、それを外すと、分かり難いのだろう。しかし、恐るべきはChatGPT。

 
 自分が何歳のときだったかも、季節も、なぜ父親とその日行動を共にしたのかもすでに覚えていない。おそらく、その日母が用事か何かで家を留守にするので父について行ったのだと思う。まず、関内の駅前にあった横浜市民ギャラリーに寄り、次が神奈川県民ギャラリー、その途中かをりでお茶を飲み、そしてそのまま歩いて元町に。着いた頃は日暮れ時で、深い青色の空にオレンジ色のネオンが眩しく、それから数十年も経ついまでも鮮明に覚えている。元町の中程、ビルの少し奥まったところにある階段を上った2階に、父の知り合いのブティックがあって、そこのオーナーはちょくちょく我が家に遊びに来ていたから、ちびっ子の自分とも顔馴染みだった。夜の帳が降りた元町はいまよりもっと大人びた街だったように思う。軽々しく子供が足を踏み入れてはいけない、差し詰めいまなら異世界とでも言えば良いか。しかし、覚えているのはそこまでで、その後の記憶がない。異世界での出来事は、霞む記憶の向こう側にある。                             
 

2026年1月6日 齋藤 眞紀
 
今月の絵は:絵具、ゴールデン・コア/紙、ファブリアーノ・アルティスティコ(Cold Pressed)

注1 Gilles Deleuze  “Sur la peinture  Cours mars-juin 1981”(『ジル・ドゥルーズ講義録 絵画について』ダビッド・ラプジャード編/宇野邦一訳 河出書房新社)
注2 「本屋に行って、部屋に本を置いて、その後出かけます。」