WelcometoPiaCarrot 3 〜if:Re〜
木ノ下昇は戦っていた。
両の手に銃を携え、迫り来る猛攻を次々に交わし、相手に銃弾を打ち込む。
但し、誰一人として殺してはいない。相手の得物にだけ銃弾を打ち込み、戦意を削ぐだけに留めている。
「……ふっ」
彼に不似合いな引き攣った笑みを浮かべ、弾丸を再装填(リロード)する。余裕のある行為だが、一分の隙も無い。
「終わりだ…」
最後の一撃が放たれる。弾丸は一直線に螺旋を描きながら突き進み、相手の構えたロケットランチャーの中へと飛び込んだ。
ドゴォォォォォ……――――!!!!
閃光と共に巻き起こる噴煙。昇はゆっくりと青い銃をホルスターに銃を戻し、最後に苦笑しながら言い放った。
「10年早いんだよ……」
第2話 今そこにある恐怖
昇が戦闘に興じている頃、明彦は爆睡していた。時刻は既に11時を回っている。
「…………ん」
夢と現実の区別がつかないような頭の中に聞こえ始めたのは、電話のコール音だった。明彦は薄目を開けて、枕元にある電話の受話器を確認すると、だら
しなく左手を伸ばす。ちなみに、右手はある大事な用事に使用中のため使えない。
「もしもし…」
『おはよう。今何時だと思ってるの?』
受話器から響くのは聞きなれた女性の声だった。明彦はその声を聞くなり電話を切ろうかとも思ったが、そんなことをすれば命に関わりかねないので、取
りあえず通話ボタンの上に指を添えた。
「今日はオフなんだよ……んなことより、そっちはいいの?」
『あんたに心配されるほど、心配かけた覚えは無いわよ。それよりあんたのほうこそ、心配できるほど余裕があるのかしら?』
「別に…食事には事欠かねーし、一応楽しくやってるよ……ねーちゃん」
電話の向こうで明彦の姉・志保が苦笑いをしたような気がした。それとほぼ同時に、明彦の右腕を枕にしていたさやかが目を覚ました。といっても彼女に
しては珍しくやる気なさげで、瞼を眠そうに擦っている。
「だぁれ……?」
「うちのオネエサマ」
「…………そう……にゃむ」
それだけ言うと、さやかは明彦のほうに近付いて甘えるように腕を縮めてきた。明彦も、動くようになった右手でさやかの髪の毛にそっと触れる。
夕べは結局夜中まで起きていたため同じベッドに入ったかどうか若干曖昧な所があるが、2人とも服は着ているからやましい事はしていないと思う。
「で、用事はなんすか?」
『今度そっちに行くつもりだから、伝えておこうと思ったのよ。それだけ』
「ああ、そう。分かったから、もう切るよ」
『ええ。休みだからっていつまでも寝ていたら馬鹿になるわよ。ちゃんと勉強も――――』
ピッ、と電子音を鳴らし、明彦はコードレスの受話器を乱暴に床に放り投げた。その様子を薄目を開けて見ていたさやかが、くすくすと可愛らしく笑う。
「ダメだよぉ、お姉さん心配してくれてるんだから」
「いい加減世話焼かないでほしいんだけどな、俺としては」
「あっくんは、お姉さん離れしてる?」
「多分……っつーか、何だよ? あっくんて」
「可愛くない?」
「可愛いかもしんないけど……なんか嫌だ」
嫌そうな顔をしている明彦を見て、さやかは笑いながらゆっくりと上半身を起こした。
「ご飯、作ろうか?」
「だな。昼飯になるけど」
そう言って明彦も同じように上半身だけ起こして、どちらからとも無く唇を重ねる。
キスすることにもほんの少しだけ慣れた2人にとっては、いつも通りの穏やかな日常の始まりだった。
「店内清掃ですか?」
昇が意外そうに朱美に尋ねる。本来であれば休みであるはずの彼は、夏姫から呼び出しを食らい、誠意を見せて時間よりも早く来るはずだったが、結局は
遅刻ギリギリで突入してしまい、夏姫からはそれはもう烈火のごとく怒られた。その原因は、今日の場合は駅前のゲーセンでガンシューティングに没頭して
いた為である。
「そうなの。ここって海側のテラスを利用されるお客様が多いから、店内も潮風の影響で結構汚れちゃうのよ。それで……」
「明日1日、お店としては痛いのだけど、休業して清掃をすることになりました」
朱美が続けようとした言葉を夏姫が引き継いだ。
「そ、それと俺と……その、何の関係が?」
「木ノ下君。あなたにはここ数日の遅刻の責任として、清掃の手伝いをしてもらいます。さらに、今日の遅刻分も含めて、5時までは出勤してもらいます。
いいですね?」
「そういうことなの。ごめんなさい、木ノ下君」
朱美には一切非は無いのだが、謝られることで昇は余計に自分の責任を痛感した。
夏姫の言葉通り、昇は遅刻常習犯だった。開店から一週間と経っていないにもかかわらず、彼の遅刻はすでに3回目だ。昇自身もそれは重々自覚している
が、なぜか遅刻してしまう。彼の叔母である貴子が言うには「アンタは人より時間の感覚がずれてる」とのことだが、案外そうなのかも知れない、と最近は
昇も考えるようになってしまった。とはいえ、その自覚が遅すぎるという話でもある。
「わ、分かりました。それで、何時からするんですか?」
昇が尋ねると、夏姫が『店内清掃実施要項』と題されたノートをめくった。
「明日の午後2時から、午後5時までの間を、木ノ下君には手伝ってもらいます。簡単なワックス掛けだけですから、すぐに終わるでしょう。業者の方々に
も頼んでおきましたので、明日はよろしく」
それだけ言うと、夏姫はくるりと踵を返し、フロアへと戻って行き、夏姫が完全にフロアに戻ったのを確認してから、取り残された朱美と昇は同時に深い
ため息をついた。
「ふぇ〜……夏姫さん、厳しいっスねぇ……」
「でも、あれでもちょっとだけ機嫌いいのよ?4号店の売り上げが、1週間で平均180%になるなんて、私も夏姫ちゃんも予想してなかったんだもん」
「あ、あれで機嫌がいいんですか……」
昇ががっくりと肩を落とす。朱美もその様子を見て、流石に可哀想だと思っていたが、下手なことを言って夏姫から怒られるのは朱美もイヤだったので、
何も言ってやることが出来なかった。
臨時休業の話は、休憩時間に入るよりも前に全員が夏姫から聞かされていた。
反応の差には個人差があったものの、振って湧いた休日にいつもなら1番に喜びそうな昇が憂鬱そうな顔をしているのには、誰もが気付いていた。
「さやかさん、さやかさん」
くいくい、と愛沢ともみがさやかの制服の袖を引っ張る。
「どうしたの? ともみちゃん」
「昇さん……元気なくない?」
さやかもそう言われて、もう1度昇のほうを見た。その表情は憂鬱というよりも、何かに絶望しているように見える。
「……かなり重症みたいに見えるけど、何かあったのかしら……」
「うん……どうしちゃったんだろう?」
本来なら話しかけに行くともみだが、昇の周囲には目に見えない空気の層があるようで近付けなかった。この場に明彦がいれば、男同士ということで何か
解決案が見出せるかも、とさやかは勝手に思っていたのだが、明彦は現在部屋で勉強しつつ夕食の準備をしているし、仮にこの場にいても当の昇があの調子
である以上、有益な情報は得られないだろう。
さすがにこの状況を見かねて、朱美がさやか達に事情を説明した。
「……と、いう訳なのよ」
「そうなんですか……昇さん、かわいそう……」
ともみがそう言うものの果たして同情するべきなのかは怪しいところだが、従業員の大半が昇のことを気の毒に思っていたことは間違いなかった。
閉店後。寮に帰宅したさやかは、いつものように明彦の部屋を訪れ、明日が休業になったことと、昇の境遇を報告した。
「そっか…確かに、あいつ遅刻ばっかりしてたからな」
「何とかして、元気づけてあげられないかしら?」
「そうだな……気晴らしに遊びにでも連れてってやれればいいんだけど、俺たち美崎に詳しくないし、この町はあいつの地元だもんな」
2人同時にため息をつく。とその時、部屋のインターホンが鳴り響いた。
「はぁい」
明彦が返事をしドアを開けると、そこには貴子が立っていた。
「貴子さん、どうしたんですか? こんな夜中に…」
「昇のこと、聞いたのよ。あのバカ、ガラにも無く落ち込んじゃってるから、ちょっと楽しい話でもしてやろうと思ってね。少人数じゃ盛り上がらないから、
神無月君とさやかちゃんにも声かけに来たの」
「…で、何なんですか?その楽しい話って」
明彦が気になって尋ねると、貴子はにんまりと不敵な笑いを浮かべながら答えた。
「ふっふっふ…………夏の風物詩、よ♪」
貴子がそういった瞬間、なぜか生暖かい風が寮内を吹きぬけた…ような気がした。
宴会場はテーブルの上にロウソクが灯されているだけで、広い空間はほぼ真っ暗といっても過言ではなかった。テーブルの周りにはすでに2人が座っているが、明彦とさやかからでは顔が見えない。
「おまたせぇ〜!とりあえず、捕まえられる人だけ捕まえてきたわよ」
貴子が後ろから声を掛け、顔の見えなかった2人がこちらにやってくる。昇とともみだった。
「美春ちゃんと朱美さんにも声掛けたんだけどね。2人とも、もう寝ちゃってたみたい。そんじゃあ始めましょうか!」
貴子が完全に仕切る形で、いわゆる夏の風物詩が始まった。
夏の風物詩。それは花火やお祭り、海水浴などの華やかで楽しい物ばかりではない。身も凍るような恐怖。すなわち怪談である。貴子は淡々と、極めて冷
静かつ神妙な口振りで話を進めていた。
「それでね…これはアタシの知り合いから聞いた話なんだけど……」
ごくり、と誰かが唾を飲み込む。
「20年くらい前、この美崎海岸に台風が来て、遭難事故があったのよ。遭難したのは全部で5人。捜索隊は3日間徹夜で探して回ったわ。けれど誰一人と
して、遺体はおろか、遺留品さえ上がらなかった…」
貴子の顔に、ろうそくの灯りが不気味な影を刻んでいる。いつもと違う陰気な声が、妙に部屋中に響いていた。
「そ、それで…?」
ともみが問いかけると、貴子は十分タメを置いてから、青ざめた表情で続けた。
「それから1年が過ぎたわ。地元の人間の殆どは、もうあんな事故は起きないだろうって、思っていたの。でも……1人の男の人が海で溺れた、という報せ
が入った。地元の人間は必死になって探して、ようやく…………遺体を見つけることが出来たの」
「そう…ですか…」
「けれど…遺体を発見した時、捜索隊の人たちは思わず悲鳴を上げたわ。だって…………その遺体には去年行方不明になったはずの五人がしがみ付いていた
んだから!!」
がっしゃあぁあーーんっ!!
……と、どこからともなくシンバルでガラスをはさんでそのまま叩き割ったような音が響いた。貴子が小道具として用意していたラジカセである。
「きゃあああ―――!!」
「やだっ……!」
しかし効果は抜群で、ともみとさやかは悲鳴を上げて叫ぶ。その一方、明彦も昇も我関せずと言った感じで、黙って話を聞いているだけだった。
「どう?これは結構怖かったでしょ?」
明彦を見て貴子がそう尋ねるが、明彦はテーブルの上に肘をついたまま答えた。
「いや、どうと言われても……」
明彦は怪奇現象よりももっと(違う意味で)怖いものを、かつては日常茶飯事で見てきた。貴子には悪いが彼女より怖いものを、明彦はいまだかつて見た事
がなかったのだ。それに霊感が限りなくゼロに近い明彦に、怪談話で怖がれというのもまた無理な話だった。
「これもダメかぁ…………」
貴子ががっくりと肩を落とす。ちなみに、今の話で貴子の持ちネタ4本は全て使い切ってしまった。
もっとも、まともな怪談話は先程の話だけで、それ以外はお笑い半分の、怪談とは程遠いものだった。まあ、それでもともみだけはしっかり怖がってくれ
ていたが。
「お話じゃ、神無月君にも昇にも通用しないのかしらねぇ……」
そう言われて、明彦はチラッと昇の方を見た。灯りが小さくて薄暗いせいもあって良く見えないが、昇は何故か背筋を伸ばして不機嫌そうな顔をしている。
「う〜ん………あ、そういえば」
暫く思案していた貴子がぽん、と手を叩いた。それを見たともみが、不安げな声で尋ねる。
「な、何ですか?」
「駅のずっと先のほうに、廃病院があるのよ。もう10年以上前に閉鎖になって、今じゃ誰も近寄らないっていう…」
廃病院。社員寮から自転車で約20分ほどのところにあり、かつては立派な建物だったのだが、医師の1人が医療ミスを起こし数名の命を奪い、その上、
病院の運営資金などを金庫から口座番号ごと持ち逃げし、あっという間に経営難と訴訟の嵐に陥った結果閉鎖という形になり、院長はその病院で自殺。土地
の買い手も付かず未だに建物だけが残っている。
警察が後から調べた話では、医療ミスを起こした医師(逮捕済み)は実は屍体愛好家の上に幼児趣味(男女不問)で、故意に医療ミスを起こしていたと判断
されていた。相当危険な男だったらしく、彼の住んでいた家には、本物の人間から作った人体標本が実際に何セットもあったらしい。さすがにこれは貴子も
知らなかった。
「ま、まさか…貴子さん…………?」
あっという間に顔面蒼白するともみ。貴子はそれを見るとニヤリと怪しすぎる笑いを浮かべ、
「肝試しよ。この鈍感な男どもに、真の恐怖を叩き込んでやるわ!!」
そこはかとなく邪悪な笑みの貴子。だが、その隣ではとうとう我慢できなくなったともみが半泣きになって訴えた。
「う…と、ともみ…行きたくないよぉ〜」
「え? ああっ、と、ともみちゃん!? ……な、泣かないで、泣かないで、ね?」
慌てて貴子がともみを慰めるも、まるで効果なし。終いにはともみは貴子にしがみ付いて離れようとしなくなってしまった。
「〜〜っ…しかたないわ…昇、アンタと神無月君は絶対に行くのよ!…で、さやかちゃんはどうするの?」
「い、行くのはいいですけど…」
若干口ごもるも、すぐにさやかはOKを出した。
風の入らないはずの部屋で、ロウソクの炎が、かすかに揺らめいていた。
貴子提供の自転車二台に分乗して、明彦たちは問題の廃病院までやってきた。『立入禁止』と書かれた金属製の立て札は赤錆にまみれていたが、未だに
健在だ。金網のフェンスは所々に大小の穴が開き、その奥には10年以上放置され、主を失った4階建ての鉄筋コンクリートの病院。
3人は沈黙のまま立て札の隣を通り過ぎ、病院の敷地内に入った。
「…な、なあ、明彦…」
「ん?」
気弱な昇の声に、明彦だけでなくさやかも反応した。
「どうしたの? 昇さん」
「その…言い難いんだけど…さ、俺…こういうの、ホントは駄目なんだ…」
一瞬、2人の思考が停止した。
「……は?」
「だって昇さん、さっきは全然平気そうにしてたのに」
「い、イヤ…ビビリまくって声も出なかったんだ、実は…」
そういえば、と明彦は思い出していた。貴子の話の最中の昇の態度。あれは怒っているのでも無視しているのでもなく、怖がっていたのだった。
おそらく、貴子は昇のその弱点を知らなかったのだろう。もっとも、知っていたら昇を強制的に行かせていた事だろう。しかも満面の笑みで送り出してい
たはずだ。
「んじゃどうすんだよ? 帰るか?」
「いや…帰ったら帰ったで、オバさんから何されるか分かんないし…」
かなり低レベルだが、昇にとってはまさに運命の選択だった。恐怖か恥か。しばし考えた後、昇は恐怖に立ち向かう決心をした。明彦とさやかも意を決し、
建物の側へと近づいた。
建物の外観は、凄まじいものだった。窓という窓のガラスは殆ど割られ、1階の壁面にはヤンキー御用達の漢字で『世露死苦』だの『○×少年愚連隊』
だの『天上天下唯我独尊』だのと、スプレーの割に達筆で書かれていた。だが、どれも随分色褪せている。恐らく、ここ何年も彼らさえ来ていないのだろう。
辺りには人の気配など微塵も無かった。少々警戒しながら、明彦が先頭になってフェンスをくぐり抜け、明彦の手を握っていたさやかがそれに続く。とこ
ろが、昇だけはフェンスをくぐろうとせずに逆に一歩退いていた。
「どうした? 昇?」
「い、今…1番上に…変なおっさんが、こ、こっちを見て…」
そういわれて明彦が屋上の方を見るが、誰もいない。だが昇は足をガタガタと震わせ、その場に座り込んで、
「お、俺…やっぱ帰る!!」
「お、おい、昇!」
明彦の制止も聞かず、昇は慌てて立ち上がると、もの凄い速さで自転車に飛び乗り、逃げていってしまった。
「ったく、根性無しが…」
明彦がそう呟くと、さやかが明彦の服をぎゅっと掴んできた。
「明彦…見てなかったの?」
「何が?」
「本当に、人が…いたんだけど…」
若干の沈黙。
「……なんだって?」
「だ、だからぁ…本当に、変な人が…こっちを見てたの……!!」
「…ふ〜ん」
明彦はさやかの表情を確認した。恐怖と困惑の入り混じった複雑な表情は、とても演技とは思えないし、第一そんな嘘をついてもさやかには何のメリット
もない。つまり――本当に誰かがいた。
だが明彦はその事実を知っても、まったく平然としている。一方でさやかは、興味本意で来たことを後悔していた。さやか自身、決して幽霊が苦手とか
言うわけではない。人並みに霊感もあるが、あまり恐怖や寒気といったものを感じたことはなかった。だがハッキリと見てしまうと、さすがに怖さがあった。
「ふ、ふ〜んって…怖くないの?」
「いや、別に…見たわけじゃないし、それにいたならいたで面白いんじゃないのか?」
明彦の顔には、恐怖の色というものがまるでうかがえなかった。さやかからすれば、頼もしく思える反面、ちょっと腹立たしいほどに平然としている。
「い、行くの?」
「当ったり前だろ?何のためにここまで来たんだよ?」
こう言われるとさやかも反論できなかった。明彦の左手をしっかりと握り締めてさやかは、
「(後悔先に立たずって言うのよね…こういうの)」
などと思っていた。
とりあえず、2人は屋上を目指して進むことにした。問題の男の幽霊がいるかどうかの確認のためだ。入口のガラスは完全に破壊されており、明彦がマグ
ライトでその奥を照らす。
明かりが無ければ、どこまでも続く深遠の暗闇。誰もいないはずなのに、何かがいるような感覚。どことなく湿気を伴った風がさやかの髪を、頬を撫でて
通り過ぎる。
入口側の階段は壊れていたので、明彦とさやかは、奥にあるであろう階段を目指して歩いた。ヒビだらけのリノリウムの床に、二人の足音が響く。
廊下には色んなものが散らばっていた。
表にあったようなラクガキ。車輪の壊れた車椅子。粉々に砕けたガラス瓶の欠片。誰かが置いていったデザインの古い缶ビール。針の折れた使い捨ての注
射器。何か粉のようなものが入っていた袋。目玉のガラスが取れたフランス人形。不気味に微笑む顔の欠けた銅像。どれもこれも年代モノで、荒廃しきって
いる様子をこれでもかとアピールしてくる。
「ね、ねぇ…怖くないの?」
「何が?」
さやかの問いに、明彦はまったくもって普段通りに答えるだけだった。状況だけ見ればただ酷く汚れているだけで、別に怖いことは何もなかった。だが
次の瞬間、2人の背後でガラスが割れる音がした。振り返ってみると、何とか原形を留めていた窓ガラスが割れていた。しかも、廊下に破片が飛び散って
いない。
「誰かいるのか?」
明彦がマグライトで外を照らすが、人影も何もない。もちろん病院内にも、屋上にいたと言われる謎の存在と2人以外、誰もいないはずだ。
「…まぁいいか」
「良くない! 全っ然良くない!!」
明彦の耳元でさやかは叫ぶ。
「だって、明らかに変でしょ!? 風も強くないのに、誰もいないのに、どうしてガラスが内側から割れるのよ!?」
「…古くなってたからだろ?」
耳を押さえながら答える明彦。だがそんな説明でさやかは納得しなかった。出来なかった。物理的に考えて、明らかにおかしい。
「こわいとか思わないの!?こ、こわいよね、こわかったよね!?」
だから帰ろうよ――――と訴えたいのを我慢しながらさやかが同意を求める。しかし明彦は首を傾げて
「ガラスが割れただけだろ? 別にどうってこと…」
「う……で、でも…」
「怖いんなら、帰ろうか?」
明彦からすれば心配しての発言だが、さやかにはそれがどこか同情しているような、かつ馬鹿にしているような響きに感じられ、妙に気に入らなかった。
「…っ…い、行くわよ、もう…」
苛立ちを抑えながらさやかは強めに明彦の手を握り返し、2人は暗闇の中を先へと進んだ。
2階は1階に比べると随分ときれいだった。散乱しているゴミや不気味なオブジェも少なく、明彦たちが上ってきた階段の隣にあるナースステーション
などは、まだ整備すれば使えそうな感じさえしている。
窓ガラスも殆ど無事だった。だが、何故か3階への階段は、正面階段と同じように、飛び移ることも出来ないほどに潰されていた。
「また回り道か…仕方ないな」
明彦が踊り場からフロアに出て、左右をライトで照らす。すると、ナースステーションの中で、何かが点滅し始めた。
「えっ…!?」
さやかが小さく声を漏らす。これにはさすがに、明彦も意外そうな顔になった。その場に立ち尽くしたさやかの手を引いて、立て付けの悪くなったナース
ステーションのドアを、明彦は乱暴に蹴り飛ばし、その光の正体を確かめる。
「…ナース、コール…………?」
ライトで照らした先には、ナースコールのランプが点滅していた。「444」と、シールの上から乱暴に殴り書きされた、その隣のランプだ。だが、明彦
たちがそれを確認すると同時にランプは消え、今度は突然電話が鳴り始めた。明彦の目の前に無造作に置かれていた電話、それが鳴っているのだ。
「な、なに…?」
明彦の腕にしがみつくさやか。だが明彦は黙って受話器を取り、耳に当てた。
「………? …もしもし?」
「誰か…出てるの?」
明彦が呼びかけたのを聞いて、さやかが尋ねる。明彦は受話器に手を当て頷き、さやかに受話器を差し出した。恐る恐る耳に当てると、
『ザ―――――――――――』
テレビの砂嵐か、ラジオのノイズのような雑音が聞こえる。その向こうでは、車がかなりの速度で通り過ぎるような音がした。すると突然、それより
ずっと遠くから、途切れ途切れだがサイレンの音が聞こえてきた。サイレンの音は徐々に近づき、そして不意に、
『タスケテ…』
かすれるような声。その直後にブツッと鈍い音を立てて電話が切れた。さやかは震える手で受話器を置き、その場に脱力して座り込んでしまった。
「な、何なのよ…これ!?」
「間違い電話?」
「絶対違うわよっ! だ、大体どうして電話がつながるのかとか、電気がつくのかとか思わないの!? ここ絶対おかしいわよ!?」
屋上の男性、突然割れた窓ガラス、音も無く点滅していたナースコール、謎の電話。まさに怪奇現象のオンパレードだ。一生かかっても、これ程多くの
回数はなかなかこなせないだろう。にもかかわらず、明彦は怖がるどころか平然とボケてくれる。鈍感もここまでくれば国宝級だ。
「オバケ! ユーレイ! 怪奇現象! だれがどうみてもおかしいの!!」
座ったまま講義するさやかに、明彦はようやく納得がいった、という感じでポンと手を叩いた。
「いや、そうならそうと言ってくれれば良かったのに。俺幽霊とか見たことないから、どういうのが怪奇現象なのかさっぱり……」
ムカつくほどの笑顔で答える明彦に対し、さやかはがっくりと肩を落とした。
「フツー気付くわよ……っ!」
何だか泣きたくなってきた。自分はこれだけ怖い思いをしているのに、明彦だけが平然としているのを見て、無性に悲しくなってきた。が、それに比例し
彼女の中に沸々と怒りがこみ上げてきた。
それは明彦に対してではなく、この病院にだ。
「(何であたしばっかり怖がらなきゃいけないの!?)」
などと理不尽に思うと、さやかはスッと立ち上がり、明彦の手を引っ張った。
「お、おい、さや――」
「早く行くわよ!」
怒りに任せて明彦の手を引くさやか。さやかの心情に気付くはずもない明彦は、ワケがわからずただ付いていくだけしか出来ないのだった。
さらに奥の階段を登り3階にたどり着くと、またしても階段は潰されていた。ここまで来ると、誰かが作為的に階段を壊しているようにしか思えない。
仕方なしに遠回りをしようとすると、さっそく出迎えが来てくれた。廊下の向こうからトロトロと車椅子がこちらに向かってやってくる。車椅子の座席に
は、顔の欠けたフランス人形がうすら笑いを浮かべて座っていた。
しかしさやかは、多少驚きはしたものの、明彦を引っ張ってその横をあっさりと通り過ぎてしまった。そして2人が通り過ぎると、車椅子はそのまま突き
進み、廊下の突き当たりの壁に当たって止まってしまった。フランス人形はその拍子に顔面から床に落下し、「うっ」という悲鳴が上がる。
「あれも幽霊って言うのか?」
車椅子の最期を看取った明彦が場違いな質問をすると、さやかは明彦をきっと睨みつけ、
「そうよ! こわくないんでしょ!? だったら次行くわよ!」
と苛立たしげに怒鳴りつけ、早足で4階を目指した。
4階まで上ると、屋上へ続く階段は無事だった。2人はほぼ同時にため息をつき、顔を見合わせてから静かに頷いた。
手すりに手を掛け、1段1段確認しながら登っていく。ちょうど13段を上がり、明彦が錆び付いたドアノブに手を掛ける。が、びくともしない。
左に捻っても右に捻っても、押しても引いてもドアは開くどころか1ミリも動かなかった。
「……折角ここまで来たのに、帰るの?」
「まあ、仕方ないんじゃないか? ほかに出入口も無いみたいだし…」
さやかの不満ももっともだが、明彦の言うとおりほかに屋上への出入口は無かった。仕方なしに2人が引き返し、4階の踊り場に出た途端、手をつないで
いる2人の間を白い影がすり抜けた。
「……!」
さやかが息を呑む。それは先程病院の外で見た、あの男の霊(?)だったのだ。
「……今のも幽霊?」
またも場違いな質問をかます明彦。だがさやかはそのボケに突っ込むことはできなかった。
なぜなら、彼女は気絶していたのだから。
(さやか!? お、おい、しっかりしろよ、おい!)
焦ったような表情の明彦。取り乱して自分の身体をゆすっている。そんな夢を、さやかは見ていたような気がした。
「…………ん……」
さやかが目を覚ますと、そこには逞しい背中があった。その背中はどこか懐かしく、温もりがある。ああ、これは幼い頃に父におんぶしてもらった時と
同じだ――――と感じながら、ゆっくりと意識を覚醒させていく。
「……明彦…?」
「ん?…起きた?」
辺りを見回すと、そこは廃病院ではなく駅に向かう道だった。明彦はさやかを背負い、右手だけで体重を何とか支え、左手で自転車を押している。
「あ、…歩けるから、下ろして…」
力ない声でさやかが訴えると、明彦は足を止めてさやかをそっと下ろした。
「大丈夫か?」
心配そうに手を貸す明彦。ふらふらとおぼつかない足取りで、さやかは立つことは出来たが、まだしばらくは歩けそうも無かった。
「あっ…!」
思いがけずバランスを崩し、明彦の腕につかまる。
「まだ駄目みたいだな…乗って」
と、自転車を指す。さやかは無言で頷き、自転車の後ろに腰を下ろした。
「しっかりつかまってろよ」
そう言うと、明彦は自転車にまたがり、二人乗りで漕ぎ出す。さやかは明彦の腰に腕を回し、明彦に囁いた。
「結局…1つもこわくなかったの?」
「ん〜〜…こわくはなかったけど、驚きはしたな。2階のナースコールと、最後に通り抜けたヤツ」
「そう…」
明彦の返事を聞いて、さやかは何となくがっかりした。おぼろげな記憶だが、明彦が慌てていたような――そんな記憶があったのだ。それとも、あれは
本当に気絶しているときに見た夢だったのだろうか?
2人はしばらくの間、無言で走っていた。駅前を何人かの人々が行き交い、その中にはビデオレンタルショップでアリバイ作りのために時間を潰していた
昇の姿もあったが、明彦もさやかもそれに気付くことは無かった。
そしてそのまま駅前を通り過ぎると、明彦が小さく呟く。
「……でも、怖い事もあった、かな…」
「………え?」
明彦の言った言葉が上手く聞き取れなかったさやかは、彼の首に腕を回した。
「ねぇ、今なんていったの?よく聞こえなかったんだけど?」
「何でもないから、気にしなくていいよ」
「やだ、気になるよぉ!なんて言ったの?こら!」
甘えた子どものような声で、明彦の首を自分のほうに引っ張る。
「ぐあっ…ほ、ホントに何でもねーってば!」
「うそ! 絶対なにか言ったもん! 白状しなさい!!」
2人を乗せた自転車は、ふらふらと危なっかしく進み、何とか寮までたどり着いた。
明彦は顔も身体も冷や汗まみれで、部屋に着くとすぐにシャツを着替えた。さやかもさやかで、いったん部屋に戻ると、寝るときの服にわざわざ着替えて
から明彦の部屋に戻ってきた。
最近さやかは、明彦の部屋で寝る回数のほうが先行してきている。それだけ明彦との時間を共有する事を大事に思っており、年齢不相応なことをしている
ということも自覚はしているが、今後もこの回数が増えていくだろうという事も同時に理解している。
「ったく、言いだしっぺの貴子さんがもう寝てるんだからなぁ…」
「でも、もう11時回ってるもん。いつもだったら寝てる時間だよ?」
2人が帰ってきたとき、貴子もともみもすでに宴会場に姿は無く、昇もまだ戻っていなかった。2人は窓を開けてベランダに寄りかかるようにして、よく
冷えたジュースを飲んでいる。
「けど、明日は休みだぞ?」
「うん、分かってます…どこか連れてってくれる?」
「ん…?そうだな…」
空になった缶を手すりの上に置くと、明彦はさやかに体ごと向き直った。
「ちょうど見たかった映画があるから、付き合ってくれるか?映画1本くらいなら、奢ってやれるけど?」
「明彦の奢りなら、喜んで付き合ってあげる♪ その代わり、行くのは朝からだからね?お昼からはあたしに付き合ってもらうから」
「はいはい…じゃ、今日はもう寝ますか?」
「うん…」
さやかが返事をすると同時に、涼しい風がさやかの髪を撫でた。どこか夏のにおいを感じさせる、爽やかで心地いい風だった。
あとがき:
第一話同様、随所に加筆・修正を施しました。怪談なのにちょっと笑ってしまうような部分も
追加したつもりです。怖くなく、むしろ楽しんで頂ければと。かといって鈍感過ぎるのも困りものですけどね。
管理人の感想
PiaIfの第二話目。今回は夏の風物詩、怪談話でしたね。
怖いと思えば笑い話。笑えると思えば怪談話。絶妙なバランスでお届されました(笑)
しかし明彦は凄いというか――鈍感ですね(ぇ さやかが可哀想に思えます。
ただまあラブラブではありますけど(爆)
次回もお楽しみに!