Memories Base Combination Production
Back Grounds Memories
勇希は巴との和解を済ませたその足で、一階下のある部屋を訪れた。既に夜も遅いと言える時間、顔馴染みでなければ来訪を断られる事もあるという状況
だが、だからこそ勇希は今日、このまま全てを告白したいと思っていた。
彩乃の家は天桜町の中でトップクラスの高級マンション、グランレジデンス天桜の六階に位置している。そしてその一階下の、五〇一号には彩乃と巴の親
友であり、勇希が長年憧れている女性が住んでいる。
「……冴霞、さん」
今村冴霞。十年以上近くにいて、その存在に憧れていた。勇希にとっては間違いなく初恋の相手であり、今も変わらず大切だと思える女性。時に姉のよう
に優しく、かつての儚げな美しさは今は凛々しく煌びやかと言う他に形容のしようがないほど洗練された、究極にして至高の存在。
その人に今、全てを伝える。そう意を決した勇希は震える手でインターホンを押し、永遠にも感じられる数秒間を待った。
『――――はい? あれ、勇希くん?』
「――――っ」
マイク越しに響くのは冴霞の声。夜の来客にも関わらず疑う事もなく玄関の鍵を開け、防犯用のドアガードを外して顔を出したのは、紛れもなく今村冴霞
その人だった。
百七十センチを超える、女性としては十分すぎる長身と均整のとれたスタイル。長い黒髪は人工の明かりに照らされながらもその美しさを微塵も損なわず、
優しい微笑みは勇希の心を魅了して止まない。
「こんな時間にどうしたの? よかったら、上がっていく?」
「あ、えと…………その……」
早鐘のように高鳴る鼓動。顔だけでなく、全身が熱くなる。血液が高速循環し、その速さで熱暴走を起こしてしまいそうだ。
高校生になってからの冴霞と会うと、いつもこうだった。憧れは半ば崇拝に近い感情になり、まともに顔を合わせる事もままならない。その度に巴や彩乃
にからかわれて、冴霞が取り成してくれた。
居心地の良かった、優しい時間。その甘美な時間にいつまでも身を浸していられたら、と思った事もあった。
だけど、もうその甘えは捨てていかなければいけない。舞に貰った借り物の『勇気』だが、それを糧に少しだけ成長できた自分だけの『勇気』。
それを今振り絞って、間宮勇希は。
「さ、冴霞さん…………ぼ、僕は、あなたの事が…………」
――――憧れを忘れない。
――――好きだという事実は、覆さない。
――――ここに、ただ一度だけの告白を。
「ずっと、ずっと…………冴霞さんの事が、好きでした――――――――」
初恋に決別を。
たった一度の勇気は、決して叶わぬ未来を選択した。
The 4th anniversary Special Project
presented by鷹
Little Boy meets Little Girl ~Way to Growing up !!~
05.蒼天のスタートライン
「はぁ…………」
虚空に消えていく溜め息。そんな表現を思いながら、我ながらロマンチストな事を、と中塚舞は苦笑いした。ようやく秋めいてきた窓の外を眺めていると、
何故だかそんな事を思ってしまったのだ。
昨日の雨が嘘のように、今日の天気は見事な晴天だった。そもそも通り雨だったのだから長続きしようもないのだが、秋の長雨とはよく言ったもので、
週末にはまた降り出してくるのだという。まったく、折角兄の元に行って洗濯物を片づけてあげようと思っていたのに。このまま放置しておけば、またあの
年上管理人が兄に魔の手を伸ばしてくるかも知れない。やはり年上の女性は苦手だ…………。
と、考えたところで、舞は昨日教えてもらった『年上』――――来栖彩乃の電話番号を携帯電話から呼び出した。向こうも今は授業中か休み時間だろうか
ら、電話をするつもりはないし、そもそも掛けるような用事は無い。気になる事は山ほどあるが、それを聞いていたら午後の授業などこれっぽっちも手がつ
かなくなる。
「勇希くん、どうしてるかな……」
結局、最後の最後まで見届ける事は出来なかった。勇気の姉・巴との仲直りを聞かなかった事を後悔してはいないが、その後にあった勇希の告白を聞いて
いないのはさすがに悔やむべき出来事だった。しかしそれもやはり仕方のない事だと理解しているし、一応納得もしている。
告白とは、その人にとって一番大切な人との思い出の一つだ。そこに他人が介在する余地は無いし、勇希の姉である巴も、その親友である彩乃も立ち入る
ことは許されない領域である。そこに知り合って一日も経っていない自分が入り込む事など、天地がひっくり返ってもありえない。
「(って、頭で分かっててもねぇ……気になるって、普通……)」
昨夜は結局、夜道は危ないという事でタクシーを呼んでもらい、彩乃と巴、そして彩乃の家の下に住んでいるという勇希の想い人である今村冴霞にそれぞ
れ、お金を出してもらっての帰宅となった。もちろん借りたお金である、返すと告げたが「勇希を助けてくれたお礼」と、勇希の姉である巴に言われては反
論する事が出来ない。伯父夫婦とバッティングしなかったのはせめてもの救いだったが、勇希とは最後まで顔を合わせられなかった。
唯一収穫があった事と言えば、遠目ではあるが今村冴霞の顔も見る事が出来た事くらいか。こちらに気づいて柔らかな笑顔を向けられた時は思わず胸が高
鳴ってしまうほどの美人であり、無条件で勇希の想いを理解出来てしまった。本当に目を奪われるとは、ああした人の事を言うのだと実感した。
冴霞の事はさておいて、勇希については通っている学校も分からず、一学年下ということ以外は何も分からない以上、手の施しようがない。自宅の場所も
分からないし、彩乃経由で連絡を取ろうにも、まだ全ての授業終了までは時間がありすぎる。
と、そこへ。
「まいー、お客さんだよー」
クラスメイトの女子が声をかける。机の上に半ば寝そべっていた舞は気だるげに身を起こして。
「ゆ、勇希くん!!?」
あまりの驚きに思わず発してしまった大声と、一斉に向けられるクラスメイトの視線で勇希の頬を朱に染めさせてしまった。
残り少ない昼休みだったが、それでも構わないと舞は勇希を連れ出して校舎の屋上までやって来た。屋上に出ることは禁じられているが、その手前の出入
口までは立ち入りを認められている。誰も後を付けていないことを確認すると、舞は大きく溜め息をつきながら床に座り込んだ。
「まさか、勇希くんがあたしと同じ中学だったなんてね……気づいてたの?」
「ええ、まぁ……舞さんの部屋に掛けてあった制服で、すぐ気づきました。ごめんなさい、黙ってて」
確かに、脱衣所で一悶着あったあの後に舞はきちんと制服を乾かしていた。しかし勇希はそれ以前の三日間を自宅で過ごしていたために普段着だったのだ
から、勇希だけが気付くというのもおかしな話ではない。そう納得しながらも、舞はそれ以上の疑問を勇希にぶつけたくて仕方がなかった。
「えっと…………その、勇希、くん……昨日の事、なんだけどぉ……」
「あ、借りてた服なら週末に返します。今日洗ってますから」
「え? あ、そ、そんなの別にいいよ。どうせ誰も着ないし……」
話の腰を折られてしまったが、舞はちらっと横目で勇希の顔を見る。昨日よりもどことなく、気のせいかもしれないが大人びたように見えるその顔が舞の
視線に気づき、無垢な笑顔を返す。その笑顔に思わずドキッとして、舞はすぐに視線を逸らした。
「どうかしました?」
「え、い、いや、その……えっと……勇希くん、失礼なこと聞いても……いい?」
体育座りのまま、顔だけを勇希に向ける。きっと辛い事を思い出させてしまうという罪悪感と、それを気にしてしまう自分への嫌悪。昨夜のうちに彩乃
から少しだけ教えてもらった範囲では、勇希の想いが報われる事は決してないという話だった。それを聞いて顔も満足には確認出来なかった今村冴霞に対し
怒りを覚えたものの、勇希自身がどう思っているかを聞く事の方が、舞にとっては重要である。
「…………憧れのお姉さんには、…………告白、したの?」
振られたのか、とは流石に聞けなかった舞は疑問をにごす。返ってくるであろう答えも分かっている。それを言う勇希が、もしかしたら泣いてしまうかも
知れないとまで予想していながらも、舞は尋ねた。それは決して興味本位という安易な感情ではなく、心から勇希の事を心配しての思い。そしてそれに応え
るように勇希は柔和な笑みを浮かべる。
「はい。ちゃんと告白して、ちゃんと振られてきました」
「――――――――」
衝撃を受けたのは勇希の方ではなく、当然舞の方だ。結果の見えた勝負である以上、勇希から出てくる言葉も想像していたし、またその想像通りの返事で
もあった。だというのに衝撃を受けたというその理由は、たった一つしかない。
「…………な、なんで……笑って、そんな事が言えるの、勇希くん……?」
勇希にとっても想像していた出来事であるとはいえ、結局は勇希の恋は破れてしまった。だというのに当事者の勇希が笑って答えるなど、異常でしかない。
もしかして、勇希は失恋した事によっておかしくなってしまったのだろうか。今日の勇希は先程から感じているように自信を持っているようにも見えるし、
昨日の印象とはまるで正反対だ。こちらが本来の姿なのだと言われればそう信じてしまいそうになるが、昨日の勇希と彩乃の言葉からは、やはり昨日の姿こ
そが、これまでの間宮勇希の本質である事は間違いが無いはず。そんな彼が辛い体験を笑って語るなど、有り得ないと言ってもいい。
「? 舞さん?」
「……辛いんじゃないの? 無理して、笑ってるんだよね? そうじゃなきゃ……」
壊れている、と。
その言葉だけは口に出す事を躊躇い、舞はぐっと真剣な眼差しを向ける。勇希はそれを見ると俯いて、そして数秒を掛けて再び舞の方を見た。
「そりゃ……辛いですよ。振られるのは僕だって予想してたし、冴霞さんに断られた時は、やっぱり覚悟してても泣きそうになりました。でも、ハッキリと
振ってもらえたから、今はちょっと清々しいんです」
「じゃあ、清々しいからって……笑えるの? だって、何年も何年も好きだった人なんでしょ?」
理解出来ない。大切な人から拒絶されたというのに笑えるのが、舞には理解出来ない。失った立場だからこそ、その辛さや悲しみが人並み以上に理解出来
る舞には、勇希の思いが理解出来ない。
だって、昨日だって辛かった。死の間際に立ち会った母の事を思えば、今でも涙してしまうほどに悲しかった。それはきっと一生舞が忘れる事の出来ない
痛みであり、消せない傷痕だ。それを笑って流そうとしている勇希は、舞にとっては異質であり異端に映る存在となりかけている。
女の子みたいな外見だけれど、優しさという強さを備えた男の子。その優しさに心を惹かれかけていた。初めて家に招き、自分の悲哀を知って慰めてくれ
た少年に、居心地の良さを感じていた。そんな彼を嫌う事もまた、痛みでしかない。
そんな舞の懊悩を振り払うかのように。
間宮勇希はそっと、舞の手に触れた。
「ずっと……冴霞さんの事は好きです。でもだからこそ、好きな人には幸せになってもらいたい。そのために僕は、頑張ろうって誓ったんです……他の誰で
もない冴霞さんの前で」
「ずっと、ずっと…………冴霞さんの事が、好きでした――――――――」
意を決した勇希の告白が小さく、しかし確かに響く。その瞬間の勇希は俯き、眼を閉じ、しかしあらん限りの勇気を振り絞っていた。
そして、告白をされた側である今村冴霞は勇希の肩に手を当てて、無言で家の中に導き入れる。勇希がゆっくりと歩を進めて玄関にまで足を踏み入れると、
バタンとドアが閉められた。
「勇希くん、顔を上げて?」
「は、はい」
言われるままに顔を上げ、閉じた瞼を開く。室内の明かりに照らされて煌びやかに彩られた冴霞の姿がすぐ傍にある事が分かると、勇希は顔を真っ赤に染
めてまたしても俯いてしまいそうになる。普段ならばそれを咎める事もしない冴霞だが、この時ばかりは右手を使って勇希の顎を押さえ、半ば無理やりに近
い形で上を向かせた。
「あ、あぅ……」
「目を逸らさないで。…………さっきのは私への告白ってことで良いのかな?」
真剣な冴霞の眼差し。そんな彼女を見るのは勇希にとって初めてであり、言葉もなく頷いた。すると冴霞はふっと笑みを浮かべ、勇希の顎から手を離す。
その表情は勇希の知る、普段の冴霞。だがそれと同時に今まで自分の知らない冴霞がいるという事を、勇希は今になってようやく気付いた。
「そっか。……でもごめんなさい。勇希くんには悪いけど、変に気を持たせても申し訳ないからはっきり言わせてもらうね」
どくん、と鼓動が大きく跳ねる。冴霞の武勇伝は勇希も巴経由で知る所であり、過去における異性からの告白は一刀両断という言葉が相応しいほどにスッ
パリ断るのが冴霞の流儀だという。過剰な暴言も、複雑な言い回しもなく、ただ一言「興味がありません」という冷徹無情の一太刀。それを受ける覚悟は、
勇希にもあった。しかし――――。
「勇希くんは私にとって大切な親友で、大親友の巴ちゃんの弟。それ以上には見られない。それに……私ね、今とても大切な男性(ひと)がいるの」
「―――――――――」
言葉を失い、思考すら忘れさせるほどに美しく可愛らしい表情。この世全ての幸せを詰め込んだような満面の笑顔でそんな事を言うだなんて、この人は本
当にずるいくらいに素敵な人だ。そして傍にいないというのに、こんな表情をさせるようなその男性を羨ましいと感じると同時に、決して敵わないと思い知
らされる。
「ごめんね勇希くん。勇希くんが折角頑張ってくれたのに、こんな事言って……」
「…………え? それ、って……」
勇希の疑問に答えるように、冴霞が膝を折って目線の高さを合わせる。三十センチもの身長差がある二人ではこうでもしなければ、正面から向き合う事も
出来ない。だがそれを気にする余裕もない勇希は、冴霞から掛けられる言葉をただ待っている。
「うん。私、勇希くんの気持ちには気づいてた。勇希くんが小学生の頃からだから……四年くらい前から、かな。でもね、その頃には私もああいう態度を取
っていたし、勇希くんがもし言ってくれたとしても断っていたと思う。高校生になって、巴ちゃんから言われて少しその気にはなったけど、やっぱり今一つ
自分からはアクションを起こせなかった」
「じゃ、じゃあ…………どうして、その人と付き合ってるんですか!?」
一番の疑問をぶつける。男からの告白を断り、自分からも行動を上手く起こせなかった冴霞が、何故その男性と交際しているのかという疑問。それを尋ね
ると、冴霞は照れたように笑う。
「んー…………彼はね、私の事を一人の『先輩』として対等に見てくれたの。それがきっかけになって、一緒にいる時間が出来るようになって……もっと彼
の事を知りたいって、辛い立場に置かれていた人だから、力になりたいって思うようになってた。そしたら、彼も私の事をそういう風に想ってくれていて…
………惚気になっちゃうけど、相思相愛になれちゃった」
変わる事のない喜びの笑顔。その表情を突き付けられるのは、覚悟していた以上に辛い。自分では無い誰かを想って形作られる幸福が、これほどまでに辛
いとは思わなかった。
しかしそれを凌駕するほどに、自分の内から芽生える感情がある。好きな女性が幸福を感じている姿を見て、等しく自分も嬉しく感じるという共感。それ
は間宮勇希が純粋な思慕を今村冴霞に抱いているからこそ感じられるものであり、彼女の幸福を願うからこその気持ち。
だからこそ、恨む気持ちも憎む気持ちもない。冴霞に対しても、顔も名前も知らない男性に対しても。
「冴霞さん…………幸せに、なってください」
「……うん、ありがとう。そしてごめんなさい、勇希くん」
優しい香りが勇希を抱きしめる。こうして触れ合うのも、これが最後になるだろう。二人の関係はこれまで通り冴霞にとって勇希は『親友の弟』で、勇希
にとっては『憧れの女性』が抜け落ちて『姉の親友』になる。言葉にすればそれだけの違いだが、もうお互いの気持ちを知った以上、冴霞はともかくとして
勇希から冴霞に手を伸ばす事は出来ない。そして、その理由はもう一つある。
「でも勇希くん、どうして『好きでした』って過去形だったの?」
「え、あ、そ、それは…………その」
モジモジと俯きそうになる勇希を、再び冴霞の手が制する。勇希も逃げられないと分かっているのかぐっと歯を食いしばり、正面から冴霞を見つめ返す。
「冴霞さんには、お姉ちゃんと違ってちゃんと報告しておきたい事があったんです。……でも、まだ僕自身、ぼんやりしてて、自信が無いんですけど……」
「? なにかな?」
興味津々といった感じで勇希の顔を覗き込む冴霞。そんな彼女との距離と、またこれから告げる言葉にドキドキと胸を高鳴らせながら。
「ぼ、僕……僕も、冴霞さんと同じように、知りたいって、大切だって、想える人が……出来たんです。だから僕も、冴霞さんに負けないように頑張ります」
「そうなんだ……その人って、私の知ってる人?」
「それは…………舞さん、です」
「……………………え、ええぇっっ!!?」
赤面しながら、更に唐突過ぎる勇希の告白に、舞は勇希以上に真っ赤になって驚きの悲鳴を上げた。丁度その時階段下を通っていた一年生女子が踊り場の
方を見上げたが、勇希と舞の二人がいる場所は踊り場からもう一つ階段を上り終えた場所なので、その女子からは見えない位置になっている。
さておき勇希と舞である。勇希は舞を、頬を朱に染めたまま見つめ、舞はあわあわと良く分からない動作を繰り返し、しかし自分の奇行に気付いたのか
徐々にしぼんで行き、恥ずかしそうに体育座りをしている膝に頭を乗せ、首から勇希の方を向いた。
「んと……そ、それって、その……あたしの事が、好きだって、こと?」
「まだ、自分でもよく分からないんですけど…………でも、舞さんの事もっと知りたいですし、大切だって思ってます。先に言っておきますけど、舞さんの
お母さんの話を聞いたからじゃありません」
「う…………ず、ずるいぞ、先手を打つなんて……」
うー、と唸りながらも変わらず赤面したままの舞。だがその一方で、勇希は舞に嘘をついた事を心の中で謝罪していた。
実際、勇希が舞を意識するようになった大きな理由はやはり、舞の過去話である。しかしそれを言ってしまう、あるいは言われてしまえば、舞に対する気
持ちは彼女への『同情』だと取られてしまう可能性が非常に高い。それを避けるための逃げ道封じだったが、後ろめたい事に変わりはない。
「で、でも、あたしと勇希くんは昨日知り合ったばかりだよ? それで大切だなんておかしくない?」
「おかしい事なんかないですよ。だって言ったでしょ? まだ僕自身もよく分かってないって。それとも舞さんは、僕にそう思われるのは迷惑ですか?」
「そ、そういうわけじゃないけど……あたしだって、勇希くんの事は気になってたし…………あ」
しまった、と口を押さえるがもう遅い。今までずっと触れ合っていた舞の手を勇希が握り、しかし咄嗟に引っ込めようとした舞の動きに引っ張られる形で
勇希は体勢を崩し、それを受け止めるような格好で舞は勇希に押し倒された。いや、押し倒されたというよりは中途半端に勇希を引っ張り込んだ、と言った
方が正しいだろう。
「わ、わわぁっ!? ご、ごめんなさい、舞さんっ!!」
「…………ぷっ、はは、あはははははっ!!」
半ば組み敷かれるような格好のまま、舞は朗らかに笑いだした。突然の出来事に勇希はさらに混乱し、こちらはこちらで少々涙目になりかけている。
「な、なんで笑うんですかぁ!?」
「いや、だって……普通、男の子が女の子を押し倒す場面でお決まりなアクシデントが起きるどころか、逆に謝っちゃうんだもん……あははっ、もう、ダメ
だよ勇希くん。折角の美味しいシチュエーションだったのに……さっ!!」
ぴしっ、と勇希の額にデコピンを見舞う。力を全く入れていない一撃だが、勇希はさも痛そうに額を押さえ、舞も自然と笑えるようになった。
何も変わっていない。気弱な性格は確かに成長していたようだけれど、それはまだまだ発展途上の段階だったようだ。ちょっとした切っ掛けを物に出来な
い要領の悪さと、からかい甲斐のある男の子。けれど優しくて、いざという時はおっかなびっくりながらも名前の音通り『勇気』を見せてくれる。
そんな彼の事を好ましく思っている。勇希の言うようにこれが明確な『好き』という感情なのかは、舞自身も自信が持てない。だから――――
「ま、これからゆっくり考えていけば良いよね? 勇希くんっ♪」
「な、何の事だかさっぱりなんですけど……でも、舞さんの笑顔が見られて、嬉しいです」
不意打ちのような台詞に、ぼっと舞の頬が燃え上がる。そんな舞を見て勇希は頭の上に「?」を浮かべて。
舞は恥ずかしさを隠すようにぷいっとそっぽを向き、薄目を開けて勇希の狼狽ぶりを堪能する。
昼休み終了のチャイムが鳴る。響き渡る音楽は蒼空に溶けて消えて行きながら、新たな物語の幕開けを予感させる始まりの鐘。
まだ大人になり切れていない、成長途上の二人が紡ぎ出すBGMは、ようやく序章を迎えたばかり。
始まりはここから。そして終わりなど想像さえ出来ない、最初の一歩。もっともっと成長するために、二人で歩む道が始まっていく。
END
あとがき: