B&G High School Memorial

Graduation Travel La route qui continue au futur

 

 

 

 午後八時。

 永遠を誓う告白の興奮も冷めやらぬ新崎謙悟と今村冴霞は、昼間の散策の際に場所を把握していた館内浴場へと足を運んでいた。

 単純温泉である上白温泉は腰痛や神経痛等に効果があり、疲労回復の名湯として知られている。だが密かに有名だったのが、実は高い美容効果だという。

 

 

「……それが本当なら、女将さんの若々しさの秘密は温泉にあるのかも知れないな」

 十分ほど前、パンフレットを読んでいた謙悟がこぼした言葉に、冴霞はいそいそと着替えと浴衣の支度をし、謙悟にべったりと擦り寄った。

「謙悟くん、はやくお風呂に行き……行こう?」

 美容効果と聞けば、冴霞も女の子である以上人並みに興味はある。女性は常に美しくありたいと願うもので、特に目の前には二人の間だけの関係ではある

が、既に婚約した男性がいるのだから、気合の入り方も並大抵ではない。

「え? あ、うん……いいけど。でも露天は景色は良いけど、寒いからなぁ」

「だったら、さっき見つけた家族風呂。あそこなら星も見えるし、誰も来ない……、よ?」

 冴霞の言う通り、白湯華にも家族風呂が設けられている。屋内型のものだが外向きの窓はマジックミラーを使っており、外からは見られることはなく、

内側からはちゃんと空や景色を眺めることが出来る。特に、今年は早咲きの桜が開花しているので、一足早い花見も同時に出来るというこれ以上ない絶好の

ロケーションを堪能することも出来るのだ。

「それなら、フロントに内線しないとな。時間も決めなくちゃいけないし」

「あ、じゃあそれは私がやるから、謙悟くんは着替えの準備をして?」

「分かった、頼む。……?」

 どうにも腑に落ちない奇妙な違和感を感じた謙悟だが、その正体はすぐに理解できた。だが今、冴霞はフロントとの電話中だ。その事を尋ねられる状態

でもないし、それにどのみちこれから少なくとも三十分以上は、冴霞と確実に二人きりになるのだ。性急に聞かなければならない事でもないので、温泉に

浸かってリラックスしてから尋ねた方が、気持ちも楽だろう。

「はい、じゃあ……一時間で。……はい。では、失礼いたします」

 かちゃんと受話器を置き、一息ついてから荷物を持つ冴霞。準備を終えた謙悟が立ち上がると、タイミングを計って冴霞も立ち上がった。

「一時間も予約したのか? のぼせたりしないだろうな……」

「でも、ずっとお風呂に入っているわけじゃないから、……ん、大丈夫っ!!」

 ぐっと謙悟の腕を引き寄せて、二人はしっかりと手を握り合い、指も絡め合う。それが当たり前だと言わんばかりに固く、強く。

 けれど、謙悟は気づいていた。冴霞の態度が、さっきまでと違っていること。嬉しそうにしながらも、言葉を紡ぐ度に神妙な顔をすること。

 その理由は――――。

 

 

Une etape C#

 

 

「冴霞、さっきから言葉遣いおかしくないか?」

 服を脱ぎ、ごく一部をタオルで包む以外は全裸になった謙悟が、しっかりと髪の毛をタオルでまとめた、同じく全裸の冴霞の背中に手桶ですくったお湯を

掛けながら言った。

すると冴霞はドキリとしたようにびくっと肩を震わせ、申し訳なさそうな視線を振り向きながら向ける。

「うぅ……や、やっぱり急には……駄目、ですか?」

「いや、駄目とかじゃなくて。確かに突拍子もないっていうのもあるけど……なんか、むず痒くて変な感じだから」

 素直な感想を言うと、冴霞は深々と溜息をつきながら手の中でボディーソープを泡立たせ、腕から順に洗いはじめる。謙悟に裸を見られる事には抵抗も

ほとんどなくなっており、謙悟が背中を洗ってくれる間、冴霞は腕や身体全体、そして足を洗うという分担をしていた。

「何か理由があるんだろ? よかったら、ちゃんと説明してくれないか?」

 理由もなしに言葉遣いを変えるような酔狂を、冴霞がするはずがない。冴霞はそんな謙悟の信頼を視線から感じ取り、身体を洗う手を止めた。

「……私が普通の言葉遣いで話す人って、誰だか知ってます?」

「え? あ……っと、来栖と、間宮さんと……お母さんとお父さん、かな?」

 謙悟が知る限り、それ以外の人間に対しては冴霞はほぼ丁寧語で話している。時と場合によっては謙悟もその四人の中に入る事もあるが、常にという

わけではない。

「そう。家族と、昔からの親友だけ。……病気だった私が心を許せた、数少ない人たち。でも謙悟くんだって、私にとってはかけがえのない大切な人。

恋人で、未来の旦那様なんだから……もう丁寧語で話すのはおかしいって、思ったんです。でもやっぱりすぐには、上手くいかなくて……」

「そりゃそうだろ。昔から一緒にいて、ずっと普通に話してた人と同じようにはいかないよ。俺たち、知り合ってからまだ一年も経ってないんだから」

「一年じゃありません!!」

 身体ごと振り向き、強い意志とほのかな怒りを滲ませた視線が向けられる。その眼は、相手が謙悟でなければ振り向きざまに手が出ていてもおかしくない

ような勢いだった。

「一年なんかじゃない……八年前から、私たち……忘れたのっ!?」

「わ、忘れてなんかいない! でも、ちゃんとお互いの名前を知って、話が出来るようになってからは、まだ一年も経ってないって、そういう事だ。ムキに

ならなくても、俺もちゃんと覚えてるよ」

 小学五年生だったころの冴霞と、小学四年生だったころの謙悟。八年前の春に二人は一度出会い、互いの名前も知らないままに別れた。しかしその時の

謙悟の優しさと言葉に冴霞は救われ、彼女の心を蝕んでいた『人間不信』という名の病は完治した。

 その思い出を何よりも大切に思っているからこそ、冴霞は怒りとともに謙悟に対しても咄嗟に普通の言葉遣いで話すことが出来る。だがそれは、時と場合

――――つまり、冴霞が感情的になって我を忘れなければ、出てくる事のない物である。

「っ……ご、ごめんなさい……こんな時だけ普通に話せても、意味ないのに……」

「いや、今のは俺が悪かった。冴霞があの時の事、大事に思ってくれてるの知ってたのに……ごめん」

 お互いに謝り、冴霞の濡れた右手が謙悟の胸に触れ、謙悟の右手は冴霞の頬に触れる。

「でも、無理して変な言葉遣いにされるよりは今までの方が、俺は良いよ。今みたいに、怒ったときとか、嬉しい時とかに言われるのが……もう、慣れ

ちまったからかな。それに冴霞、俺以外に怒る時はいつもの丁寧語だろ?」

「うん……。……じゃ、じゃあ、今まで通りで良いの?」

「ていうか、どっちかを選ぼうとするから変になるんだと思うけど。冴霞が話してて、一番楽な風に変えていけばいいさ。それに今だって、自然に丁寧語

じゃなくて、普通の言葉遣いで話してたし」

――――今まで通りで良いの?――――

「あ……そういえば、そうですね」

 つい今しがた、自分で口にした言葉を思い出し、はにかむ冴霞。謙悟はそれを見て優しく微笑むと、空いている左手で冴霞の腰に手を回し、自分の方に

くいっと引き寄せた。謙悟の胸に触れていた右手は抵抗なく折りたたまれ、同時に冴霞の柔らかい身体が謙悟と密着する。

「あと、前にも言ったけど」

「ん?」

 謙悟はわずかに膝を落として、頭の位置を合わせてから冴霞の額にこつんと自分の額をくっつけて。

「言葉遣いが変わっても、変わらなくても……冴霞は冴霞。俺の…………世界で一番、大好きな冴霞だから」

「謙悟くんっ……」

 そっと、口唇を重ねて。お預けになっていた誓いのキスを、二人は今ようやく交わすことが出来た。

 

 

 

「……桜、綺麗だな」

「うん……それにお湯も、気持ちいい」

 窓の向こうに舞い散る桜を見ながら、冴霞は謙悟に後ろから抱っこされる形で温泉を堪能していた。お湯の温度はわずかに熱く感じるくらいだが、透き

通るほどに美しいお湯と滑らかな感触のおかげで、体感的にはいくらか緩和されている。

「このお湯に美容効果が……飲んでもいいんですかね?」

「いや、普通は飲まないだろ。ていうか、人が入るお湯を飲もうとする奴なんているか?」

「それもそうですね。それに、もし飲んでもいいなら普通に売店で売ってるはずだし」

 温泉水の中には、体内に取り込むことによって薬用効果を発揮するものもある。温泉水自体、天然ミネラル分が豊富である事は既に立証済みであり、欧州

ではむしろそちらの方が主流とされている事も知られている。ちなみに冴霞の言った事は実は当たっており、白湯華の売店のみならず直営自動販売機では、

『白天水』という名前で売られていたりする。

「温泉って、もうちょっと濁ってるイメージがあったんだけど……綺麗だよな。すごく透き通って」

「……謙悟くん? どこを見ながら言ってるんですか?」

 少しジト目気味に謙悟を見上げる冴霞。だが謙悟はするっと冴霞の腋の下から手を回すと、ふにょんと彼女の乳房を持ち上げた。

「どこって、分かってるくせに」

「ぁん、もう……駄目ですよ。家族風呂でこういうことするの、問題になってるんだから……んっ」

「聞いたのは冴霞の方だろ? でもあんまり浮いたりしないんだな、これって」

 たぷたぷと冴霞の乳房を弄ぶ謙悟。確かに脂肪の塊である乳房が湯に浮く、というのはよく言われることだが、冴霞のそれは大きさに比してあまり浮いて

こない。すると冴霞は謙悟の手をきゅっと掴み、イタズラを止めさせた。

「……言っておきますけど、謙悟くん。お湯に浮くおっぱいって、実は張りと弾力を失った物なんですよ?」

「え、そうなんだ?」

 うん、と頷いて謙悟の手を自分の乳房に押し付ける冴霞。お湯の水圧による抵抗はあるものの、冴霞のそれは柔らかくもしっかりとした張りと、押し返す

弾力がある。今しがた冴霞が言ったものとは正反対の性質だ。

「じゃあ、浮くのって……言い方は悪いけど、垂れてるってこと?」

「それは、まぁ……そういう事になりますけど。加齢とかで避けられない事ですし、日本人でおっぱいの大きい人なんかは特にその傾向が強いと思います。

私は、今でも腕立てとか簡単な筋トレ、あとマッサージとかのケアもやってますから、それなりに鍛えられて簡単にはなりませんけど。……長くなっても

いいなら、ちゃんと説明しましょうか?」

「いや、のぼせるからいいです……」

 げんなりした声で遠慮する謙悟を見ながら、冴霞はふふんと得意そうに笑う。だが。

「……それでも手は離さないんですね、謙悟くん……」

「いや、浮く浮かないのとは別問題だから。どうしても嫌なら、離すけど?」

「もぅ……意地悪」

 つん、と冴霞がそっぽを向く。謙悟はそれを見て、笑いながらもゆっくりと冴霞の乳房から手を離し、彼女の頬にキスをして、そのまま口唇にもキスする。

すると冴霞は謙悟の腕の中から抜け出し、正面を向いたかと思うと――――

「えいっ」

 ばしゃっ! とお湯が押し出される。両手を組んでの水鉄砲。それは見事に謙悟の顔面に命中した。

「っ……やったな、このっ!」

「きゃぁっ! 意地悪されたお返しっ! ていっ!」

 ばしゃばしゃとお湯をかけ合い、温泉で遊んではいけないという基本的な事を忘れて、子どものように戯れる二人。

 そうこうしているうちに時間は過ぎ、時間いっぱいの一時間になる頃には二人ともややぐったりとした感じで、家族風呂を出るのだった。

 

 

 

 

 家族風呂から上がり、浴衣に藍色の茶羽織を羽織って部屋に戻った冴霞だったが、謙悟は買い物があると売店に行っていた。すぐに戻ってくるから、とは

言っていたものの、目の前に用意してある布団を見ると、何とも言えず困ってしまう。

「も、もうちょっと離した方が良いかな……でも、枕だけだし……うぅー」

 畳の上に敷かれている布団は、一組しか用意されていない。二人で泊まるのならば通常二組敷くのが当たり前なのだが、そのもう一組は既に冴霞が畳んで

部屋の隅に追いやっている。そして追いやった張本人である冴霞は、枕を抱っこしてうろうろしていた。

 謙悟と二人で寝ることにはもう慣れている冴霞だが、実は畳の上に敷いた布団で謙悟と寝るのはこれが初めてだった。ベッドほど広くはなく、枕の位置を

あまり離し過ぎると、ふとした拍子に布団からはみ出してしまう。だがだからといって枕をぴったりくっつけて寝れば、それはそれで邪魔だろう。要するに、

寝る位置のバランスが上手く測れないでいたのだ。

 そうこうしているうちに謙悟が帰ってきた。紙袋を一つと、袋にも入れていない裸のままの茶色い瓶を持っている。どうやら売店で夜食代わりに仕入れて

いたようだ。

「ただいまー……何やってんだ?」

「え!? あ、いえいえ、なんでも。……? 謙悟くん、それって……」

 ぽいっと枕を投げ捨て、謙悟が手に持っている瓶を見る。ごく一般的なリターナブル瓶だが、貼られているラベルにはこう書かれていた。

『地酒 純米吟醸 白天朱華(はくてんしゅか)』

「お酒じゃないですか!! なに買って来てるんですか!?」

「いや、どうせだから飲もうと思って。普通に売ってくれたし」

「ダメ、絶対駄目!! 謙悟くんも私も、未成年なんだから!!!!」

 がぁー、と烈火のごとく怒る冴霞。アルコールに極端に弱い彼女にとって、『酒』と名のつく物は料理酒以外は全て敵だ。それでなくても二人ともまだ

未成年、飲酒行為は本来ご法度である。いかに謙悟がアルコールに強くとも、これだけは覆らない。

「そう固い事言うなよ。冴霞も飲んでみればいいだろ? ちゃんとお湯割りにするから……二十倍くらいに」

「……それはそれで怒りたいんですけど……そのお酒、アルコール度数は何度なの?」

 備え付けの湯沸かしポットと水(温泉水・白天水)をテーブルから下ろす謙悟から酒瓶を奪うように取り、ラベルをチェックする。アルコール度数は明記

されており、十七度以上十八度未満とある。これを二十倍に薄めるという事は、アルコール分は限りなく希薄になり、その上せっかくの味も損なってしまう。

まさに職人泣かせの蛮行だ。

「これなら、一杯くらい飲めるだろう? それに高校卒業したんだし、少しくらい飲んだって誰も咎めないぞ? これも思い出の一部だ。な?」

「…………お酒を勧める人の常套句ですよ、それ……」

 はぁ、と大きな溜息を吐き、逆さまにして置かれていた湯呑みを差し出す冴霞。謙悟は笑いながら瓶の封を切り、栓を捻って開ける。

 ふんわりと香るアルコールと、米麹の香り。ほんの数ミリを湯呑みに注ぎ、その二十倍のお湯をポットからどばどばとさらに注ぎ、割箸でかちゃかちゃと

かき混ぜる。匂いを嗅いでも、ほとんど元の匂いがしないというなんとももったいない有様である。

「はい、どうぞ。じゃあ……乾杯」

「乾杯……」

 ちん、と湯呑みを合わせて鳴らし、一気に煽る。謙悟の方も一応お湯割りではあるが、比率でいえば湯と酒が一対五くらいだ。真っ当な割り方だろう。

「…………謙悟くん、これ、お湯……」

「ん」

 冴霞が差し出した湯呑みからお湯割りを飲む。言葉通り、紛れもないお湯だ。

「もうちょっと酒、増やしてみるか……倍くらいで良いよな」

 単純計算でさきほどの倍に酒の比率を高めるために、謙悟は瓶を傾けて同じくらいの量を湯呑みに注ぎ、また箸で混ぜる。いくらか濃度も濃くなったのか、

微妙に米の香りが漂ってきた。

「じゃあ……うん、今度はこれで。さっきよりはマシになってると思う」

 味見をして、湯呑みを冴霞に返す。冴霞はそれを両手で受け取って、わざわざ謙悟が口を付けた場所を狙い澄ましてから飲んだ。

「……あ、さっきよりは。…………でもこれって、ちゃんとしたお酒の楽しみ方じゃないですよね?」

「まあな。でも全然薄めないで飲んだら、冴霞は絶対酔っ払うから止めた方が良い。本当に」

「わ、分かってますよっ!」

 怒ったのか、一気に湯呑みを煽って酒を飲み干す。さすがにこの程度で酔う事はないものの、違う意味で冴霞の目は据わっていた。

「おかわりっ!!」

「はいはい、あんまり無理しないでくれよ」

 とぷとぷと酒を湯呑みに注いで、またお湯割りを作る。だが少量であってもアルコールを摂取すれば、それを分解するためにアセトアルデヒドが分泌され、

これが蓄積されることによって酔いが発症し、同時に別の酔いとして脳の麻痺・興奮の促進がある。前者の場合は嘔吐や心拍数の増加などが起き、これに

よって二日酔いになることがある。

しかし冴霞の場合二日酔いになる事はそれほどなく、また吐き気があっても実際に嘔吐した事は一度くらいしかない。その点だけでいえば、冴霞は決して

一般に言われるような『酒に弱い』というわけでもないのだ。むしろ彼女の場合、後者の方が重症なのである。

 

 

「ちょっと、トイレ行ってくる」

「は〜い」

 謙悟が席をはずし、部屋を出て行く。客室である『春桜の間』にも当然トイレは設置されているが、作りの都合上入口にしかない。当然そこには襖と扉で

仕切りがされており、戻ってくるまでにはわずかながら時間を要する。

 十倍に薄められても、アルコールはアルコールだ。冴霞はほんのりほろ酔い気分になりながら、ふわふわとした感覚の中で地酒が入っている瓶を見る。

 謙悟はお湯もほとんど入れずに飲んでいるが、あれは本当はどんな味なのだろう。飲めばきっと彼の言う通り酔っ払うだろうが、どうせ今だってちょっと

酔っているのだ。どのみち酔うのなら、大した差があるとは思えない。だったら一杯くらい飲んでもいいじゃないか。

 酔っ払い特有の訳の分からない理屈で自分を納得させると、冴霞はおもむろに瓶に手を伸ばし、危なっかしい手つきで、謙悟と同じ比率でお湯割りを少量

作ると、何事もなかったかのように瓶を元の場所に戻した。

「ただいま。冴霞、まだ大丈夫か?」

「はい。謙悟くんこそ、大丈夫なの? 結構飲んでるみたいだけど……」

 冴霞の言う通り、地酒はかなり消耗している。二人で飲んでいるといっても実際はほとんど謙悟一人で飲んでいるようなものなので、いくら謙悟が酒豪だ

と知っていっても、冴霞には少々飲み過ぎに思われた。

「全然平気ってわけじゃないけどな。実際、自分でもちょっと酔ってる自覚あるし。でも、これ一本空けるくらいなら平気だよ」

「無理して飲んでも、良い事なんてないんだから……お酒に弱い私が言うと説得力あるでしょ?」

「自分で言うなよ。ほら、もうちょっと飲むか?」

 謙悟が酒瓶を掲げると、冴霞は今入っているお湯割りをぐっと――――飲み干して、しまった。

 

 

 

「にゃぅ……えへへ、けんご、くぅ〜ん……」

 午後十一時過ぎ。

 ゆるみ、とろけきった表情。覚悟はしていたものの、謙悟は内心またか、と溜息をついていた。

 冴霞はごろごろと猫がするように謙悟の膝の上に乗って、両手は彼の首にしっかりと巻かれ、しなだれかかっている状態だ。茶羽織の紐は緩く解けかかり、

その奥にある浴衣もはだけて、胸の谷間がしっかりと覗いている。

「また、酔っぱらって……そんなに飲んだっけ?」

「んとね、けんごきゅんと、同じくらいの作って、飲んだの……そしたら、ふわ、ふ……ふわぁ〜」

 大きな欠伸。とはいえそこまで酷く酔っているわけではない。単に言動が幼児化しているだけで、ある程度の意識と判断力は保っているのが、せめてもの

救いだ。だがそれはいいとしても。

「馬鹿だな。俺と同じのなんて飲んだら、すぐ酔うって分かってただろ? なんでそんな事したんだよ?」

「らって……けんごきゅんとおなじの、飲んで、みたかったんだもん……」

 すがるような視線と、不安げな顔。その不安を拭うように、謙悟はよしよしと冴霞の頭を撫でる。冴霞は気持ちよさそうに目を細め、ぎゅ〜っと謙悟に

抱きつく力を強めた。その拍子に浴衣の裾が大きくはだけ、艶めかしい脚線が露わになる。

「これじゃ、もうどうしようもないな……しょうがない。冴霞、布団で寝れるか? 運ぶからな?」

「ふぇ? …………ぁい……」

 ぐっと冴霞をお姫様抱っこで抱え、既に敷かれている布団に下ろして茶羽織を脱がせる。冴霞は足を伸ばしたまま布団に座って、謙悟のされるがままに

なっており、ぼ〜っと謙悟を眺めていた。

「はぁ。ったく……結局、今日渡すのは無理かな」

 ぼそりと呟いて、謙悟は自分の茶羽織から小さな金属製のリングを取り出した。本当なら謙悟が十八歳になる時に、冴霞に渡す為にと作っておいた指輪だ。

三か月前のクリスマス・イヴにようやく冴霞の指の大きさを知った謙悟は、親友である継の紹介で教えてもらったシルバー・アクセサリーのショップに依頼

して、この指輪を作ってもらった。

 飾り気のない、クロムシルバーリング。だがその手の甲に向ける側には、フランス語のメッセージが彫り込まれている。

La route qui continue au futur――――フランス語で、『未来に続く道』という意味だ。正式な婚約指輪が納まるまでの繋ぎであり、それまでの道、

これからの道を守る意味と約束を込めて、謙悟が依頼したもの。それを隣で聞いていた継はただ肩を叩くだけだったが、それが継なりの祝福なのだろう、

ということは謙悟もちゃんと理解していた。

「……冴霞」

「んぅ?」

 首を傾げて、じっと謙悟を見る潤んだ紺青色の瞳。見るたびに飲まれそうになる美しさ。

 謙悟はそっと冴霞の左手を取り、薬指だけを上げて――――するり、と指輪をはめた。

「……今村、冴霞さん。俺と結婚……して下さい」

「…………はい……………………ひっく」

 最後のしゃっくりにがっくりと脱力するが、今はまあ仕方がない。死ぬほど緊張し、心臓がバクバク言っているが、本番前の予行演習だと思えば今日の

これも無駄にはならない。謙悟はそう割り切って、冴霞の指から指輪を抜こうとする。が、その時。

「やぁ〜!!」

 まるで麻那のような悲鳴をあげて、冴霞は布団に潜りこんでしまった。謙悟は慌てて布団をはがそうと一歩近づくが、今度はあっという間に布団を掛けられ、

視界を塞がれた。

「ちょ、こら、冴霞!? っ、このっ!!」

 布団を跳ね除け、指の先に感じた柔らかな感触を引き寄せてそのまま敷き布団の上に押し倒す。かなり乱暴だが、視界が塞がれていた以上こうでもして

捕まえなければ冴霞はきっと『春桜の間』を出てでも逃げていただろう。

「冴霞、指輪……」

「や……やだっ!!」

「どうして!? まだ――――っ」

 潤んだ紺青が、水を湛えて揺れている。溢れそうな涙の一滴を堪えるように。

「だって……さえ、けんごきゅんの、およめしゃんだもん……もう、決まってるもん……ゆびわ、なくしちゃ、とられちゃ……だめ、だもん」

「さえか……」

 ひっく、としゃくりあげる。もう流れてしまっている涙をこれ以上こぼさないように、と。

 酔っていようと、幼児化していようと。冴霞は冴霞だ。謙悟の事が大好きで、謙悟もまた大好きな、今村冴霞。それは何も変わらない。

「……そうだよな。さえかは……俺の、お嫁さんだもんな」

「うん……ん……」

 浴衣の上からでも分かるほどに瑞々しい乳房に触れ、体重を掛けないように気遣いながら、優しくキスをする。それが溶け合うように熱く、激しく変わって

行くのに、そう時間は掛からなかった。

「んちゅ、ちゅ……はふ、にゃ……ぁん」

「んく……ぷぁ、はっ……冴霞……ちょ、待ってて。電気消すから」

 すっと立ち上がる謙悟。だが冴霞は謙悟の浴衣をぐいっと引っ張って、危うく謙悟を転ばせそうになった。

「って、こらぁ!!」

「ご、ごめんにゃさいっ……らって、さえ、くらいの……こわいもん」

 あぁ、と謙悟は思い出したように納得する。冴霞は自分の家の廊下であっても、真っ暗闇を怖がるのだ。霊感などなくオバケも信じていない彼女だが、

ホラー映画とスプラッター物だけは大の苦手だという。特に暗がりから急に飛び出してくる、といった類は本当にダメだそうだ。

「じゃあ、電気つけたままでいいのか? どっちみち寝るなら、消さないといけないだろ?」

「……しゃ、しゃえも、いきます……」

 とうとう自分の名前までまともに言えなくなった冴霞に苦笑いしながら、謙悟は冴霞を抱っこしたまま部屋の明かりを落とし、再び布団に下ろすと、先程

投げ飛ばした掛け布団を回収して布団の中に潜り込んだ。

「じゃあ、続き……しますか? 俺のお嫁さん」

「ぇと…………ぁぃ。さえの、だんなさま……」

 言ってから、きゃーと恥ずかしそうに布団で顔を隠す冴霞。だがそれ以上に、謙悟は臨死級の大ダメージを受けていた。

「(やばい。俺はもう殺されそうだ。こんなに可愛い冴霞を見るのは初めてかもしれない。いや、いつも可愛いのは分かってるんだけど。でも、それでも、

惚気たくなるだろうこれは!! あぁもう冴霞、そんな潤んだ目で俺を見るなー!!)」

 誰に言っているのか分からない謙悟の妄想が垂れ流しになっている。良くも悪くも謙悟も酔っているようだ。といっても酒ではなく、冴霞にだが。

 そして――――二人の時は始まる。

 否、これからもずっと続いていく。

 熱く、甘く、優しく、激しく。

 酒の酔いが醒めるほどに。

 更に酔わされるように。

 

 遥かな未来はこれからも、二人の幸せとともに紡がれる。

Le futur lointain, avec le bonheur deux est tourne meme de ceci.

 

fin




あとがき:

Graduation TravelのCパート、割愛していた中間部分を補完……というかそのものです。
尻切れトンボに終わるのを避けるのと、諸々の疑問や抜けていた部分を補う目的で書いていた
のですが、これを完成させてからとなると事実上今日が掲載日、という運びとなり、本来の目的
である「年始一日目の掲載」が達成できないという憂き目に……あわわわ。
で、実際書き上げたところどのパートよりも長くなるという事態にまでなりました。計画性がないから
ですね。申し訳ありません。
とにかく、これで

Graduation Travelは終了です。合計四部作、最後までお付き合いいただき、本当に
ありがとうございました!




管理人の感想

私の希望もあり、鷹さんに幻(?)のGraduation Travel C#を書いて頂きました〜^^
うん、やっぱり酔ってしまった冴霞は最強ですね。普段は毅然としているからこそ、幼児化したときのギャップが堪りません(笑)
そして・・・ラストはなんつーアマアマな(汗)
でも、酔っていても謙悟の指輪を離そうとしなかった冴霞と、酔っているからこそその無垢で純真な想いに心を打たれた謙悟。
二人の絆の深さが覗える、素晴らしい作品だったと思います。

それでは、本当にありがとうございました〜。



2008.1.5