Memories Base 5th Anniversary

          BGM  Parallel World Story

 

 

 ――――五月二十三日、金曜日。

 

 

「あ、あの……神崎さんっ」

 そう声を掛けられたのが、彼と彼女の初めての会話だった。彼は片付けていた機材を持ったまま、視線を下げる。

 機材が邪魔をしてろくに顔も見えない事に気付き、仕方なしにそれを下ろすと、もう初夏の季節だというのにガウンを羽織った女の子が彼を見上げていた。

「あー……えと、何か用?」

 どこかそっけない彼の声に、彼女はうっとわずかに言い淀みかけるも、大きな瞳から放つ視線を逸らすことなく。

「今日、これからみんなと打ち上げに行きませんかっ!!」

 二人がまだ生まれていないくらい昔に流行った、男女出会い系の番組で男性がしていたようにお辞儀し、手を差し出す彼女。

 それに対して、彼は少しの間呆気に取られていたが――――ちょん、と彼女の指先に触れる。

「じゃあ……よろしく、お願いします」

「!!」

 彼の答えを受けて、彼女ががばっと顔を上げる。その拍子に緩く結んでいたガウンの紐がはらりと解け、彼女の素肌が露わになる。

 

 ――――季節外れの水着姿。可愛らしくも、そこはかとない色気も漂わせるホワイトとピンクのビキニ。彼女は慌ててガウンを引き寄せて、照れたように

はにかむ笑顔を向けた。

 

「あ、え、えへへ……ごめんなさい。まだ着替えてなくて……」

「まぁ、終わったばっかりだしな。打ち上げ行くんなら、早く着替えてこないと」

「はぁ〜い。じゃあ神崎さん、また後でねっ! あ、そうだそうだっ」

 くるくると目紛るしく表情を変えながら、ガウンのポケットから艶のあるピンクの携帯電話を取り出す。最近の子にありがちなゴテゴテしたデコレーショ

ンは施しておらず、ストラップを一本結び付けただけのシンプルなもの。それを彼が少し意外に思っていると。

「神崎さんのケータイと、メアドちょうだいっ。あたしのと交換しないと、連絡も出来ないでしょ?」

「それもそうだ。ちょっと待って……よっと」

 二年近く使っている携帯電話を作業用のベルトポーチから取り出し、赤外線機能で連絡先を交換する。彼女は受け取ったデータをぱぱっと登録し、彼も同

じく登録していく。

「……って、自分の名前に絵文字使うなよ」

「だって、インパクトがないと面白くないもん。名前だけじゃつまんないですよ♪」

 無邪気に微笑む彼女を見ていると、本当に自分と一歳しか違わないのだろうかと彼は常々疑問に思ってしまう。しかし交換したデータに書かれた生年月日

は紛れもなく彼の一年後輩で、先日目にした経歴書にもそう書かれている。

「名前だけでも、十分インパクトあると思うんだけどな、キミの場合は」

「へぇ〜。神崎さんって、カッコいい名前なんですね〜」

 お互いのフルネームを改めて知り、彼は折り畳み式の携帯を折り、彼女はスライド式の携帯を閉じる。

 

 彼の名前は、神崎勇悟(ゆうご)。

 彼女の名前は、南城(なんじょう)くらら。

 

 出会ってから約一カ月。会った回数はまだ片手で足りる程度。これは、そんな関係から始まった二人の物語――――。

 

 

 

 Boy meets Girl ~es ist wie ein glanzender Sonnenschein~

 

 

 

 神崎勇悟が今のアルバイト先であるレンタルスタジオ『平木スタジオ』で働くようになってから、およそ一カ月余り。週に四日というやや多めのシフトは

少々辛い時もあるが、力仕事は体格の良い彼には似合いといえば似合いだった。身長は百八十を超え、それ相応に筋肉も備えている。その理由は長年続けて

いた、しかし今は情熱が薄れてしまった武道――――剣道に打ち込んでいた為だ。

 昨年までは、勇悟の名前は高校剣道界でも知られていた。個人戦でインターハイに出場し、ベストエイトという立派な結果を樹立しており、それにより幾

つかの大学からもスポーツ推薦の話が来ていた。学力に置いては平均程度で、大学一般入試を受けるには条件的に厳しいものもあった勇悟にはまさしく渡り

に舟の話であり、それを受けるべく普段の素行も乱れがないよう十分注意していた。

 しかし、優秀な人間が浴びるのは輝かしい評価ばかりではない。成果を妬む者、置かれた立場を羨む者。そうした者たちは勇悟の内外にも確実に存在し、

事実剣道部に置いても神崎勇悟は羨望と嫉妬の対象だった。

 そして、その者たちの念は思いもかけない形で果たされることになる。秋も深まる十月のある日、部活動を引退した後にも鍛練という事で剣道場で汗を流

し、いつものように夜八時頃に帰宅する途中。

 泥酔した、免許を取得したばかりの少年は信号をいとも容易く無視した暴走運転を起こし。

 不幸にも、勇悟はその事故に巻き込まれるという最悪の結果に見舞われたのだった。

 

 

「神崎さーん、こっちこっち〜!!」

 よく通る可愛らしい声が響き、手ぶらの勇悟はその声の主に歩み寄る。くららの周りには打ち上げに参加するであろう少女たちが、彼女を含めて合計五人。

そして彼女たちのマネージャーを務める眼鏡をかけた長身の女性・伊村紗弥香と、勇悟が務める平木スタジオのスタッフでもあり、また経営者である平木社

長の娘・平木香奈の姿まである。それ以外には誰もおらず、要するに男は勇悟一人だけなのだ。

「えっと……男って、俺だけですか?」

「ええ、皆さん忙しいそうですからね。ですが、神崎さんは常日頃からお世話になっている平木さんの、ご友人という事ですから」

 仕方なしに、という態度をこれ見よがしに見せ付けて、紗弥香がつんと視線を逸らす。どこか人を寄せ付けない氷のようなこの女性を、勇悟はなんとなく

好きにはなれないでいた。平木スタジオのスタッフ内でも評判になるほどの美人ではあるのだが、勇悟にアルバイトを紹介してくれた親友・高村経次の評で

は『氷の華』とまで言われている。改めて、その評価は正しいと納得せざるを得ない。

「よかったじゃないですかぁ、カンザキさんっ」

「そうそう、女の子の中に男の人一人だなんて、ハーレムじゃん?」

「お酒はダメだけど、いっぱいサービスしてあげるからねっ」

「あぁ〜、なんかソレ、やらしーかも〜」

 女の子たちがクスクス笑いながらベタベタと勇悟にくっつき、彼を誘ったくららもそれに混ざって手を引っ張る。その一方で距離を置いている紗弥香は呆

れたように肩を竦め、彼女の隣にいる香奈もぎこちない苦笑を浮かべている。しかし女の子たちはそれに気づくこともなく、勇悟だけが彼女たちの視線に気

づいていた。

 彼女たちの視線の意味は分かっている。自分を取り巻くこの子たちと仲良くするのは構わないが、あくまでもそれは仕事のみの関係に留めろと言っている。

くららを始めとした女の子たちは紗弥香にとっては資産であり、香奈にとっては大切なお客様。その点はちゃんと勇悟も理解している。

「そんなにくっつかれると、歩きづらいんだけど……」

 遠慮がちにそう言うと女の子たちが互いに目配せをし、勇悟の手を引いていたくららを逆に引っ張って彼に押し付ける。「わぁっ!?」という小さな悲鳴

を咄嗟に腕の中に迎え入れたのも束の間、女の子たちは「ひゅーひゅー」とからかうように囃し立てる口笛を吹いた。

「ちょ、ちょっとみんな!?」

「いーじゃんいーじゃん、カンザキさん誘おうって言い出したのはくららなんだからさー!」

「うんうん、サービスしちゃえー♪」

「も、もう! そんなことしないもん!!」

 勇悟が手を離すと、くららは女の子たちに抗議を続ける。しかし彼女たちはくららのそんな態度を「やっぱり意識はしてるよね〜」などと言いながら笑い

合い、くららも怒りながらだが、いつの間にか笑顔も混じっている。

「……神崎くん?」

「ん? ああ……平木」

 香奈に声を掛けられて、勇悟の意識がくららから離れる。香奈と勇悟はかつては同じ高校に通う同級生で、彼にアルバイトを紹介してくれた高村経次とは

当時からの恋人同士でもある。その為、香奈自身も勇悟が平木スタジオで働く事を歓迎してくれていたのだが。

「くららちゃんのこと、気になる?」

「……て言われてもなぁ。まともに話したのは、今日が初めてだし。確かに可愛い子だとは思うけど」

 今のところ、それ以上の感情はない。アルバイトとして勤務している勇悟が受け持つ仕事は、雑用が主になる。機材の搬送、撮影補助のさらに補助、そう

した下準備や裏方に徹するばかりの中で、スタジオの主役たる彼女たちと接点を持つ事など、そうそう出来る事ではない。

 年齢は近くとも、彼我の距離は大きく離れている。それは物理的な距離ではなく、両者の関係。

「神崎さーん、香奈さーん、早く行こうよぉ〜!!」

 不機嫌な感情をどこか残しながらも、明るく朗らかなくららの声。それに従って、二人は彼女についていった。

「でも、気にはなるんだよね?」

「……茶化すなっての」

 香奈との会話を半ば強制的に終わらせるように、歩くペースを速める。追いついたところで勇悟を迎えてくれたくららの表情は、心なしか撮影の時よりも

可愛らしく見えた。

 

 

 

 

 ――――南城くらら。彼女は平木スタジオのお客様であり、女子中高生向けファッション雑誌のモデルを勤めている。

 といっても正式に契約して、専属で活動しているプロのモデルではない。彼女の場合は週に一度程度の日程と、さらに短い拘束時間で撮影をするだけの、

いわゆるアルバイトのようなものだ。扱い的には投稿掲載のモデルとの差はそれほど大きくないが、特定のコーナーで指定された衣服を纏って撮影されると

いうスタイルが異なる。そうした女の子はくららを始めとした先程の五人であり、いずれも雑誌掲載時は本名から身元の特定を避けるため、芸名というほど

大袈裟ではないにしても、それぞれに名前を偽っている。

 くららも、その名前から偽名だと思われていたのだが……先述の通り、これは正真正銘彼女の本名である。

 

 

「え〜!? あたしの名前、ウソだと思ってたんですか!?」

 ファミレスの端座席に陣取って撮影終了の打ち上げの最中に、またしても女の子たちの策略によって隣同士に座らされた勇悟から漏れた一言に、くららの

声が上がる。しかしそれに同調する人はおらず、周りの女の子たちもうんうんと首を縦に振っていた。

「でもそれって仕方なくない? くららなんて名前、誰でも偽名だと思うよ?」

「今だから聞くけど、なんか由来とかあんの?」

 訪ねたのは『せりあ』と『ゆうり』。こちらはくららとは違い偽名だが、勇悟は彼女たちの本名は知らない。というか、今日この場にいる五人で本名が判

明しているのはくららだけだ。

 残る二人は、『まりあ』と『あーや』。こちらも同様に本名は明かされていない。しかしいずれもどこか日本人としても通じる名前だけに違和感は少ないが、

その中に『くらら』という名前が混ざれば異彩を放つと同時に、偽名だと思われてしまう可能性は非常に高いと言わざるを得ない。

「由来って言ったって、そんなのないよぉ。両親はどっちも日本人だし……そんなに、ヘンですか? 神崎さん……」

 心なしか目元を滲ませ、上目遣いに尋ねるくらら。思いがけない攻撃(?)に手に持っていたグラスを取り落としそうになるが、勇悟は出来るだけ彼女を

傷付けないようにと気をつけながら、テーブルにグラスを置いてから答える。

「まぁ、最初に知った時は驚いたけど、でも可愛い名前だと思うよ」

「――――っ…………や、やだもう、神崎さんってばぁ!!!!」

 ばちん、と小さな手の割に大きな音を立てて、くららの張り手が勇悟の背中に命中する。大して痛くもない一撃だが、その行為がくららの照れ隠しだと

いう事は誰の目にも明らかであり、女の子たちはまたもニヤニヤとどこかイジワルな笑みを浮かべ、彼女たちと勇悟を一望できる席に座っている紗弥香の表

情は普段通り怜悧な物ながら、漂わせる雰囲気はまさしく敵意?き出しといったところだ。さすがにそういう謂れの無い敵意を向けられるのは勇悟としても

甚だ不本意ではあるが、ここで抗議すればただでさえ芳しくない紗弥香との関係をより悪化させることにもなりかねないし、また友人である香奈の立場や、

くららたちにも不愉快な思いをさせてしまう事を察して、何も言わずに紗弥香からの視線を外す。

「ほらほら、カンザキさんグラス空いてるよー。くららちゃん、お酌してやんなよ〜?」

「ふぇ? あ、ホントだ……神崎さん、何が飲みたいですか?」

 あーやに促され、今まで照れてくねくね身をよじっていたくららは我に返り、幾つかあるボトルをずらずらと並べて行く。コーラ、サイダー、オレンジジ

ュース、ウーロン茶。打ち上げの席だというのに一つたりともアルコールがテーブルに乗っていないが、それも無理からぬことである。

「あーあ。紗弥香さんがいなかったら、お酒ぐらい飲みたかったのになぁ〜」

 不満をぼそりと漏らしたのはまりあ。するとその呟きに紗弥香の眼鏡がきらりと鋭く光り、「コホン」とわざとらしい咳ばらいが一つ落ちる。

「まりあちゃん、あなた達は全員未成年なんだから、そんなものを飲むどころか注文した時点で即補導されるわよ? そうしたらもうモデルの仕事に就くど

ころか、普段の学校生活でさえ白い目で見られる事になるんだから、節度と品位を弁えた言動をなさい?」

「うっ…………はぁ〜い……」

 渋々とサイダーをグラスに注ぎ、まりあが大人しく引き下がると、半ば賛成しようかとしていたせりあとゆうりもすごすごと身を引いてジュースに手を出

す。あーやはと言うと、我関せずとばかりに香奈と談笑しながら可愛らしいデコレーションケーキに舌鼓を打ち、くららも皿に盛られたデザートに目移りし

ながらいそいそと人数分の小皿に取り分けて行く。

 女子中高生向け雑誌のモデルというだけあって、彼女たちは全員が正真正銘の高校生である。最年少のあーやは十五歳で高校一年生。しかし年齢差などあ

ってないものと考えているのか、他の女の子たちにもほぼタメ口で話すという芯の強い子だ。そしてせりあとゆうりはどちらも高校二年生、まりあとくらら

が高校三年生になる。全員通う高校は異なるが既に何度も顔を合わせ、また同じ仕事をする仲間としての信頼関係はそれなりに築かれており、また友人同士

としても円満な関係である。

 だからだろうか、勇悟が今日の打ち上げの中にある空気を何となく感じ取ったのは。

「はいっ、神崎さん!」

 くららが差し出した小皿には、可愛らしいミニサイズのチョコレートケーキ。既に人数分を配り終え、それぞれが自分のペースでお菓子を食べたりおしゃ

べりしたりしている。相変わらず紗弥香の目は厳しい物を宿しているが、隣に座っていた香奈とあーや、そしてまりあが話し相手になる事でいくらか緊迫し

た雰囲気も和らいでいる様子だった。

「ああ……ありがとう」

 小皿を受け取り、ぎこちないながらもくららの笑みに応えるべく微笑みかける。その拍子にほんのわずかだけくららの指と触れあったが、気付いているの

かいないのか、くららは変わらぬ笑顔で勇悟の感謝の言葉を受け止めた。

 

 

 

 午後九時半を回り、打ち上げとは名ばかりになったパーティーも解散を迎える。家が遠いあーやとせりあは平木スタジオの車で送ってもらう事になってお

り、ゆうりは家が近いという理由で紗弥香と一緒に帰宅する。そしてまりあは駅まではくららと勇悟の二人と同じ道なので、そこまでは同行した。

 別れの際に、二人に手を振って帰っていったまりあだが、その時に何かしらをくららに耳打ちしており、それを受けてくららの顔が真っ赤に染まった事か

らして、何かよからぬ事を吹きこまれたのだろうと想像した勇悟は、今こうしてくららと隣り合って歩いている状況を、あまり好ましいものではないのだろ

うなと感じずにはいられなかった。

「……ていうか、家結構近いんだな。歩いて十分ちょっとしか離れてないなんて」

「そ、そうなんですねっ。でも、あたし高校の入学の時に引っ越してきたばっかりだったから、あんまり詳しくないんですよぉ」

 えへへ、と恥ずかしそうに笑うくららの格好は、私立の女子高で採用されているセーラー服だ。先ほどの打ち上げでもこの格好であり、制服姿の女の子か

らお酌されたりデザートを配膳してもらうというのは、なんとなく風俗店みたいだなと勇悟は感じもしたが、それは空気を読んで言わないでおく。

「神崎さんは、ずっとここに住んでるんですか?」

「ああ、引っ越し経験なしで根っからの地元。南城さんは、前はどんなとこに住んでたんだ?」

 視線を落とすと、くららと目が合う。首がすっぽり隠れるくらいの長さのやや赤みを帯びた茶髪と、どことなく幼い雰囲気を感じさせるヘアバンド。写真

映えする可愛らしい顔と大きな瞳。そして――――彼女が雑誌モデルとして成立するもう一つの大きな要因である、豊満なバストが制服を押し上げ、見事に

自己主張している。しかしくららはその視線に気づくこともなく、また勇悟の問いに答えるでもなく、しかしどこか恥ずかしそうに。

「あの……神崎さん。お願いがあるんですけど……聞いてもらっていいですか?」

「え、あ…………うん……」

 ただならぬ雰囲気を感じて、勇悟は歩くペースを落とす。二人の身長差は二十五センチもあり、当然脚の長さも異なるので今まで気を遣ってゆっくりと歩

いてはいたものの、それさえも速いと感じさせるほどの歩みはほんの数秒と待たずに停止し、くららの視線が勇悟を射抜く。

「あの……そんな、大したお願いじゃないですけど……あたしのこと、名字じゃなくって、名前で呼んでくれませんか?」

「あ……つまり、その…………くらら、って?」

 その質問に、こくんとくららの首が縦に動く。街灯に照らされたくららの顔は撮影の時とは全く違い真っ赤に染まっており、今の言葉にどれほどの勇気が

込められていたのかを雄弁すぎるほどに物語っている。

 立場からすれば、くららの『お願い』は叶えてはならないお願いだ。どちらもアルバイトとはいえ勇悟とくららの関係は、一スタッフとモデル。その垣根

を超える事は本来タブーであるし、必要以上に親密になる事は避けねばならない。ましてやその事を何よりも警戒している紗弥香の耳にうっかり「くらら」

と呼ぶ声が入ってしまえば、ただでさえ芳しくない関係はより悪化し、最悪、平木スタジオの契約が一件減ってしまう事もないとは言い切れない。

「…………やっぱり、ダメですか?」

 逡巡を切り裂く悲しげな声。笑顔しか見た事のないくららの顔は勇悟の記憶の中で初めて曇り、その罪悪感が胸を突く。「でも、気にはなるんだよね」―

―――そう言われたのはついさっきだった。香奈に言われた言葉をその時は誤魔化したが、本人を前にすればやはり弥が上にも気づかされる。

 神崎勇悟は、間違いなく南城くららの事を気になっていて。

 出来る事なら、明るく元気な彼女の笑顔をずっと、見ていたいと思っている。

「えと……いきなり呼び捨てるのは、俺もちょっと恥ずかしいから…………くららちゃん、で良ければ」

「!! ……は、はいっ!! よろしくお願いしますっ!!」

 勢いよくお辞儀し、反りかえった反動で大きな胸が制服越しにぷるんと揺れる。その一連の動作に思わず目を逸らしながらも、無邪気に、そして心の底か

ら嬉しそうに笑うくららを見ていると、紗弥香という杞憂も今だけは忘れる事が出来る。

「じゃあ、せっかくだから手ぐらいつないで帰りませんか? 女の子の夜道はキケンなんですから、神崎さんが守ってくださいねっ♪」

 悲しい声も表情もどこ吹く風に飛ばされて、くららがぎゅっと勇悟の手を握る。その手は小さく柔らかく、うっかり握り返そうものなら壊れてしまいそう

なくらい華奢だった。

「ちょ、く、くららちゃん……っ!?」

「いいのいいのっ!」

 可愛らしいという以外に形容のしようがない笑顔。そんな反則技を使われては、勇悟も反論など出来ない。

 暗い夜道、二人並んで手を繋いで。短くない帰路を心持ち早歩きに、それでいて手は離さずに。

 初めての会話の日は、そのまま二人の最初の思い出の一ページになった。

 

 

 

 無事にマンションまで送り届けてもらい、くららはその五階にある自宅の鍵を開けた。高校入学と同時に母とともに引っ越してきた自宅だが、先月からそ

の母も単身赴任をしている父の世話をしに出掛けている。時折帰って来ているのか月に何度かは掃除の形跡があり、なかなか片付ける時間のない台所もその

都度綺麗にしてもらっている。決して片づけられないわけではないのだが、母からすればくららの掃除スキルは低いらしい。

「ただいまぁ〜……っと」

 誰も答えてはくれないと知りつつも、昔からの習慣で帰宅を告げる。そして部屋のベッドに荷物を置くと、くららは制服のファスナーを下ろして着替えを

始める。六月にもなれば夜でも徐々に暖かくなり、この季節の普段着はキャミソールとホットパンツだ。

「ん、しょっ」

 ホットパンツを上げて、ボタンは止めずにファスナーだけをぴっちり締める。その上からキャミソールをすっぽり被り、靴下も脱いでしまえば着替えは完

了。もそもそと制服のスカートから携帯電話を取り出して、今日ようやく手に入れた念願のデータを呼び出すと、思わず顔が綻んでしまう。

「神崎さん、げっとだよっ♪」

 指で「ばぁん」とピストルの真似事をして、手に入れたデータの登録番号を確認する。両親の番号はゼロ番と一番だが、勇悟の番号はその次の二番に指定

してある。普通ならば別の家族や親戚、あるいは兄弟や親しい友人などが収まるはずのその場所に何故勇悟を据えるのか、その理由はやはりくららにしか分

からない事だが、くららも年頃の女の子。推し量る事はそう難しくもない。

「よぉし、メールしてみようっ」

 ぴょん、とベッドに乗ってうつぶせの体勢でカチカチと携帯電話を操作し、勇悟宛のメールを作成する。書きたい事は山ほどあるし、絵文字もふんだんに

使いたいところだが、最初からあんまり長い文章を書くと勇悟に引かれてしまうかも知れないので、逸る気持ちを抑えて短めに。

「『こんばんはっ。もうお家に着きました? 早速メールさせてもらいますね♪ 今日は神崎さんとお話しできて、とっても嬉しかったです。ずっとずっと

話したいなぁって思ってたから、今日のくららのテンションはサイコー↑↑なのです!! 来週の撮影でとりあえず一段落するから、神崎さんと会えるのも

もう少ないの。だから、今日からはメールや電話でお話しさせてくださいねっ!! これからもヨロシクお願いします(#^.^#)  くららより?』」

 最後にハートマークを添えて、思わず身悶えしてしまいゴロゴロとベッドの上を転がる。普段なら何気なく使う絵文字が、勇悟に送るメールに添えられる

だけで恥ずかしさ十倍、ときめき百倍になるのだから、色々な意味でたまらない。

「神崎さんに、届きますようにっ」

 当たり前のことを念じながら、送信ボタンをプッシュ。数秒と待たずに出てくる「メールを送りました」のメッセージを確認してから、くららはごろんと

仰向けに寝転んで、両手を伸ばして大の字になる。

 ほんの一カ月ほど前に出会ったばかりの男性、神崎勇悟。最初は背が高くてちょっと怖い人かも、とも思ったけれど、一か月の撮影期間中に色々とお世話

になって、そんな第一印象はキレイさっぱり無くなった。雑用ばかりを任されているがその分、掃除などはとても丁寧だし、話した回数は少なかったが、時

折目が合うと小さくだが手を振ってくれたりもした。そんな何気ない優しさから彼の事を気にするようになり、今日は勇気を出して誘ってみたのだ。

 もっとも、他の女の子たちからはくららの勇悟に対する態度はかなり早い段階から気づかれていたようで、今日の打ち上げではわざわざ隣り合って座れる

ようセッティングしてもらったり、まりあからは「家に誘っちゃえ」とまで言われてしまった。流石にそこまで大胆にはなり切れず、けれど勇悟との距離を

少しでも縮めたくて名前で呼んで欲しいという提案をなんとか絞り出した。結果その勇気は報われることになり、彼との関係は一歩前進したと言えるだろう。

「来週まで、会えないんだよね……会いたいなぁ」

 はふぅ、と盛大な溜め息をついて寝返りを打つ。紗弥香の防御もあって撮影中はなかなか話す機会も得られないし、満足に話が出来るのは今日のような帰

宅時だけしかない。しかしそのチャンスもひとまずはあと一度で終わってしまう。

 何故ならくららは高校三年生であり、一応受験生でもある。目指すべき未来などまだまだ見つけてもいないくららだが、親や教師からは「その未来を探す

ために大学を受験しなさい」と諭され、とりあえずはその方向でそれほど遠くない立地で、くららの学力と照らし合わせても無理のない公立大学を受験する

予定になっている。その兼ね合いもあって週に一度程度とはいえアルバイトばかりをしている訳にもいかず、マネージャーである紗弥香にもその話は通して

いる。

 直接勇悟に会える回数はあと一回。その前になんとしても連絡先は手に入れたかった。そして今日それが叶ったのだから、彼とまた会うチャンスはこちら

から作ることも出来る――――。

「そうだよっ!! お話しできるんだからすればいいじゃん!!」

 がばっと飛び起きて、まだ握ったままの携帯電話をタッチ。タッチディスプレイにもなっているくららの携帯電話は短縮ダイヤルはすぐに呼び出せるので、

登録したばかりの勇悟の電話番号を呼び出し……そこで、緊張のあまり指がぷるぷると震えてくる。

 思い立ったは良いが、そもそも夜も遅いと言える時間に男性相手に電話をかけるなど、明らかに相手を意識しての行動である。しかもついさっきまで手ま

で繋いでいた相手であり、別れてから十分かそこらしか経っていない。帰宅しているかどうかも怪しいのにメールのみならず即座に電話をかけるなど、これ

は相手がどんなに鈍くても気づいてくれるだろう。

「そ、そりゃあ……好きかも、しんないけど……ていうか、好きだけどっ!」

 むぎゅーっと枕を抱きしめて携帯電話を弄ぶ。ディスプレイには既に勇悟の番号を呼び出しており、あとは『通話』にタッチをすればすぐにでも発信が出

来る。そんな状態でフリーズしている自分にくらら自身呆れていると……同じ表示画面のまま、着信メロディが盛大に鳴り響いた。

「にゃぁっ!?」

 着信。相手は画面の人。つまりそれって、神崎さん。

 刹那の思考は文字通りの瞬間にかき消され、画面間近に置いていた親指が『通話』をタッチする。半ば無意識の行動に慌てて携帯を耳に当てると、ノイズ

のないクリアな声が聞こえてくる。

『あ、えっと……くらら、ちゃん?』

「は、はいっ! くららですっ!!」

 ガッチガチに緊張しながら叫ぶような大声で答えてしまい、その恥ずかしさを紛らわすように枕をさらに強く抱きしめる。電話の向こうの勇悟は、そんな

くららの様子になど気付くはずもなく、しかし大声での応答にやや携帯から耳を離しているのか、心なしか声が遠い気もする。

『……メール、見たよ。早速連絡くれてありがとう』

「い、いえいえいえ、そんな大したことじゃないですよぉ。だって……神崎さんとは、もっともっとお話ししたいですし」

 それに好きな人とは仲良くしていたいから――――とは流石に言えず、言葉尻を濁すくらら。しかし勇悟はそれに気づいた風もなく。

『まぁ、俺も連絡したいとは思ってたんだけどさ。夜も遅いし、メールしようかとしてたんだけど……くららちゃんからメールもらって、キミが話したいっ

て言ってくれたから、電話したんだけど……今、大丈夫?』

「はい!! ぜんっぜん大丈夫です!!」

『つーか、元気だなぁ……打ち上げの時よりテンション上がってないか?』

「あ、え、えへへ……」

 指摘されてから、ようやく自分のテンションが勇悟の言う通り上がりっぱなしになっているのに気付いて、くららは今まで抱っこしていた枕を解放し、い

そいそと定位置に戻してから居住まいを正す。

「失礼しました〜……でも、神崎さんから電話がかかってくるなんて思わなかったもんっ」

『う……確かに非常識だったかも知れない。それは本当に、ごめん』

 何も悪くないのに謝る勇悟を想像して、外見とはまるで異なるギャップに思わず可愛いと思いながら、くららの頬が朱に染まる。その熱を誤魔化すように

空いている手で髪の毛をくるくると弄りながら、コホンと一つ咳払い。

「今回は許してあげちゃいますっ。今度からはメールしてから電話して下さいね。絶対出ますから」

『ありがとう…………そ、そうだ、メールに書いてたけど、来週の撮影で終わりなんだって?』

「うん。だから、神崎さんと会えるのも来週で……」

『だったら』

 遮る声。強い意志を込めた優しくも温かいその声に、くららの胸がとくんと高鳴る。

『明日土曜だから、学校休みだよな? 迎えに行くから遊びに行こう』

 いきなり過ぎるデートの誘いに、くららは思わず失神しそうになった。

 

 

 

「――――言ってしまった……」

 最後の方は勢いに任せる形でくららを誘った勇悟は、自宅の前で額に手を当てて考え込んでいた。いくら休日でバイトも休み、そしてくららも撮影の予定

がなく紗弥香の監視の目も無いからといって、今日初めてまともに会話した彼女をデートに誘うなど、あまりにも唐突過ぎる。そのことは勇悟自身も重々理

解しているのだが、暗く沈みかけたくららの声を聞いてしまってはああ言わずにはいられなかった。しかし当のくららが『よ、よよよ、喜んでお受けしまし

ゅ!!』と語尾を噛みながらも承諾してくれた事で、後ろめたい感情は無くなった。

「まぁ、オフなんだからいいよな……?」

 誰に言うわけでもない、自分自身への言い訳。勢いで言ってしまった感もあるが、後悔など最初から微塵もない。仮に紗弥香に見つかるような事態になっ

たとしても、仕事でない以上モデルのプライバシーにまで立ち入る権利は彼女にはないし、ましてやくららはタレントでもない。どこにでもいる、ごく普通

の女の子だ。

 だが、考えてみれば学生時代も勇悟は異性とデートはおろか、普通に遊びに行ったこともない。「剣道馬鹿」とは親友の高村経次の評であり、事実勇悟自

身もその自覚はある。誰かと出掛けるくらいなら竹刀を握っている方がマシだとさえ考えていた自分が、まさか誰が見ても可愛いと思える女の子をデートに

誘い、あまつさえそれを承諾してもらったなど、学生時代の友人たちが耳にしようものなら珍獣のごとき扱いをされること間違いない。

「くららちゃん、か……」

 一歳下の可愛らしい女の子。雑誌のモデルをするだけあってスタイルも良く、平木スタジオのスタッフ内でも評判の存在。特にその大きな胸は身長に対し

てアンバランスとさえ言われており、男性陣からは好奇の目を向けられることも少なくない。

 だが、勇悟はそこにはそれほど注目していなかった。無論興味ゼロというほど聖人君子ではないが、それ以上にくららに惹かれたのは、あの太陽のような

明るい笑顔だ。見るものに活力を与え、暗く淀んだ気持ちさえもあっさりと掬い上げてくれる。出会いからしてくららの存在が強く心内に残ったのも、やは

りあの笑顔があったから。そして何より、こうして彼女をデートに誘えたのも、勇悟自身がくららに救われたからでもある。

「――――よしっ」

 パシン、と気合いを入れるように拳を打ち鳴らして気持ちを切り替える。兎にも角にも明日はくららとのデートだ。待ち合わせの時間はあとでメールする

と伝えておいたので、無理のない時間を指定しよう。着る服も普段の作業着のようなラフな格好ではなく、それなりにめかし込んでいかなければ。

 玄関を開け、家族に帰宅を告げる。その声がいつになく明るかったのは、勇悟自身も気づいていた。

 

 

 

 

 五月二十四日、土曜日。午前十一時――――。

 約束した時間通りにくららのマンション前に辿り着くと、勇悟はジーンズのポケットから携帯電話を取り出してくららに電話をかける。今日の服装は年代

物でプレミアのついているヴィンテージジーンズとシックな革靴、そして首元のボタンだけを外した長袖のシャツという格好で、身長の高さもあってかなり

様になっている。その気になれば勇悟もくららと同じく雑誌の投稿モデルとして通用する容姿なのだが、普段はほとんど作業用のツナギか、色の落ちた一本

五千円もしない安いジーンズとTシャツという無頓着すぎる格好しかしない上に不精髭なので、なかなかそうしたお誘いはかからない。もっとも、勇悟自身

が興味を抱いていないのが最大の理由でもあるのだが。

『は、はいっ、もしもし!?』

「あ、俺だけど。今下に来てるから」

『あ、あたしも今エレベーターで降りてるから、ちょっと待っててっ!!』

 やや乱暴に切られる通話。だがくららの声からして余程焦っているのは想像が出来る。いったいどんな格好で来るのだろうかと思うと期待してしまうが、

それも仕方のないことだ。相手はアルバイトとはいえ雑誌に載るモデルなのだから。

 待つこと数十秒。エレベーターから降りてきたシルエットが徐々にエントランスに近づき、勇悟もそれを迎えるべくセットしてきた髪を整える。その間に

エントランスの自動ドアが無音でスライドし、現れたのは待ち人である南城くららその人だった。

「ご、ごめんなさい、色々準備してたら、遅れちゃった……」

 息を切らせて、たたっと勇悟に駆け寄る。その服装は可愛らしいながらもどこか大人びた感じの白色のドレスワンピースで、上着にはボレロを着ており、

足元には綺麗な編み込みを施したヒール高めのデザインサンダル。アクセサリはいつものヘアバンドだけではなく、嫌味にならないシンプルなチェーンネッ

クレスと、革バンドのレディースウオッチ。ブランド物ではないがデザイン性の高いトートバッグも持っている。

「……気合入ってるなぁ」

「だって、神崎さんとデートだもん。そういう神崎さんだって今日すっごいオシャレしてるし」

 「でしょ?」と首を傾げて問い掛けるくらら。お互いに意識し合っている二人が、初デートというシチュエーションで気合いを入れてくるのは当然と言え

ば当然すぎる事だ。勇悟は見上げてくるくららの愛らしさに表情を崩し、そっと手を差し伸べる。

「そうだな。今日のくららちゃんはいつもよりずっと……か、可愛いから……正直、すごく緊張してる」

「はわっ……か、神崎さん…………っ」

 差し伸べられた大きな手にくららの小さくて柔らかい手が乗せられ、きゅうっと力が入る。それを支えるように勇悟の手がくららの手を包み込み、自然と

二人の距離も近くなる。

「……じゃあ、まずはどこに行こうか。いくつか候補はあるんだけど……?」

「は、はいはいっ! あたし、お弁当作ってきましたっ!!」

 授業中に手を上げるような勢いでしゅぱっとくららが挙手する。その手に持ったバッグの中身はそれか、と妙に納得しながらも、勇悟の立てた予定とは

大幅に違う事態に早速出鼻をくじかれる。しかしそれは、全く不快ではなかった。

「それじゃ、どうせなら空気の良いところで食べようか? くららちゃん、自然公園って知ってる?」

「あ、それってなんか馬鹿にしてるぅ。それぐらい知ってるもん!」

 ぷっくり頬を膨らませながらも、すぐに笑顔に変わるくららの表情。それは出会った時から変わらず明るく元気な、天真爛漫な太陽の微笑み。

 その陽光に胸の鼓動が高鳴るのを感じながら、勇悟の手はくららの握ってくる手をそっと握り返した。

 

 

 

 広大な面積を誇る自然公園では、小中学生や家族連れ、スポーツを楽しむグループでそれなりに賑わっている。今日は夏日に近いと言われるほどの晴天で、

両親に連れられた小さな子どもたちが噴水で水遊びをしている姿も見られた。隣接している市立図書館も読書をするための人々のみならず、涼を取る目的で

訪れている来客も多そうだ。

 そんな中で、勇悟とくららは遊歩道の傍にあるベンチに腰を下ろして少々早い昼食に興じる事にした。途中で飲み物を用意していなかった事を思い出した

くららの言葉で、二人の手にはそれぞれ緑茶のペットボトルが握られている。

「それでは、くらら特製ランチをどうぞ、召し上がってください!!」

 懐かしさを感じさせる竹編みのランチボックスをくららが開けると、そこに詰め込まれていたのは半分がサンドイッチ、そしてもう半分がおにぎりという

何とも妙な組み合わせの弁当だった。和洋折衷と言えば聞こえはいいが、悪く言えば中途半端でもある。

「えっと……好きな方を食べてくれってことで、良いのかな?」

「うん! 気分で変えちゃっていいですよ♪ ちなみに、一個だけワサビたっぷりのハズレが入ってますっ!!」

 くららのその一言に、楽しいランチが一転してロシアンルーレットに変貌した。おにぎりにせよサンドイッチにせよ、どちらも具材を挟むメニューである

以上表面からその違いは見受けられない。くららの手によって膝の上に置かれた和洋弁当を前にする勇悟だが、しかしそこでふと気付いた。

「でもこれ、くららちゃんも食べるんだろ? 自分が引くかも知れないじゃないか」

「あ、それはちゃんと目印付けてるから平気…………あ゛」

 しまった、と口を塞ぐがもう遅い。くららがランチボックスを取ろうと手を伸ばした時には、蓋を閉めたランチボックスは勇悟の手によって高々と掲げら

れてしまい、座ったままのくららでは到底届かない。

「じぶんだけズルしようなんて、くららちゃんはいけない子だな」

「ご、ゴメンなさい〜! ワサビ入りのはどけるからぁ〜!!」

 立ち上がって取ればいいものを、一生懸命に手を伸ばして取ろうとするくらら。そんな子どもっぽい仕草がまた可愛らしくて、勇悟もついつい意地悪をし

てしまいたくなる。だが前のめりどころか半ば抱きつくような姿勢で接近してくるくららの身体で、最も突出した部分が勇悟の腕に当たって形を変えると、

勇悟だけではなくくららまでもが、ぼっと頬を真っ赤に染めてしまった。

「ひゃぁっ!?」

「ご、ゴメンっ!! って、くららちゃん!?」

 驚きのあまり勢いよく飛び退いたくららの後ろには、ベンチが続いていない。下は芝生だが、お尻からならいざ知らず頭から落ちようものなら大怪我を負

う事は避けられない。勇悟は咄嗟にランチボックスをベンチに投げて、くららの腕を掴むと同時に一歩踏み込み、彼女を胸の中に抱き寄せた。

「みゃぁっ……!!?」

「――――あ、あっぶねぇ……」

 今のこの体勢も色々な意味で危ないのだが、少なくとも勇悟はそれを気にする余裕はない。投げてしまった弁当は蓋をしていたおかげで中身の流出は避け

られており、くららも無事という完璧な結果だが、抱き締められている当のくららちゃん御本人はというと。

「(だ、抱っこっ、抱っこされてるよ、あたし!! 神崎さんに抱っこされてるぅ〜〜!!!!)」

 頬どころか耳まで真っ赤に染めて、借りてきた猫のように小さく丸まって。大きな腕と身体に抱かれて、どきどきと早鐘を打つ心臓の音に酔うようにそっ

と勇悟を見上げると、綺麗に髭を剃っている彼と文字通りお見合いしてしまった。

「だ、大丈夫……?」

「……ふぁ…………ふぁい……」

 呂律が回っていない返事だが、それも仕方のない事だ。意中の男性に抱き締められて、すぐ近くに顔があって、その気になればどんな接触も出来そうなこ

の状況で、まともな思考を維持するなどくららには到底出来ない。そんな中で出来る事はと言えば、せいぜい勇悟を観察することくらい。

「あのー、くららちゃん? もう離しても、良いかな……?」

「……ダメぇ、もうちょっと……だ、抱っこしてて欲しいです。…………だって、神崎さんの顔、こんなに近くで見た事ないもん」

 ほにゃんとした蕩けそうな笑顔でそんな事を言われてしまえば、勇悟でなくても承諾せざるを得ない。しかし勇悟は前屈み、くららはやや後ろに反ってい

るという微妙に辛い体勢でもあるので、仕方なしに勇悟はそのままくららの身体に腕を回して、腕力だけで彼女の身体を持ち上げる。

「わぁっ? ちょ、神崎さんっ!? やだやだ、まだダメだってばぁ〜!!」

「そんなワガママ、言うんじゃありませんっ」

 ベンチから一度立ち上がってくららを地面に立たせると、勇悟は元通りの場所に座り直し、通常時ならば見下ろしているくららからはジットリと不満満載

の見下す視線を頂戴する事になった。

「むぅ〜、神崎さんがイジワルさんだぁ。それに、あんな軽々抱っこされるなんて、なんかお子様扱いみたいだったし」

「(まあ、実際お子様だけどな)」

 と口には出さず喉の奥だけで呟く。積極的に接してくれるのは勇悟としても嬉しいのだが、無自覚かつ無防備なところが多いのがくららの困ったところで

もある。今も、別に付き合っている訳でもないのにこうして密着したりしている事については、相手が自分だからまだ良いようなものの、他の誰かだったら

と考えると気が気でない。そうした懸念を払う術は、既に勇悟の中にもあるのだが――――それを行うのは、まだ時期尚早でしかない。

「って、何やってんだキミは?」

「何って、お弁当食べようと思って。それに神崎さんがそーいうつもりなら――――」

 ベンチに転がっていたランチボックスを回収し、ぽんぽんと汚れを落とす。そしてにんまりと何かしらを企んでいるような笑みを浮かべると、くららは手

をベンチについて、ぴょんっと勇悟の膝に飛び乗った。

「ちょっ!? な、何考えてんだ!?」

「そしてこのまま、きゅっとすれば……はい、お姫様抱っこ♪」

 今度は簡単に振り落とされないように勇悟の首に手を巻きつけるという周到ぶりも身に着けて、にっこりと眩しくも可愛らしくららの笑顔が炸裂する。も

う突っ込む気も起きないほどに呆れたのか、それとも勇悟自身も多少は己に正直になろうと譲歩したのか、深く溜め息をつくとくららに視線を戻した。

「わぁ、見事に寄っちゃってる……ワサビも飛び散ってるし」

「……よりにもよって、サンドイッチに仕込んでたのか」

 そんな勇悟を気にしていないかのようにくららがランチボックスのフタを開けると、その中には縁の部分から緑色がはみ出し、投げた衝撃で箱内に無残に

も飛散したワサビ。大部分はサンドイッチの中に残っているが、それでも無害なはずだった分にまで被害が拡大した事実は避けられない。

「まあ、これくらいなら食べられるだろ。俺はおにぎりからもらうよ」

「じゃああたしが取ってあげますね! 中身は食べてのお楽しみですよぉ〜」

 ささっとくららの手がおにぎりを取り、一つを勇悟に差し出してくれる。それを取ろうと勇悟が手を伸ばすと、くららはひょいっと手を躱しておにぎりを

彼の口元に持っていった。 

「えー……もしかしなくてもアレですか?」

「もしかしなくてもそうです! はい、あ〜ん?

 小さな手には大きいくらいのおにぎりを差し出され、少々戸惑いはしたものの、勇悟はそのままくららの手からおにぎりを食べる。海苔でぐるぐるに巻か

れた、外見はコンビニで売られている三角おにぎりとほぼ同じだが、海苔の巻き方は二重にされて全体をしっかり覆っており、機械の工程で作られたどこか

味気ないものとは違い、人が作った温かみを感じる。そして中の具はどうやら明太子のようだ。

「って、さすがに……一口じゃ、全部は食べられないよ」

「ですよねぇ。じゃあ、あたしも食べちゃおっと」

 可愛らしく笑いながらランチボックスに手を伸ばすくらら。すると今度は勇悟の手がそれを遮り、彼女がしたのと同じくおにぎりを一つ取り出した。飛び

散ったワサビは指でつまみとり、まだ咀嚼中のおにぎりと一緒に口の中に放り込んで撤去する。

「今度は俺のお返し。あ〜ん」

「……っ!! は、はい、あ〜……んっ」

 ぱくっと小さな口がおにぎりにかぶりつく。愛らしい一口はおにぎりの頭部分だけをちょっと減らしただけで、まだまだ中の具に届くほどには量を減らし

ていない。それでも、もきゅもきゅと一生懸命に噛んでいるくららの姿はどこか小動物のようで、それを思わず観察してしまうのも無理からぬことだろう。

「……や、やだぁ、じっと見ないで下さいよぉ」

 恥ずかしそうにぷいっとそっぽを向くが、そのほっぺたにはご飯粒が二つほどついている。やれやれと思いながら勇悟はそれを指でちょん、と摘み取るが

――――その処遇をどうしたものかと考え込んでしまう。

「? 神崎さん? ……あっ、ごはんつぶ……」

 ぺとぺとと勇悟が触れたほっぺたを撫でた後で、彼の事をじっと見つめるくらら。指に摘まれたままのご飯粒を、勇悟がどう処理するのか興味津々といっ

た感情がこれでもかと言わんばかりに溢れかえっており、また現段階で勇悟が選択できる行動は三通りほど残されている。

 まず一つは、それをそのまま捨ててしまう事。もっともオーソドックスと言えばその通りだが、くららからは色んな意味で非難されること間違いない。

 二つ目は、くららに食べさせる事。元々彼女が食べる分だったのだからそれを彼女に返す、という意味ではこれも間違いではない。しかしその場合はくら

らの口に触れるという事でもあり、これはかなり難易度高めだろう。

 そして三つ目。これも難易度が高いが、男として一度くらいはやってみたい事でもある、そのまま自分で食べるという選択肢。くららにも触れることなく、

しかしくららが食べかけていたものを食べるという意味ではある意味間接キスだが、別に間接キスくらいでどうこう騒ぐほど勇悟も子どもではない。しかし

その当事者であるくららの狼狽が起きるであろう事は目に見えているので、躊躇ってもいる。かといっていつまでもご飯粒を持ったままというのも決まりが

悪い。勇悟は意を決してそれを――――ぱくり、と口に運んだ。

「――――っっ!!!!」

 ぼん、と良い音がしそうなくらいの勢いでくららの顔が耳も頬も、果ては首まで真っ赤に染まる。予想以上の狼狽ぶりに勇悟もちょっとやりすぎたか、と

内心では思ったが、食べてしまった物は戻せないし、やってしまった事について今更後悔しても始まらない。

「ほ、ほら、早く食べないと」

「ふ、ふぇ? あ、う、うん……ぁむ」

 勇悟が差し出したおにぎりを、先ほどよりもさらに小さく一口食べる。ほとんど減っていかないおにぎりは、その全てがくららの小さなお腹に収まるまで

かなりの時間を要したが、当然『お弁当』である以上おにぎりが一個で終わるはずがない。

 暖かな初夏の香りさえ漂わせる公園で、二人の昼食は一時間近く続いた。

 

 

 

 昼食を終えて二人が向かったのは、自然公園とは真逆のスタンスを持つ駅前の繁華街だった。立ち並ぶビルにはいくつものデパートや各種店舗が入ってお

り、年頃の女の子であるくららもこの辺りは普段からの遊び場の一つとして利用している。また、ファッションモデルとしての目もそれなりに養っている為

か服には色々とこだわりがあるというのも理由の一つとして頷けるが、くららの『専門』とされるジャンルは実は服の方ではない。

「あっ、コレかわい〜。ねぇねぇ神崎さん、コレなんかどう?」

 そう言ってくららが差し出したのはなかなか大胆なデザインのワンピース水着と、面積小さめのビキニ。どちらも女子中高生が着るには過激が過ぎる代物

だが、くららが受け持つジャンルはこういった水着の方だ。身長は平均程度のくららだが、彼女のスタイルの良さ、そして際立って大きなバストを活かすと

いう意味では確かに水着というのは悪く無い選択である。しかしそれはあくまでモデルとしての選択であり、異性相手には目の毒でしかないという事を、く

ららは今一つ自覚がないようだ。

「いや、つぅか、すごく恥ずかしいんですが……くららちゃん……」

 心なしか姿勢を低くして、他の女性客からの好奇と違和の視線を避けようと努める勇悟。しかしただでさえ大きな身長と、くららという可愛らしい女の子

を連れている精悍と言って差し支えない男性が女性専用の水着売り場に立ち入っている以上、その視線はどうしても避けられないものである。

「恥ずかしいって、普通の水着売り場なのに? …………あ、そっかぁ。女の人しかいないから恥ずかしいんだねっ!」

「分かってるならこういう場所は控えて欲しいんですけどね、俺としてはっ」

 呆れながらも苦笑する勇悟にくららもクスクス笑いながら、ここに来るまでと同じようにきゅっと勇悟の手を握った。

「だったら、他の人がいるって思わないで、あたしとの買い物だけ考えてればいいのっ。その方が集中できるでしょ?」

 それはどんなバカップルだ――――とも思った勇悟だが、そうした方が確かに集中できるし、他人の目も無視しやすくはなる。しかしだからと言って、は

いそうですねと切り替えれば、それはそれで色々と困った事になる。その唯一にして最大の理由が、言わずもがなくららの存在だ。

 店に入るまでの間、ずっとでは無いにしても手をつないで歩いていた二人に注がれる視線はそれなりに多かった。くららの事を注目する男性陣はやはり避

けようがないし、また勇悟も無自覚ではあるがかなり容姿には恵まれている方である。そんな二人が連れ添って歩いていれば無視するなと言う方が無理とい

うもので、噂になるほどではないにしても現在進行形で人目を引いている二人である事は、否定しようがない。もっとも、勇悟もその事を百パーセント自覚

しているというわけではないのだが。

「今日は試着もしないし、見てくだけだから。ちゃんとしたのはアルバイトのお金が入ってから買うし、泳ぎに行くのにこんなの着ないよぉ♪ でも、神崎

さんがどーしても見たいなら、買っちゃってもいいかも……?」

 ぴろん、とマイクロビキニとさえ呼べるような際ど過ぎるデザインと面積のショーツ部分をぶら下げて、ウインクするくらら。その可愛らしくもどこか色

気を感じるポーズに、勇悟は自分の顔が熱くなるのを感じた。

 

 

 その後もフラフラとウインドウショッピングをして、書店ではくららが嫌がりそうな参考書巡りをして、帰りに彼女が載っているという雑誌を一部購入し

た後は、くららの紹介で洋菓子専門の店でシュークリームやケーキをテイクアウトで購入。帰り道に二人でシュークリームを平らげた頃には、時刻は午後五

時を回っていた。まだまだ別れるには早い時間だが、だからと言ってこのままいつまでも一緒にいる事は出来ない。

「(そうだよね……別に、恋人じゃないもん……)」

 横目で勇悟の顔を見上げて、視線を手に落とす。二人の手は今も変わらず繋がっているが、今はそれがむしろ物悲しくさえ感じてしまう。

 ずっと握ってはいられない。ずっと傍にはいられない。叶う事なら正直に気持ちを伝えて、勇悟との距離を縮めてしまいたい。でもそれを言えるほど、ま

だ自分と勇悟の距離は近く無い気がする。それに今までまともに会話した事さえなかった勇悟にいきなり「好き」などと告白して、ヘンな目で見られたら、

きっと自分は立ち直れない。勇悟がそんな事を言うような人ではないと分かっていても、悪い方への妄想は簡単には止まってくれない。

「――――? くららちゃん……? おーい、くららちゃんっ」

「はぇ? あ、は、はいはい。なんでしょか?」

 マイナス方向の思考を振り払って微笑みかける。どうやら勇悟が何か話をしていたようだが、考え事に夢中でまるで聞いていなかった。しかし勇悟はそれ

を怒るでもなく、繋いだままの手をきゅっと優しく握ると。

「くららちゃん、晩飯はどうしようかと思って聞いてたんだよ。もう家族の人が準備してくれてる?」

「夕ご飯ですか? あたし、今一人暮らしだから自分で準備してるんですけど…………って、そういえば今日何も用意してなかったっ!?」

 慌ててトートバッグから財布を取り出すと、紙幣の額も枚数もそれほど多くない。土曜、日曜と休み続きになれば銀行のATMからお金を下ろす際に手数

料を取られてしまう。もちろん少額である事はくららもちゃんと分かっているが、家計を預かる身としては無駄遣いは出来ないのだ。

「よかったら、晩飯ご馳走しようか? て言っても、また駅に戻るのも何かカッコつかないし……悪い、ちょっと待ってて」

 そう言って、勇悟は携帯電話を取り出した。一食分くらいは普通に賄えるし、家に帰れば帰ったで食材も少ないが一応困らない程度にはある。不健康なが

らもインスタント食品もいくつかは置いているので、勇悟の誘いを断る事も出来たくららだが、それを言う事は躊躇っていた。

 だって、これはチャンスだ。このままお別れになると思ってた時間が思いがけず延長される。このまま一緒に食事して、それから送ってもらうくらいなら

罰なんて当たるはずがない。もちろんおごってもらうのは申し訳ないから、自分の分くらいは自分でちゃんと払うつもり。

 そう考えて、くららは勇悟の通話が終わるのを待っていた。それと同時に電話は終わったようで、勇悟が携帯電話をポケットにしまう。

「あ、あの――――」

「母さんの許可は取ったから、俺の家で一緒に晩飯食べよう」

 頭の中が真っ白に漂白されるような勇悟の一言に、くららは言おうとしていた言葉まできれいさっぱり忘れてしまった。

 

 

 勇悟の家はくららの家から歩いて十分程度という、近所というには少々遠いが割と近い場所である事は違いない。同じようなマンションだろうかとも思っ

ていたくららだが、目の前にある『神崎』の表札が掛かっているのは二階建ての一軒家だった。元々は住宅地として古くから使われてきた土地なのだから、

どちらかと言えばくららが今住んでいるようなマンションの方が新しい建物であり、少し離れればまだまだ戸建ての家が多いというのは当たり前だ。

「ほ、ホントにお邪魔しちゃっていいんですか? いきなり一人増えたら、迷惑じゃ……」

「いいっていいって。それに一人で食べても味気ないだろ?」

 確かにその通りだが、意中の男性に食事に誘われる、しかもその場所が彼の実家だというのが余りにも美味し過ぎる以上に緊張する状況である。さらに加

えて勇悟だけではなく彼の母親まで同席するとなれば、もうどんな勘違いをされても文句は言えない。もっとも、そういう勘違いをしてもらった方がくらら

的にはお得だというのは、ここだけの秘密だが。

「(でも、簡単に女の子を食事に誘うなんて……神崎さん、こういうの慣れてるのかな……?)」

 値踏みするように勇悟を見上げる。本人に聞いた事はないが、勇悟の友人である平木香奈に以前それとなく勇悟の交際歴を尋ねてみたところ、スポーツ一

直線で女子からの人気もあったそうだが、香奈の知る範囲ではそういった風は無かったという。だとしたら、良い方向に考えるならばこれは勇悟にとって、

くららは家に誘っても良い女の子と思われているというチャンスなのかも知れない。

 今も繋いだままの手にくららがきゅっと力を込めると、それに応えるように勇悟が握り返してくれる。それが嬉しくて、何度も何度も握り合いを繰り返し

ながら玄関前の低い階段を上って、勇悟がガチャンとドアを開ける。

「ただいま」

 帰宅を告げる声への返事のように、漂ってくるのは暖かな料理の香り。帰宅を知らせる相手、それはくららにとっては久し振りの家族の情景。

「お、おじゃましま――――」

「にぃちゃぁ〜〜〜〜っ!!!!」

 小さな影が嬉しそうな声と同時に勇悟に駆け寄り、そのまま足にしがみつく。驚きのあまり思わずくららも手を離してしまい、勇悟の表情も名残惜しげな

物を残していたが、足元の存在はそれを意にも介さずむぎゅ〜っと勇悟に抱きついたまま離れない。

「にぃちゃ、おかえぃなしゃいっ!!」

「あ、ああ、うん。ただいま、真那佳(まなか)」

 栗色の髪を頭の両サイドで飾りつきのヘアゴムで結んだ、小さな女の子。勇悟の事を「にぃちゃ」と呼ぶのだから、この子は間違いなく。

「神崎さんの、妹ちゃん?」

「ああ、真那佳っていうんだ。ほら真那佳、くららお姉ちゃんにご挨拶しなさい?」

「う? うん……」

 勇悟に促され、しがみついていた足から離れる真那佳。おっかなびっくりという言葉がぴったり当てはまるような態度に何となく申し訳ないと感じたのか、

くららは膝を折って両手を差し出し、真那佳の小さな手をきゅうっと優しく包み込んだ。

「こんにちは、真那佳ちゃん。お姉ちゃんねぇ、くららっていうの。呼んでみてくれますかぁ?」

「くあら? くぁ……くぁらちゃ?」

 舌足らずの発音は「くららちゃん?」と呼んでいるのだろう。しかし真那佳はどこか納得していない様子を見せており、くららはにっこりと笑顔で頷くと、

ゆっくり真那佳の手を上下に振る。

「ん〜、ちょっと惜しいかなぁ。じゃあ、真那佳ちゃんが呼びたいように、呼んでみてくれるかな?」

「にゃぁ……くぁ、くぅ…………くぅちゃ!!」

 ぱぁっと笑顔の花が咲く。真那佳は我が意を得たりとばかりに満面の笑みを浮かべ、何度も何度もくららの事を「くぅちゃ!」と繰り返し、それに答える

ようにくららも真那佳の手を振りながら「真那佳ちゃんっ」と呼びかける。そしてその光景を後ろで見ていた勇悟はというと、大切に思っている妹と自分が

好ましく思っている女の子が打ち解けている姿を満足そうに見つめていた。

「あら。お帰りなさい、勇悟くん。そちらがさっき話していた女の子ね」

 リビングに続く扉から顔を出したのはまだ若い女性。その声を聞いた真那佳がくららの手を引いたまま、たたっと走り出す。くららもその小さな導きを断

る事無く受け入れて、真那佳と共に女性のそばまでやってくると、きっちり頭を下げて挨拶をする。

「は、はじめまして。南城くららです。神崎さ……ゆ、勇悟さんのお姉さんですか?」

「え? あらあら、ありがとうございます。私は神崎夕子と申しまして、勇悟くんと真那佳の……」

「まぁま〜!」

 真那佳から上がったその一言に、くららの思考は完全に一時停止するも、すぐさま我に返って夕子を見る。まだ若いとは思ったものの、外見年齢と実年齢

が大きく異なるというのは割と聞く話だ。勇悟が現在十九歳だから、どんなに若く見積もっても三十五歳だろうか? 確かにそれならばまだ拙い話し方の真

那佳の母親としても無理のない年齢だと納得する事も出来る。しかし事実を聞かずして満足な理解など得られない。くららはうん、と一度頷くと勇悟と夕子

を交互に見やって、夕子に問い掛けた。

「あ、あのっ! 失礼ですが……ゆ、夕子さんって、おいくつなんですかっ!?」

「? 今年で三十二になりますが……それが何か?」

「――――…………おぅっ」

 予想を下回る年齢に、くららの視界が暗転しかける。ふらふらと足取りは不安定に、しかしそれを支えるように勇悟が肩に手を当てて、彼女の小さな身体

を優しくも力強く受け止めた。

「ゆ、勇悟さん……大変だったんですね……ぐすっ」

「あのなぁ……いったい何を勘違いしてるのか知らないけど、母さん……夕子さんは、俺の実の母親じゃないぞ?」

 あらぬ妄想の翼が広がりかけたくららに釘を刺し、やれやれと溜め息をつく勇悟の姿に、くららは恥ずかしさのあまり顔が熱くなるのを感じずにはいられ

なかった。

 

 

 

 勇悟の実の母親である田宮秋奈は、勇悟が七歳の時に父・徹也と離婚している。警察官という職業を愛する徹也は帰宅も不規則、家庭よりも仕事を優先し、

また一方で勇悟に勝手に武術を習わせるという、妻の事を全く顧みない夫に秋奈は不満を持ち、そんな夫であり父親に憧れを抱く息子の態度もまた、秋奈に

とって疎ましい存在だった。徹也との協議の果てに三行半を叩きつけ、最後に夫の頬を張り飛ばし、勇悟に対しても抱きしめたり別れを惜しむどころか、侮

蔑するような視線を送り、大きなトランクケース一つを引き摺って出て行ったその姿を、勇悟は今でも忘れない。

 それから四年間は徹也も勇悟と共に過ごすようになり、良き父として息子を大事にしてきた。勇悟もワガママは言わず子どもなりに気を遣っていたが、そ

れが分からないほど、妻との事に反省を繰り返した徹也は鈍感ではない。やはり子どもには父親よりも母親が必要なのだと思うようになり、そんな折に出会

ったのが看護師を勤める三島夕子だった。

 夕子と徹也の関係はトントン拍子に進展し、夕子もまた再婚という事には抵抗も無く受け入れてくれた。勇悟との出会いも最初は友達感覚から始めようと

二人は考えていたが、気遣いを知る息子は二人の間にある空気を察し、三人で何度目かの食事に出かけた時には「遠慮しなくていいよ」とまで言い、徹也と

夕子を赤面させたという。

 そして勇悟が中学生になると同時に三島夕子は神崎夕子となり、その二年後には徹也との間に女の子を授かる。歳が離れすぎており、また勇悟自身も半ば

妹というよりは娘のような感覚を持っているが、真那佳を愛しい家族として大切に思っている。そして当の真那佳は頼り甲斐のある兄を深く慕い、家にいる

間はその可愛らしい声と姿で「にぃちゃ」の後について回り、微笑ましい姿を見せている。

「……と、いうわけなのよ♪」

「ほぇ〜…………失礼しました……」

 自分の勘違いに改めて恥ずかしそうにしながら、ソファーに座ったままくららが頭を下げる。するとくららの膝の上に陣取っていた真那佳が「くぅちゃ〜」

と言いながら小さな手でくららの頭を撫でてくれる。その光景に母親である夕子は「あらあら」と笑いながらも嬉しそうに眺めつつ、くららの隣から立ち上

がってリビングから台所へと移動していく。

「くららちゃんは、何か好き嫌いとかあるかしら? 今日はシーフードパスタの予定だったんだけど」

「あ、全然大丈夫ですっ。好き嫌いしませんから!」

「くぅちゃ、いこっ」

 くららの事をすっかり気に入ったのか、真那佳はくららの手をきゅっと握って歩くよう催促してきた。その姿を視界に捉えて、夕子は食材を取り出し、料

理の準備を続けながら。

「よかったら、勇悟くんのお部屋でゆっくりして来てね。準備が出来たら呼びに行くから」

「は、はいっ」

 夕子の許可を得て、くららは麻那佳に手を引かれるまま一度廊下に出て、階段を上り二階へと上がる。勇悟が何をしているかというと、くららと夕子の話

が始まると早々に席を外し、今は自室でくつろいでいるという。くららとしては放置された事にちょっと不満を抱いてもいるが、昔話の中にはやはり勇悟に

とっても辛い思い出がある。実の母から半ば捨てられたという過去は、幼かった彼には深い傷だろう。

「? ……音楽だ」

「にぃちゃだよぉ〜」

 ふと聞こえてきたのは重低音。楽器にも音楽にもそれほど詳しく無いくららだが、あまり上手くは無いというのは分かる。そのまま階段を上り終えて、真

那佳が先行してドアを開け、二人揃って顔をのぞかせると演奏が止み、奏者である勇悟が顔を上げた。

「あぁ、話は終わった?」

「はい。誤解してすいませんでした……お恥ずかしい限りです、えへへ」

 ぽりぽりと頭をかいて、そのまま勇悟が座っているクイーンサイズのベッドに近づく。真那佳はといえば早速ベッドに飛び乗り、勇悟に甘えて膝に頭を乗

せている。

「勇悟さんって、ギター弾けるんですか?」

「ギターじゃなくて、ベース。まだまだ弾けるってほどじゃないよ、練習中だし。それにバイトするようになってからは、弾く時間もかなり減ったからな」

 指で弾き、音を響かせる。勇悟が使用している入門用のエレキベースとアンプは中古で購入したもので、かなりの年期が入っている。高校卒業から何とな

く始めた手慰みの趣味で、それほど熱心に打ち込んでいる訳ではない。

「なんでベースなんですか? 香奈さんから聞いたけど、勇悟さんってスポーツマンなんでしょ?」

「特に深い理由は無い、かな。何となく、今までやった事がなかった物に触れてみたかったんだと思う。そういう意味じゃ、スタジオのバイトも同じだ」

 アンプの電源を落とし、コードを抜いてベースを仕舞う。勇悟のその態度が、あまり触れて欲しく無い事情なのだろうと察したくららはそっとベッドに座

り、ずりずりと勇悟との距離を詰めて彼の顔を覗き込んだ。

「でも、その『何となく』で、あたしは勇悟さんと会えたんですよ? あたしとこうしてる事も、深い理由なんか無いですか?」

「くららちゃん……?」

 思いがけないくららの言葉に、勇悟はまじまじと見つめてくるくららを見つめ返した。大きな瞳と、可愛らしい顔立ち。細い髪は触れれば心地良さそうで、

きめ細やかな肌は今更気付いたが、ほんのり朱に染まっている。そして緩く開いた口唇はどこか蠱惑的な雰囲気さえ漂わせている。それをどこまでくらら本

人が自覚しているかは分からないが、その誘いに乗らないほど勇悟も馬鹿ではない。

「理由は、ある……よ。でも今はまだ、それを言えない……くららちゃんも、それは分かってくれるだろ?」

「分かるけど、そんなの大人の都合だもん。勇悟さんの事は困らせたくないけど、少しくらいワガママ言いたいもん……」

 どちらからともなく指が触れ合い、そのまま手を握り合う。何度となく触れてきた相手の手から互いの温度と鼓動を感じ、どちらもが緊張している事を理

解し合う。座っている事で普段ならば二十五センチもの身長差がある二人だが、今だけはその距離がいつもよりも近い。流れに身を任せてこのまま――――。

「くぅちゃ、にぃちゃあ〜!!」

「「!!??」」

 突如として小さな手が介入し、狭くなっていた勇悟とくららの間から真那佳がひょっこりと顔を出す。いつの間にか勇悟の膝から移動してベッドの上で遊

んでいるとばかり思っていた真那佳だが、空気を読んだのかそれとも空気を読めないのか、二人の間に割り込む形での闖入は結果的に芽生えかけた雰囲気を

見事に破壊し、しかし悪意の欠片もない天使のような微笑みを浮かべられては、勇悟もくららも何も言えない。

「はぁ……真那佳、にいちゃの冷蔵庫から、ジュース持ってきてくれるか?」

「あいっ!!」

 勇悟に言われて真那佳は部屋の片隅にある小型冷蔵庫に向かう。その間に決まりが悪くなってしまった勇悟とくららの手は離れ、やはりどちらも本音を言

えばがっかりしたものの、心のどこかで安堵しているのもまた事実だった。

 昨日今日の二日間でどれほど距離が縮まったかは分からないが、一週間後には別れを迎えてしまうという事からどこか焦っている感があるのかも知れない。

もちろん別れると言っても一時的なもので、またいつも会える場所で会えなくなるというだけなのだが、逆にいつでも会える場所からいなくなってしまうか

らこその戸惑いと、やはり焦燥があるのだろう。

「くららちゃん、その……ごめん。でも、くららちゃんのワガママは全然イヤじゃないから。それだけは分かって欲しい」

「…………うん。じゃあ、待ってる。来週になったら、勇悟さんにもう一回ワガママ言うから、覚悟してね?」

 沈んでいた表情に光が戻り、太陽の明るさが甦る。勇悟が見惚れ、陰鬱としていた気持ちから救い出してくれた彼女の笑顔。それを自分のせいで曇らせて

いたことはどんな罪科よりも重い。その事に深く反省しながら、勇悟は謝罪するようにそっとくららの手を握り彼女の方を見ると、その向こうで真那佳が危

なっかしい足取りで蓋の空いたペットボトルをよたよたと運んでいる姿が見えた。

「ちょ、真那佳、大丈夫かー?」

「ぁ、あいじょ、ぶ……んにゃぁ!?」

 バランスを崩し、ペットボトルが倒れそうになる。咄嗟に駆け出したのは勇悟よりもくららの方が近く、ペットボトルに引っ張られるように転びかけた真

那佳はくららに抱き止められる形でなんとか事なきを得た。だが――――

「く、くららちゃん!?」

「くぅちゃ?」

「あ、あははは…………やっちゃったぁ……」

 オレンジ色にびっしょりと濡れた床と、同じ色で染まったくららのワンピース。それを見てまだ小さな真那佳も自分が仕出かした事態を理解し、じわっと

瞳の中に涙が溜まる。

「くぅちゃあ、めんなしゃい……ごめなしゃい……ひっく」

「い、いいのいいの。それより、まぁちゃんどこも怪我してない?」

 真那佳がくららを「くぅちゃ」と呼ぶお返しに、くららが真那佳につけた愛称で呼び優しく微笑みかける。真那佳はこくんと頷き、くららのワンピースを

ぎゅっと握って離さない。真那佳も小さいなりに責任を感じているのだろうと思うと、くららはそれだけ自分の事を気にしてくれているのだと嬉しくなった。

「取り敢えず、いつまでもそのままにしてたらシミになっちゃうから、夕子さんに話して洗濯しないと。俺も一緒に行くから」

「まぁも、まぁもいくっ」

「うん。ありがと勇悟さん、まぁちゃん♪」

 

 

 

 夕子の許可を取ってシミ抜き洗いをする事になったワンピースだが、夕子の判断によると少なくとも一日はちゃんと処置をしなければ、満足に汚れは落ち

ないという結論に至った。まだ定着しきっていないので専門店に出すレベルで無かった事は幸いだが、どちらにしても預からなければ洗濯は出来ない。無論

その間、くららが着る服があるはずもない。今は一応という事で夕子が使っているバスローブを羽織っているが、いつまでもこの格好でいるのは家の中なら

いざ知らず、帰宅の際にまでは着ていられない。

「私の服で良ければ貸してあげられるけど、くららちゃんは……上が合わないわね」

 苦笑いする夕子。もっともそのリアクションは無理もない。身長はほとんど変わらないくららと夕子だが、大きくせり出した豊満という言葉ですら足りな

いと感じさせるバストは夕子のそれと比較にならず、仮に着てみたとしても服の長さが足りずに中途半端な丈になってしまうだろう。

「むぅ〜……でも、何も着ないわけにはいきませんし……」

 ちら、と向けた視線の先には勇悟の姿。ここが自宅で、くらら以外に誰もいないのであれば多少のはしたない格好も許されるのだが、意中の男性とその家

族がいる前でそんなふしだらは許されない。ならば多少窮屈であっても夕子から服を借りるしかないというのが唯一の選択と思い、くららがお願いしようと

したところで、口を挟んだのは他ならぬ勇悟だった。

「だったら、俺の服が良いんじゃないか? サイズは全然大きいけど、夕子さんの服よりはマシだろ」

「う、うん…………ぇえぇっ!!?」

 余りにも自然すぎる勇悟の言葉に一度は納得したくららだが、数秒でその事態が示す意味を理解してしまった。勇悟自身は何ら意識していないのかも知れ

ないが、少なくともくららにとっては問答無用で赤面しても誰にも咎められないくらいの嬉しい事件だ。

「? どうかした?」

「い、いえっ、いえいえいえいえっ、な、なな、なんでもにゃいですよっ!?」

 バタバタと手を振って勇悟の疑問を懸命にはぐらかす。その後ろではくららの気持ちを察しているのか夕子がにこにこと笑いながら階段を上っていき、彼

女の自室へと向かった。勇悟も勇悟で「適当に見繕ってくるから」と言い残して夕子の途に続くと、リビングに取り残されたのはくららと、その手を握って

いる真那佳の二人だけとなった。

「くぅちゃあ?」

「ん? なぁに、まぁちゃん?」

 手を引っ張られてくららが膝を落とし、真那佳と目の高さを合わせる。握っていた手はするりと真那佳の方から抜かれ、何をするんだろうと考えていたそ

の矢先、小さな手がそっと伸びた先はくららの胸だった。

「ちょ、ま、まぁちゃん?」

「くぅちゃ、まぁまよりおっぱいおっきぃねっ!!」

 見るだけで確かめるまでもない事実を口にしてしっかりと納得した真那佳は、そのまま遠慮という言葉など何するものぞと言わんばかりにくららに抱きつ

き、「むぅ〜」という唸り声をくららの胸の中で発してから、ばっと顔を上げる。

「くぅちゃ、ふかふかぁ〜」

「あ、あぅ……もう。勇悟さんも夕子さんもいないから良いけど、ホントはこんなことしちゃダメなんだよ、まぁちゃん?」

「めー、なの?」

 小さな手がバスローブの合わせから中に侵入し、くららの乳房に直に触れる。母親に甘えるのと同じ動きを持つそれは遠慮がなく、それ故くららも最初は

少々の行為ならば大目に見てあげようかとも思っていたが、やはり諭すべき時にはしっかり諭しておかないと、真那佳の為にも良くないだろうと考え直す。

「そう、めーなの。まぁちゃんもおっきくなったら分かるから、憶えておこうねっ」

「んー……あいっ」

 可愛らしく手を挙げてのお返事にくららもにっこりと微笑み、その笑顔に応じるように真那佳も緩んだ笑みを向ける。年齢差も相俟って妹と言うよりは娘

の方が近いような気もするが、好きな人の妹を可愛いと思わないはずがないし、それを抜きにしても真那佳の事はくららも好きになっているようだ。

「お待たせ、とりあえず私からはショートパンツね。くららちゃん、スタイル良いから私のは合わないかもしれないけど……」

「俺からは、大きめが良いと思って長袖……まあ、今着てるこれの色違い」

「ありがとうございますっ!! じゃあ、早速着替えてきますね」

 わざわざ用意してくれた二点を受け取り、くららはお礼の言葉とお辞儀をしてから洗濯機が稼働している脱衣所に向かう。真那佳もその後ろについていこ

うとしていたが、夕子が肩を押さえてそのままひょいっと抱き上げ制止させた。

「くららちゃんお着替えなんだから、邪魔しちゃめー、よ?」

「あいー」

 夕子にそのまま抱きついて、母娘二人はリビングからキッチンに移動していく。その姿を見送ってから勇悟はリビングのソファーに腰をおろしてシャツの

ボタンを一つ開けた。西日が照らす夕暮れ時、まだ五月ではあるがわずかに熱気を感じさせる空気に耐え切れなくなっての行為だが、『暑い』ではなく『熱

い』と感じさせたのは、単に気温だけの話ではないだろう。

 

 

 バスローブを脱いで、くららはわずかに位置のずれたブラジャーの肩紐を直し、まずは夕子から貸してもらったショートパンツを履いていく。デニム地で

膝上十五センチ程度のごく一般的なものだが、ボタンを止めたところでわずかにお尻が窮屈だという事に気付いた。

「んぅ〜……夕子さんには悪いけど、やっぱりちょっとちっちゃいのかな……でも、ウエストは余裕あるねっ」

 かなり失礼な発言だが、事実なので仕方がない。ショートパンツの位置をへその下が見える程度の位置まで落とすとウエストも無理なく納まり、後は勇悟

から渡されたシャツを広げて着るだけなのだが――――。

「勇悟さんの、シャツ……」

 白いシャツを羽織り、ぶかぶかの袖をくるくる揺らして長さを確かめる。やっぱり男の人の服って大きいんだなぁ、と思いながらくららはぎゅうっと服の

感触と匂いを確かめるように身を縮ませた。

「……………………ぷはぁっ」

 たっぷりと吸い込み、ご満悦といった感じの表情が思わず滲み出すどころか溢れた表情。ぷちぷちとボタンを止めながらも、その表情が元に戻る事は全く

ない。無理もないと言えば無理もないのだが、少々行き過ぎた行為であることは否めないし、くららもそれくらいは分かっている。

「でも、こんなチャンス滅多にないもん。それに来週には、勇悟さんから…………えへへ〜」

 お互いの気持ちはもうほぼ同じと言って良いであろう勇悟の言葉は予想外だったが、その分嬉しさも跳ね上がる。出来る事ならすぐにでも告白してもらい

たいし、それがダメなら自分から告白したいところだが、今日のところは勇悟の言うとおりに大人しくしておこう。

「ん。これなら余裕あるかな……?」

 首とその下にあるボタンの二つは外しておいて、洗面台の鏡で自分の姿を確認する。ダボダボのシャツは袖をかなり曲げて肘が隠れる程度に調整し、裾は

ショートパンツまですっぽり覆うくらいの長さ。いつもは目立つ大きな胸も、服の大きさのおかげでうっすらラインが見える程度にしか分からない。とはい

え、これだけ大きな服を着ていても分かるという事自体がくららの胸の大きさを如実に表していると言えなくもないのだが。

「なんだか、シャツだけ着てるみたいに見えちゃうけど、まいっか!」

 トレードマークのヘアバンドの位置を少し戻し、借りていたバスローブをきちんとたたむ。タオル地の柔らかな感触は肌にも心地良かったが、今着ている

勇悟のシャツと比べれば雲泥の差だ。大好きな人が普段着ている物に包まれるというのはそれだけで心が浮足立つほどであり、欲を言えばこのまま頂戴して

しまいたいくらいである。

「お待たせしましたっ! ただいま戻りましたぁ〜♪」

 脱衣所のドアを開けリビングに戻ると、夕子はキッチンで変わらず夕飯の支度をしており、勇悟はソファーに座ったまま。そしてその膝の上には真那佳が

陣取っており、食事の前菜代わりにと夕子が用意したポテトサラダをもくもくと口いっぱいに頬張って食べている。

「おかえり、くららちゃん」

「くぅちゃ、おかえぃなさぁいっ」

 暖かな、優しい空気。それは家族の団欒としてどの家庭にでも存在する穏やかな情景であり、数か月前にはくららもその風景の中にいた。しかし父は単身

赴任で遠方に出て数カ月、母もそんな父の世話をしに行って早一カ月余り。今は一人暮らしをしているくららには、もう随分長い間この光景を目にして、感

じていなかった。だからだろうか、今こうして「おかえり」と迎え入れてくれた事に深く感謝しているのは。

「? くららちゃん? どうかした?」

「あ……う、ううんっ、なんでもないですよぉ!!」

 たたっとソファーまで小走りしたかと思うと、くららは有無を言わさず勇悟の横に腰を下ろす。真那佳は子ども用のスプーンでポテトサラダをごそっと掬

い取り、くららに向けて「あ〜ん」と促し、くららもそれに応えて小さな口を少し大きく開けてサラダを口に運んでもらう。

 

 

 

 夕食を終えて小休止を過ごす頃には、時刻は既に夜の八時を回っていた。くららも、いくら家に誰もいないからと言って留守には出来ないし、ましてや、

勇悟の家に泊まる事などあり得ない。そうなったらそうなったで非常に嬉しいのだが、それ以上に緊張のあまりにふとしたきっかけで気を失ってしまうよう

な事態にならないとも言い切れない。

「くららちゃん、そろそろ帰るのかしら?」

「はい。もう夜になっちゃいましたし、いつまでもお邪魔してたら失礼ですから」

 玄関で支度をしていると、洗濯と乾燥まで終えて、汚れの落ちたワンピースと合わせのボレロを紙袋に入れて夕子が手渡してくれる。くららが今借りてい

るショートパンツを返すのはいつでも良いとのことで、さらにお土産としてさくらんぼを一箱頂いてしまった。

「またいつでも遊びに来てね、真那佳もくららちゃんの事はとても気に入ってるから。もちろん私も」

「くぅちゃ、またねぇっ!!」

 きゅうっと小さな身体をめいっぱい使って真那佳がくららに抱きついて来る。その愛らしい姿にくららも思わず表情を緩ませ、優しく頭を撫でてやった。

「それじゃ、そろそろ行こうか?」

「はいっ、勇悟さん♪」

 玄関前でくららの支度を待っていた勇悟と並んで、最後にもう一度真那佳と夕子にお辞儀をする。母娘二人ともが手を振ってくれるその姿を胸に焼き付け

て扉を閉めると、くららは一歩先を行く勇悟にすぐさま追いついて彼の手を握った。

「っと……何?」

「ご無沙汰してましたから、スキンシップですよ〜」

 にっこり微笑むくららに誘われて、またそれに応えるように勇悟も表情を緩めてくららの手を握り返す。たった三時間程しか離れていなかったというのに、

随分長い間触れ合っていないような感覚をどちらもが感じており、その感情の理由は今更確認するまでもない。

「あー、そう言えば……なんか、いきなり名前で呼ぶようになったよな?」

「ふぇ? ……ああ、そうですね。だって、神崎さんの家はみんな『神崎さん』じゃないですか。だから勇悟さんって呼ぼうと思って変えたんですけど……

ダメだったですか?」

 子猫がするようにくららが首を傾げる。どこか意地悪なようで、それでいて不安げな物も滲ませるその表情を見たくなくて、勇悟は今まで握るだけだった

手をより強く絡め合い、くららの指の間に指を入れる握り方に変えた。

「ダメ、なんかじゃないよ。俺は……くららちゃんになら、よっぽど変な名前じゃない限り、なんて呼ばれても構わないし」

「――――っっっ」

 ぼふっ、と音を立てそうな勢いでくららの頬が染まる。そして言い出した勇悟自身も照れ隠しに顔を背けて、しかし横目でくららをチラリと盗み見ると、

偶然にもこちらを向いていた彼女とバッチリ目が合ってしまった。

「あ、え、えとっ、じゃ、じゃあ…………考えてたのが、あるんだけど……怒らない、です?」

「……変なのでなければ」

 歩く速さを緩めて、夜の道を二人手を繋いで進みながらも、互いに互いの顔しか見えていない。勇悟はただ、くららから告げられる名前を待つのみであり、

例えそれがどれほど珍妙な名前であったとしても受け入れようと思っていた。そしてそんな彼の思いを悟ったかのように、くららは一度頷いてから。

「ちょっと恥ずかしいんだけど……………………ユウくんって、呼んでも良いですか?」

 震える声で紡ぎ出した音はか細く、しかし言い淀む事のない明瞭な響きだった。街灯の明かりで仄かに照らされたくららの顔は恥ずかしそうに、しかし後

悔だけはしないという確固たる意志に満ちていた。

「ユウくん、ね。……結構くすぐったいけど、くららちゃんがそう呼びたいなら、俺は全然構わないよ。でも一応、俺の方が歳は上なんだけどな?」

「うん。だけど……ユウくんの誕生日って、四月七日でしょ? あたしは一番早い四月二日だから、五日間だけは同い年なのっ」

 くらら流とでも言うべき理屈で勇悟の質問に答えると、今度はくららの指が勇悟の手をぎゅうっと握ってくる。不満を訴えるようで、どこか甘えるような

力加減。柔らかくて暖かいその感覚は、いつもくららに感じている太陽のそれだった。

「くららちゃんらしいなぁ、そういうトコ」

「あー、それってなんか馬鹿にしてる気がするぅ。あたしユウくんが思うほど馬鹿じゃないもんっ!」

 じゃれ合いながら、それでも手を離す事はせずに歩く二人。くららの言葉遣いも呼び方が変わったせいか、どこかタガが外れたように砕けた物に変わって

おり、またその状況がくららのみならず勇悟の心にも確かに影響を与えていた。

 

 

 マンションの前に辿り着いたのは、それから二十分も過ぎた頃だった。特にどこかに寄り道をしたわけではなく、別れを惜しむ気持ちが歩幅を狭め、歩く

速度を鈍らせた結果だ。それでも帰らないという選択は出来ず、マンションのエントランスでくららと勇悟の手はようやく距離が置かれた。

「あっ…………じゃあ、また、来週……ね」

 名残惜しさを滲ませ、くららの笑顔が陰る。その悲しい表情に勇悟の胸はズキリと痛むも、これまで自分が積み重ねた言葉に縛られているが為に、踏み出

す事を躊躇っている。

 しかし、と勇悟は思う。確かにこれまでの自分の言動は、当たり前の人間が当たり前の事情を知っているからこそ取れた、誰に対しても正しい常識的な対

応かも知れない。だがそれはやはり大多数を相手にした理屈であり、それがまかり通らない人間も中にはいる。

 それはやはり目の前にいるくららの事でもあり、また彼女と一日を過ごして影響を受けてきた勇悟自身にも当てはまる事ではないだろうか。常識的な考え

ではなく、人間的な感情に従うのなら、くららを悲しませてまで常識を貫く必然性は勇悟にはないはずだ。

 ――――そう。例え一週間後にくららに告白するのなら、今くららを泣かせてまでその『常識』に捕らわれるメリットはどこにもない。

「くららちゃんっ!!」

 声を掛け呼びとめる。陰った笑顔は困惑の色を重ね、勇悟が好きな太陽の明るさと暖かさは無い。その表情を作らせてしまったのが他ならぬ自分自身の態

度にある事を誰よりも知っている勇悟は痛烈なものを感じ、しかしそれで臆する事もせずにくららとの距離を詰める。

「ユウ、くん……?」

 さっきまでとは様子の違う勇悟の声と態度、そして表情に、くららの鼓動は理由もなく高鳴った。半ば無意識に手を伸ばすと、その手は大きくてガッシリ

した勇悟の手に包まれ、そこから彼の熱と微かに高鳴りを感じる。

 目と目が合う。高低差二十五センチはそのまま二人の身長差。しかしそれを意にも介さないでお互いだけをただ純粋に見つめ合い。

 意を決したように真剣な勇悟の視線を合図だと悟って、くららはぎゅっと勇悟の手を握り返す。

「俺は……きっと、初めて会った時から……――――くららの事が、好きだ」

「――――――――あ、あたしも、ゆ……ユウくんのこと、好きっ、です!」

 数秒を置いて、くららからも同じ言葉が返ってくる。叶う事ならばそのまま互いの感情が偽りでない事を証明するために、口づけの一つも交わしたい衝動

にも駆られたが、勇悟はくららの手を取ったままそっと下ろし。

「続きは、来週の撮影が終わってから。……な?」

 ただ一言だけ優しく告げて、くららもその申し出に首を縦に振った。

 

 

 

 

 

 夢見心地の意識で、くららは自室のベッドにぽふんと倒れ込んだ。柔らかな感触と同時に感じる微かな痛みが、先ほどの出来事が嘘や夢で無い事を証明し

てくれた事に、思わず歓喜の笑みを漏らさずにはいられない。

「やった、やったよぉ〜〜〜〜?

 まともに会話してからわずか一日程度というあまりにも短い期間だが、それ以前からの交流も考えれば二人が出会ってから一カ月強。これも短いと言えば

短い方ではあるものの、そんな時間的な付き合いなど今のくららにしてみれば些事にも満たない出来事だった。

「しかも、くららって、名前で呼んでくれたしっ!! ちゃんづけじゃなかったしっ!!」

 ごろんごろんと枕を抱っこして転げ回る。みっともなく、またはしたない事この上ないがそれだけ嬉しかったのだろう。それもそのはず、意中の男性から

好きだと告白されて嬉しく無い女の子など、どこの世界にもいるはずがない。勢いに任せてそのまま勇悟を自宅に招待する事も出来た状況だが、そんな事を

すればくららは間違いなく混乱し支離滅裂・前後不覚どころの騒ぎでは無くなる。それに勇悟にも彼なりの立場というものがある。それが日中に良い雰囲気

になりながらも決め手にまで達しなかった理由であり、また今のくららが抱える一番の疑問でもあった。

「どーして、告白してくれたんだろ……?」

 仰向けでベッドに倒れ、枕を頭の下に置く。今まで散々自制していたのに、どうして別れの間際になって告白してくれたのか。その理由を問う手段はすぐ

傍に置かれている携帯電話を使えば解決するかもしれないが、それはきっと良く無い事なのだろうと考え直し、くららはそっと服を抱くように丸まった。

 今着ている服は、勇悟から借りたシャツだ。洗って置かれていたものだろうが、勇悟の匂いもかすかに感じられる気がする。愛しい人の衣服に包まれてい

るなんて、これ以上ないくらいに幸福な事だろう、

「今日は、このまま寝ちゃおっ…………おやすみ、ユウくん……♪」

 

 

 

 待ち遠しい出来事があれば、それまでの期間は非常に長く感じられる。一週間の間に五十通を超えるだけのメールと通話のやりとりをしていながら、今日

という日を待ち侘びていたくららは、撮影が終わるのを今か今かと待っていた。しかしだからといって、撮影中に気を抜いたりするような事があってはなら

ない。立つ鳥跡を濁さず、最後だからこそきちんとやる事はやらないと、という意識の元でくららは撮影に臨み、その姿を見ていた勇悟は満足そうな笑顔で

撮影ブースから機材を仕舞うために搬入用の扉を静かに開ける。

「――――神崎さん」

「? あ……伊村さん」

 呼びかけられて振り返ると、そこにいたのは長身と言って差し支えない女性・伊村紗弥香が立っていた。勇悟と並んでもくららほどには違和感がない高低

差は視線を合わせるのにも苦労が無く、眼鏡の奥にある意志の強い瞳はどこか他人を圧倒しながらも惹きつける魅力を兼ね備えている。

「少々、お話があります。これからよろしいでしょうか?」

「え、ええ……でも、くららちゃんもうすぐ撮影終わりそうですけど……」

 メールのやり取りで、今日の撮影が終わった後には二人で約束をしている。好き合っている者同士が当たり前に待ち合わせをして行う、どこにでもあるデ

ート。この一週間ずっと心待ちにしていたのはくららだけではなく、当然勇悟も楽しみにしていたイベントだ。それを邪魔するなど、たとえ相手がくららの

マネージャーである紗弥香であっても許される事ではない。

「然程お時間は頂きません。それにこれからのお話は、くららちゃんにも関わる事ですから……と言えば、察しはつくかと思いますが」

 含みのある物言いに、勇悟は思わずドキリとする。紗弥香はそのまま勇悟に変わって扉を支えて出るように促すと、それに従って勇悟は外に出る。機材の

搬出はひとまず後回しになるが、優先順位を考えれば仕方のない処置だろう。

 閉まりかけた扉の向こうで、水着姿で笑顔を振り撒いているくららの姿を目に焼き付けて、勇悟は静かに外に出て行った。

 

 

「ある程度の予想はしていましたが、神崎さんはくららちゃんの事を――――いえ、逆ですね。くららちゃんは神崎さんに好意を抱いてます」

 抜き身どころか単刀直入過ぎる紗弥香の言葉に、勇悟はただ絶句しながらも首を縦に振った。それを確認すると、紗弥香は備え付けられているドリップコ

ーヒーのスイッチを入れて紙コップを二つ用意する。

 二人が今いるのは、スタッフ専用の休憩スペースだ。ドリップコーヒー以外にも普通の自販機が置かれており、さらにはデザート販売用の冷蔵庫まで設置

されている。コンビニエンスストアのそれと品揃えも大差なく、しかも料金が十円から二十円ほど安く販売されており、それなりに人気だという。

 それはさておき、勇悟の反応を見て紗弥香は特別に驚いたそぶりもなく小さな溜め息をついた。そしてゆっくりと眼鏡を外し、ただ真っ直ぐに勇悟を見据

える。だがそれは、勇悟が覚悟していたような悪しざまな感情が乗せられた睨みつけるようなものではなく、言葉通りに真剣そのものだった。

「神崎さん。今日、くららちゃんは私の手元を離れます。私も人生の先達として、出来る限り関わって来た子たちの相談には乗っていきます。でも、くらら

ちゃんの事は……どうか、神崎さんが支えてあげて下さい」

 予想だにしなかった紗弥香からの申し出。半ば放心状態になりながらも、勇悟はぐっと拳を握り己を奮い立たせ、紗弥香を見つめ返す。

「どうして、俺を……? 伊村さんは俺の事を、良くは思っていないとばかり……」

「そうですね。確かに、私は貴方の事をどこかで見下していました。それは貴方自身にも理由は分かっているでしょう?」

 おくびにも出さずに斬り付けるかのような紗弥香の言葉に、勇悟の表情が陰る。だがそれは、勇悟にとって向き合わなければならない辛い過去だ。

「……香奈さんからも聞きました。そして貴方という人が私たちと関わる上で、これは必要な事だと思い調べさせて頂きました。その非礼はお詫びします。

……神崎さん。貴方はかつて高校剣道のホープとまで呼ばれた才能溢れる選手でした。ですが――――全てを失う切っ掛けになった交通事故で、加害者の男

性だけに責任があったわけではないという事実が、私の貴方に対する不信の理由です」

 

 胸を抉る一言。癒えた身体の奥がずきんと重く痛む。

 

 勇悟はあの日、いつものように自転車で帰宅していた。

 そこで明滅する信号を見て、慌てて速度を速めてしまったのが全ての始まりだった。

 制限速度を無視して走る乗用車。横断歩道を渡り切る直前、歩道の信号は赤色に変わり。

 直後、目の前の風景が回転した。激しい衝撃に自転車ごと吹き飛ばされ、硬いアスファルトに叩きつけられる。

 事故の詳細は後日の検証で明らかになり、大切な時期に事故に見舞われた不幸は自身の責任でもあると判断した大学側は。

 ――――神崎勇悟への推薦入試受験資格を撤回した。

 

「ですが、貴方はその処遇を当然と思い、剣の道を汚した自分を赦せなくて、剣道への熱意を失ったと嘯いて剣道を辞めた。周りに当たり散らす事も無く、

ただ自分を責めるような暮らしを送っていた貴方は適当な趣味に音楽を選び、そんな貴方を見かねて香奈さんの幼馴染である高村さんに紹介してもらい、今

に至る……というところですね」

 沈黙は即ち肯定。勇悟はただ何も語らず、しかし紗弥香から向けられる視線から目を逸らすことなく受け止めている。

 そう、紗弥香の言葉は全て事実だ。だから彼女が自分を嫌う理由も、彼女が大切にしているモデルの女の子たちを自分に近づけたがらないというのも納得

出来ていた。だというのに何故、くららが紗弥香の手から離れる今になって、くららの事を託すような事を言ってくれたのだろう。

「そんな俺に、どうして?」

「そんな貴方だから、ですよ。確かに貴方は自身の行動の結果として失敗を犯した。それはもう取り返しのつかない事です。けれど神崎さん、貴方はその後

誰も責めず、それどころか自分が責められる事も厭わなかった。そしてアルバイトとはいえ決められた日に仕事をし、自分自身を律そうとしている。きっと

貴方の本質は自分に厳しく、そしてとても優しい人なんでしょうね。ただそれが不器用で、誤解を受けやすいだけだと……私自身もそうでしたから、実感し

ています」

 注がれていたコーヒーを勇悟に差し出し、自分の分を淹れる紗弥香。そしてゆったりとコーヒーを注いだ紙コップを掲げる。

「だから神崎さん。くららちゃんを守って、支えて下さい」

 初めてみる紗弥香の笑顔。大人の魅力と共に、どこか少女のような愛らしさも兼ね備えたその美しさには、勇悟ならずとも思わず胸を高鳴らせてしまう。

 柔らかく交わした紙コップとコーヒーを誓いの杯として、二人の間に盟約が交わされる。

「はい。この約束は必ず、守ります」

 

 

 

「…………ユウくんっ!!」

 紗弥香が退室した後に休憩スペースの片付けを軽く済ませた勇悟を迎えたのは、他ならぬくららだった。既に撮影は終わっている時間で、彼女の服装も先

程までの水着姿からいつもの制服姿に着替えている。そのくららが飛びついて来たのには、さすがの勇悟も驚いてバランスを崩しかけてしまう。

「っと、……く、くらら? どうしたんだ、いきなり――――」

「さっきの話……聞いちゃった。紗弥香さんからメール、もらってたから」

 顔を上げたくららの顔はほんのり桃色に染まっており、彼女の告白が嘘ではない事を雄弁すぎるほどに物語っている。そしてその爆弾発言を受けて、紗弥

香によって先の会話が仕組まれていたのだという事を理解した勇悟はやはり、少なからず不機嫌な気持ちも芽生えずにはいられなかったが。

「聞いちゃったか……なら、そのままの意味だよ。だから離してくれないか? こんなとこ、誰かに見られたりしたら」

「やだっ、ちゃんと聞きたいっ!! ユウくんからちゃんと聞きたいのっ!!」

 ぎゅうっと身体を引きつけて、半ばしがみつく様に勇悟に抱きつくくらら。豊満なバストがぐいぐいと押し付けられ、また彼女から感じる甘い香りに心を

くすぐられては、勇悟もくららに惚れている身として抵抗する事など出来るはずもない。

「き、聞きたいって言われても……ていうか何でそんな、ムキになってんだよ?」

「だ、だって…………だって、悔しいんだもんっ!!」

 ぷぅっと頬を膨らませて、しかし目の端には涙を浮かべてまで行うくららの抗議の理由が、勇悟にはさっぱり分からなかった。今にも零れ落ちそうな涙を

そっと手で拭き取り、その拍子に触れた柔らかい髪の毛の感触を指にしっかりと残しながら、勇悟の手がくららの頬に添えられる。

「悔しいって、何が?」

「……紗弥香さん、あたしの知らないユウくんの事知ってたんだもん……。あたし、ユウくんのこと好きなのに、ユウくんの昔話なんてほとんど知らないし、

ユウくんも教えてくれないから、……っ!?」

 くららの言葉が塞がれる。紡ぎ出す言葉を塞いだのは勇悟からの抱擁。がっしりと大きくて力強く、それでいて優しい行為はくららの小さな身体をすっぽ

りと覆い、言葉も動きも強制的に止めさせた。

「勘違いしてるみたいだから言っておくけど、伊村さんだって俺から直接話を聞いたわけじゃないんだから。俺の周りのお節介な友だちが、好き勝手に伊村

さんに話をしただけだ。それに、くららに昔の事話さなかったのはさ……正直、ちょっと怖かったから」

「ぷはっ…………怖い、って?」

 勇悟の胸から顔を上げたくららが、その純真な瞳を真っ直ぐ勇悟に向ける。どこか小動物を思わせる愛らしさに、勇悟はそっと手を伸ばしてくららの頭を

やんわりと撫でながら、表情を緩めて口を開く。

「くららは、俺と話す時はいつだって真っ直ぐだから。そんなくららが、俺の昔話……事故の事とか、剣道してた時の話とか、そういう暗い話をして、くら

らに嫌われたり、避けられたりするのが怖かった。……我ながら、臆病者だとは思うけど」

「そんなこと、あるわけないよっ。だって、どんなユウくんでも、それは全部ユウくんでしょ? だったらあたしの答えは、いつだって一つしかないよ」

 勇悟の告白を笑い飛ばすかのような明るさ。その明るさに、勇悟自身も心のどこかで期待していたのかも知れない。

 きっとくららなら、そう言ってくれるだろうという予感。それは確信めいたものでもあり、今確かなものとして目の前に降り立つ。

「あたしは……南城くららは、神崎勇悟くんが大好きですっ」

 

 それは、眩い太陽のような笑顔。いつも彼女に感じていた輝き。

 

「ありがとう、くらら……俺も、くららの事が大好きだ」

 膝を落とし、高低差を縮める。くららが背伸びをしなくても届く程度に目線を合わせ、彼女の笑顔を真っ直ぐ視界に捉える。

「あ、ゆ……ユウ、くん……」

 勇悟からの告白に目を白黒させていたのも束の間、これから先に起こる事を想像すれば、爆発しそうなほどに騒ぎ出す鼓動さえも気にならない。

「ちゃんと言えなかったけど……今までお疲れ様。そして、今日から俺の……神崎勇悟の、彼女になって下さい」

「は――――――――は、はいっ、よろこんでっ!!」

 と、叫ぶように発した声と共に思わずお辞儀をしてしまったのが失敗だった。そのまま触れ合うはずだった二人の口唇はくららが頭の角度を変えた事で見

事に失敗し、おまけに『ごすっ』と鈍い音を立てて勇悟の顎にくららの頭が激突する。図らずも人体急所の一つに対し、人体の中でも硬い部類に入る個所が

ぶつかろうものならば、いかに勇悟であろうと悶絶せずにはいられない。

「ぐぉぅっ……!?」

「にゃぁっ!? い、いたた……って、ユウくん!? ご、ゴメンなさいっ!!」

 顎を押さえて苦しむ勇悟。折角の雰囲気を台無しにしてしまった罪悪感もあるが、それ以上に勇悟に傷を負わせた事の方がくららには大打撃だった。何と

かフォローしようとあれこれ思考を巡らせるが、くららが思いついたのは。

「そ、そだっ……ゆ、ユウくんっ、手当てするから、顔こっちに向けて?」

「ん……んっ!?」

 触れたのは手でもハンカチでもない。そして触れ合ったのは顎ではない。

 口唇に感じ合う、互いの熱。痛みは熱に吸われて消滅しでもしたのか、今は何も感じない。

 柔らかな感触。ほのかに残るのは、先ほどまで勇悟が飲んでいたドリップコーヒーのほろ苦い香り。

「んっ……ぷはぁっ…………えへへぇ、ユウくんのちゅー、奪っちゃった?

「……それを言うなら、俺だって。くららのを貰っちゃったな」

「ファーストちゅーなんだから、大事にしてよ? ところでユウくんも初めてだった?」

「そりゃあ、剣道一直線の剣道バカでしたから。当然初めてですよ」

 言い終わると、どちらからともなく申し合わせたようにもう一度口唇を重ねる。これから何度でも、何十度でも交わすであろう触れ合い。きっと飽きる事

など一生ないと断言出来るその行為に、今はただ浸りながら。

 

 

 少年と少女の物語は、これからも密やかな旋律とともに紡がれていく。

 

 






あとがき:

私が一目惚れをした絵描きである涼月くららさんから使用許可を頂いたキャラ・くららちゃんをヒロインに据えて、
さらにこれまで連載していたBGMシリーズの主人公・新崎謙悟のパラレルキャラクターとして誕生した神崎勇悟という
男の子を中心とした新規作品です。想い合う二人が触れ合い、ただひたすらに初々しい作品となりました。
支え合う事、過去の自分と向き合う事という根幹はBGMと同一であり、太陽のような存在であるくららちゃんの優しさと
包容力によって勇悟が救われていく。人と人の出会いが新しい自分を形作っていく……そんな当たり前でありながら、誰もが
忘れてしまいそうな関係を描いたつもりです。



管理人の感想

まずは1話目。BGMとはちょっと違う世界における、勇悟とくららの恋物語をお送りしていただきました〜^^
天真爛漫を絵に描いたような快活少女、くららの恋愛奮闘記って感じでしたね。
その様、まさに恋する女の子。あんないじらしいアタックに曝されては、どんな男もイチコロでしょう。
しかし・・・まだ付き合っていない段階にして、あの初デートは甘すぎでしたね。
まあお互いにほとんど認め合っているようなものでしたが。端から見たら、幸せなカップルそのものでしたし。
うん、とりあえず・・・真那佳ちゃんが可愛すぎるぜ、こんちくしょー!(ぇ

というわけで、引き続きアフターストーリーとなります第二話をお楽しみください。



2010.10.6