イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー
Igor Fyodorovitch Stravinsky
1882-1971
1882年、サンクトペテルブルグ近郊のオラニエンバウムに生まれた。
父フョードルはバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの蔵書があったという。
最初イーゴリ・ストラヴィンスキーは、法律を学ぶため、大学に入ったが、途中で志望を作曲家に変え、
リムスキー・コルサコフに作曲法と管弦楽法を師事する。結婚もして生活が安定したイーゴリは、
26歳のとき、自作曲「幻想的スケルツォ」「花火」が初演され、ロシア・バレエ団の主催者セルゲイ・ディアギレフに認められる。
1910年(28歳)、そのディアギレフの依頼でロシア・バレエ団のための第1作、「火の鳥」を上演し、
大成功を収める。翌1911年には「ペトルーシュカ」が委嘱され、これも成功を収める。
さらに1913年、第3作「春の祭典」が上演され、前衛的かつ画期的なこのバレエは、
上演時に楽壇を賛否両論の渦に巻き込み、初演時は反対する者の野次や怒号などによって凄まじいスキャンダルとなった。
この3作によって、若手の革命児として認められたストラヴィンスキーだが、
1914年、第一次世界大戦次にスイスに住居を定めると、1917年にロシアの十月革命が起こり、
ソヴィエト連邦が設立し、永遠にロシアに帰れなくなってしまった。
1920年(38歳)に「プルチネルラ」を上演して以来、バロック音楽に回帰し、作風を新古典主義に変え、
30年間もその作風を貫き通した。
その後も様々な作品を発表するが、1950年、68歳のときより、それまで否定的だった十二音技法を作曲に取り入れ、
その独特の作品を多数作り、新たな作風を開いた。このとき彼は、すでにクラシックではなく現代音楽の巨匠となっていた。
1959年、日本を訪問。武満徹を見出し、のちにニューヨーク・フィル125周年記念の作曲を、
バーンスタインが武満に委嘱するきっかけを作る。
1962年、最初で最後のソ連訪問。1969年、ニューヨークに転居し、1971年に89歳で没する。
遺体はディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬されたという。
ストラヴィンスキー:春の祭典/ペトルーシュカ/8つのミニアチュア
指揮:ズービン・メータ 演奏:ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団、他 (1967,69) DECCA
★★★★★
やや荒っぽいところもあるが、全体的な熱気でカバーしている。楽曲ごとのうねりが凄い。
この頃のズービン・メータには輝きがあった。一体どこへ行ってしまったのやら……
「8つのミニアチュア」は、初めて聴いたけど面白い曲だ。
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