子どもは自然
                                養老孟司

 子どもは自然の産物である。だから自然に属するといってもいい。他方、社会、特に都会は人の作ったものである。
 現代社会では、この両者の折り合いが悪い。というか、折り合いがついていない。社会の外側では、それが環境問題という形になって表れている。都会が広がっていくために、自然環境が失われていく。社会の中では、子どもや若者にいわばしわ寄せがいっている。 わが国では、十代から三十代までの若い人の死因のトップは自殺である。若者には夢も希望もないという事例が多いらしい。「死にたくなったら、ここに電話して」という運動を個人でやっている坂口恭平という人がいる。約二十万件の相談を受けたが、そういう人たちの悩みは要するに「他人が自分をどう思うか」に尽きるらしい。自然はあれこれ言わない。指図もしない。それが失われていくと、子どもたちの生きる場も失われていく。
 答は簡単であろう。自然を回復することである。それは外の自然という意味ではない。私たちの心の中の自然を回復することである。何であれ、思い通りにしようと思わないことである。相手をよく観察して、それなりに理解する。子どもは小さな大人ではない。あくまでも子どもという別な存在である。大人である自分と「同じ」にしようと思っても、そうはいかない。



                           (令和3年度 ふじ91号所載)

 

 

  冬晴れ
                                養老孟司

 昨年(令和二年度)はコロナの影響で子どもたちとの虫取りができませんでした。例年の自分の採集も予定したようにはいきませんでした。ヘンな時代になりましたね。
 友人知人を含めて、仕事上も人に会うことが減ったので、令和三年は寂しいお正月になりました。私は人に会うのは好きじゃないと思っていたのですが、会う機会がここまで減ると、寂しくなります。そのうえクリスマス前に猫のマルが死んだので、余計に寂しくなりました。そうかといって、友達に会いに行くのもはばかられる状況なので、仕方がないからパソコンの前に座ったきり、腰が痛くなりました。
 毎日欠かさず散歩には出ます。午前八時を過ぎると、朝陽がさして、道が温かく感じられます。気温は低くても、太陽が出ていると、ほとんど春の感じです。陽光につられて散歩していると、いつもは通ることのない細い道を通ります。秋の間はまだ花が咲き残っていて、路傍で見慣れない花を見ると、スマホのアプリを使って、写真を撮って名前を調べます。本当に便利な時代になりました。コロナのおかげで、身近な自然を以前より丹念に観察するようになったと思います。
 一月にはほとんどの草花も消えて、最後まで残っていたツワブキの黄色も消えました。天気のいい日にはマルが好んで日向ぼっこをしていた縁側に私が座って、マルの代わりをしています。たいへん気持ちがいいので、マルが好んでいた理由がよくわかります。秋晴れという言葉はありますが、冬晴れは聞いたことがありません。でも令和三年の一月は冬晴れの日が多くて、久しぶりに自宅を楽しめました。
 若いときはさまざまなことに心を悩まし、あれこれ大変だっと思います。私は八十代の半ばに差し掛かっていますが、「しなければならない」ことが減って、人生が楽になりました。

                           (令和2年度 ふじ90号所載)

 

   健康な子ども
                                 養老孟司

 夏になると、あちこちを飛び回って、子どもと虫採りです。べつに虫を採るのが目的ではありません。子どもを外に連れ出したいのです。
 私が子どもの頃は、日が暮れるまで家に帰れませんでした。「子どもは風の子」なんて適当なことを大人に言われて、外で遊んでいたのです。家が狭いし、なんと言っても近所の子が寄り集まって大勢いましたから、うるさいんです。いまではほとんど考えられない状態でしょうね。
 そうやって外で遊んでいる子を集めて、教室に座らせて、勉強させるというのにも、だから意味があったと思います。そうでなけりゃ、走り回って一日終わり、ですからね。
 でも今は違うでしょう。一日中、うっかりすると家の中です。だから外に連れ出す。学校も外でいいんじゃないですかね。学校に行ったら、外で遊ぶ。
 コンピュータが人を置き換える。やがて「なくなる」職業のリスト、なんてものが雑誌に載っています。なぜそれでいいのか、老人には分かりませんね。コンピュータは人が使う道具です。それが人を「置き換える」というのは、どういうことでしょうか。世の中を作っているのは、コンピュータではありません。「あなた」なんです。
 子どもたちは、そういう変テコな世間にこれから入って行きます。そこで大切なことは
「主人公は自分だ」という感覚です。コンピュータが自分を置き換える。自分には何の力もないし、それが未来だから仕方がない。そう思うような大人を育てたくありませんからね、私は。そのためにも子どもを外に連れ出し、自分で行動させたいのです。
 現代人はほとんど病気です。OECDの調査で「自分はまったく健康だ」と答えたのは日本人では三割でした。アメリカ人は九割を超えています。どちらも「ほとんどビョーキ」でしょうね。いわゆる病気だけが病気ではありません。バランスが取れた人を育てる。それが真の意味での健康法だと思います。 


                           (平成30年度 ふじ88号所載)
 
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  子どもという自然
                                養老孟司

 理事長のお役を御免になって、一年以上が過ぎた。子どもたちと虫採りと称して外に散歩に出るのは相変わらずだが、変わったことがある。それは子どもにウルサイと平気で言えるようになったことである。子どもはウルサイに決まっているので、それでいい。そう思うようになった。いわれた子どものほうもなんとも思っていないらしい。ウルサイといっても、相変わらず騒いでいるからである。
 なにか社会的な役柄があると、人は無意識にその影響を受ける。だから私は勤めが嫌いだったんだなあと、いまではわかる。役割なりの態度を取らなければならない。どこかでそう思っていて、その影響が思わぬところに出る。だから医者は医者らしいし、先生は先生らしいのであろう。
 いまは私に決められた社会的役割はない。ただの爺さんが子どもたちと歩いているだけだから、いい気持である。自分に素直になれる。だから「ウルサイ」なのである。べつに子どもたちが静かにしなくたって、知ったことではない。こちらが死ぬわけではない。隣の工事の機械の音のほうがよほどやかましい。
 私は自然が好きで、虫が好きで、だから子どもが好きなのである。暑い時は暑いなあとぼやき、寒い時は寒くてやだなあと文句をいう。天気が良くて気分がいい時は、いい天気ですなあという。子どもが騒げば、ウルサイという。それだけのことである。社会で働くと、それができないことが多い。それをストレスというらしい。
 子どものお相手をしていて、自分を発見する。最近は素直になったなあ。子どものおかげである。子ども相手に威張ってもしょうがないし、お世辞をいってもムダである。素直に正直に付き合うしかない。お天気や虫と同じですね。


                           (令和元年度 ふじ89号所載)

 
養老孟司先生は多くの著作でも知られる解剖学者です。お母様の養老静江先生は当園創立の恩人鈴木マツさんの主治医であり、のち当園園医でもあったことから、ご子息の孟司先生にも長く園の経営主体である社会福祉法人富士愛育会の理事長をお務めいただきました。現在は富士愛育園名誉顧問をお願いしています。
以下の文章は園の保護者会である富士愛育園ふじの会発行の機関誌「ふじ」にお寄せ下さったもので、許可を得て原文のまま転載させていただきました。