風樂草子
田中敏行
(特別寄稿、この文章は川仁 宏追悼文集制作依頼によって書かれたものです。)
マウスピース前夜、あれは今?
今年二〇〇三年の七月の末にブラジルはサントスの海岸で、妻と三人の子供達と共に川仁さんの散骨式を済ませた。子供達にとってはやっていることの意味すら判然とせず、妻シサ(ブラジル日系三世)も私とカワニさんという人とのかかわり合いを、まるで遠い昔話でも聞くように受けとめていた。それでもその一日は素晴らしいものだった。野口さんより航空便で送られてきた粉になった骨は、二通の茶封筒の表に「色見本」の表示が貼られどこまでもユーモラスだった。穏やかな風が細かい骨片を瞬く間に砂浜に散らし、真昼の星となって浪間に呑まれていった。砂の上と空中にそれぞれ川仁さんを送る言葉をなぞり、海に向かい声を放った。
不思議だが初めての川仁さんとの会話の中に「海」があった。単に「ウミ」と言ってしまえない、言葉に成らない、それ以前の何か、それがボイス(声)をやる、ぼくの衝動としてある、とたどたどしく語ったのをただ静かに肯いて聞いてくれていた。その後間もなく青山シャイで後飯塚僚(ごいづか りょう)とやるライブに「俺もはいってもいいか?」という具合に混ざることになり、私達にとっては最初の、そして川仁さんにとってはライブそのものを始めるきっかけの一つになった。八二年、時にわたしは二十二を越えたばかり川仁さんは五十を目前にされていた。
私はその頃七八年に美学校の油彩画教場に入ったものの一年と続かず、パンクロック、即興音楽、アクション、それらを巡って八十年には声そのものに興味は移りかけていた。「タコ」というアナーキックな音楽集団を離れ、声と身体の繋がりが欠落しているような気がして、原田伸雄の主宰する「青龍会」の舞踏の稽古に通うようになっていた。「引越しがあるのでトシ君近所だから手伝いに行って」と原田さんに言われ駆けつけていった先が始めてお会いする川仁さんであった。
川仁さん自身の活動もその神宮前への移転を機に大きく変化し、再び活力を増して行かれた様であった。その一つに時期を同じくして新宿のギャラリー612で「授業―ことばそして/またはうそ」と銘打った定例の話の会が始まり、そこに集まったひとの渦はやがて「マウスピース」を産みだす原動力をも養っていった。幾つにも分枝して果てしもない話の脈絡は、参加者が微妙なラジオチューニングをしてふとした拍子に初めて聞きとれるようなスリルに充ちていた。ある日アルトーの残した声の訓練のためのテキストを私が実演する運びがあった。それに前後して聴講者の秦さんから川仁さんへイベントの依頼があり事態は一気に加速した。私はそれまでの住み込みのバイトを後にして、テルプシコールまでの数ヶ月間を神宮前の新居で寝起きを共にし、これから始まる誰にとっても未知の何ものかを迎え撃つことになった。
当初から一環してデユオであること、複数で始めることにこだわりやがて「マウスピース」の名称が決まり、アルトーの一節から取った「口もなし、舌もなし、喉もなし」のタイトルも決まっていった。そしてここには列記する事は出来ないが実に多くの方がたの協力を得て前代未聞のマウスピースは執行された。
それからの二年間、我妻、故生方両氏が運営するクリエイティブスペース ギャティー(吉祥寺)で水を得たように息つく間も無いほどマウスピース、そして加藤啓、古屋俊彦の参加、それぞれのソロ、定例「フリーキートーク」、青龍会の連続公演から様々なアーチストとのセッションと交流までが繰り広げられた。ギャティーの場は即興性、ジャンルの横断性、複数性などの実験の場としたマウスピースと図らずも呼応し、自ずと一時代の生成現場と化していた。
八四年のギャティーの閉鎖に伴いその後マウスピースの名称によるライブは二度と打たれる事は無かった。その活動を継続できなくなった理由のほとんどが私自身にかかわっていた。「おまえは自分の速度で走っていない」という言葉が今思い出される。二人より始めるということは究極「死ぬときは一人だぞ」という処に足を着けて歩き出さねばならない。思えばその壁を乗り越えるのに一九年を費やした。師匠や先生はおろかリーダーに成ることからも逃走しながら、かといって二人の関係性をキリ結ぶことの出来ない苦味を川仁さんは解散ではなく、自然消滅という形で耐えつつ、また時の風に機をゆだねていたのではないかと察する。そしてそのことは正に私にとって「授業」であり続けた。
八六年から八八年にかけユーラシア大陸を単独自転車で旅行したあとも「おまえは変わっていない」といわれた。十年前の九三年頃ブラジルに移住した後に「ウン、おまえらしいとこへ行ったナ」と予想だにしなかった感想を漏らされた。ギャティー以降川仁さんは小杉武久氏とのデュオを積み上げて行き、それは六十年代から発せられた音波が長い変遷を経てにわかに受信されたような歓びと自在な華やかさに充ちていた。しかしそこに私の場所が無いことは自明でありガラス越しに吹く風のようで焦っていた。それから一昨年の今頃、突然野口さんより雑誌モダンミュージックに載った川仁さんのインタビュー記事を送っていただき読むことになった。すると不思議なことに語られる言葉の端々まで了解できる。分り過ぎてちょっと変だナ、いやそうじゃなくこれは川仁さんの声を聴いたのだと感じた。「二十年という時間と地球の裏表という場所の隔たりをもって初めて聴こえてくる川仁さんの声だ!」と卒直なところをメールで送った。程なく受け取った返信には、それを手放しで喜んでくれ「トシが自立した生活ができて心より嬉しい」「今すぐにでもそこへ飛んで会いに行きたい」とあった。これまで垣間見せてくれた事も無い感情を言葉に乗せているのにびっくりしたが、「ああそうだったのか、これだったんだ、川仁さんやっと会えたんだね、俺達」という気持ちがその日の夕方の空いっぱいに広がったのをいまでも新鮮に思い出せる。川仁さんの死去の知らせはかなり早く朋友荒井真一からまず受けた。そしてライブを目前にしていたことも知った。その電話で私の覚悟は決まった。そして残された人に勇気を授けてゆく死というのは凄いものだとも。七月の私の家族だけの散骨式の後、九月に舞踏公演でサンパウロを訪れていた笠井叡氏にお会いし、大野慶人氏とのデュオの舞台がはねた直後にお骨を両手で抱いていただくことができた。葬儀に参列できなかった私にとって遠い地で思い出を共有し得る方と語り過ごせた至福のひと時であった。
マウスピースは終わった。しかし川仁さんは文字どうり「骨ホネー」になって飛んで来られた。二人の、複数人の「真中ヘン」から始めようとした人間にとって個人の死が生命の終わりなのだろうか? 私はまた新たな宿題を授かったと思っている。二〇〇三年十月二十日 サンパウロにて
風樂草子 2005 真夏
新年
このお正月はサンパウロ州の端でミーナス州に隣接するペドラベラ市(美しい石の意味)に建つ禅寺、大観寺で8日ほど過ごすことになった。5年ぶりのお正月の家族旅行である。ここは昨年住職の円成禅士自らの手で築き上げられた禅堂が完成し、この大晦日に除夜の鐘の儀に僕ら一家も誘っていただいた。
思えば5年前に大船の大本山総持寺で彼がまだ外国人では初めて修行を勤めていた時期、僕は一度陣中見舞いに上がったことがあった。それから幾つかの変遷を経て今は晴れて日本人の奥様との間に一人息子をもうけ、15年来彼の家族で丹念に手を掛けて来た広い山中に禅堂を建立したのだった。とりわけ助成などがあったわけでもなく少数の仲間達と共に近所から礎石にする石を運び込み、自ら図面を引いて町の大工さんを指導してお寺に必要な用具のほとんどを調達していたのには驚かされた。面白いことに日本建築の土壁製法がブラジルで見直されている中、奥様のご親戚がかつて大工さんでその技術を手紙などを通じて伝承されていたのにはジンと来た。そのお陰で堂内は落ち着き実に心地良いものになっている。
大晦日は夜の9時頃に十数人の仲間達と年越しそばをすすり11時から禅堂に移り座禅をした。まだ起きていた上の二人の我が子らもどうやら混ぜていただき一緒に座っていたようだ。それから一通りの読経と礼拝を済ませ堂内にある大きなすり鉢状の鐘を縁側に持ち出して、参禅者たちが持ち回りでこれも大きなバチで1打しては7周りした。その間に花火を数回打ち上げるのはなんともブラジル風である。はるか遠くに見渡せる町々でも打ち上げる花火が空をほのかに明らめていた。除夜の鐘の儀を終えると用意していたワインを満天の星を眺めながら頂いた。
それから年明けの数日の間にポツリポツリと人がまたサンパウロに帰ってゆく中で僕達はすっかり打解けてしまい最後まで居残っていた。朝は日の出前に座禅をしてそれから庭や畑や食事の作業をし、息子達は隣の家の子供達と朝食が終るや否や森や渓流の小さな滝にまるで吸い込まれるように遊びふけっていた。それは何か「風の又三郎」に出てくる子供達を眺めているようであった。そしてある時僕達もまたフイと気が付いたように名残を惜しんでお寺を後にしたのだった。
昨年のこと
庭造りから始まった昨年は少しずつ生活が内から外に展開する一年だったようにおもう。3月には舞台前の池が出来今では鯉の稚魚たちと2匹の亀がいる。どこからともなくガマ蛙やトンボなどもやって来る。ちょうど夏から秋に向かうその頃日本からYAWNO氏がやって来て我が家に滞在してくれた。舞踏家の山田せつ子さん、絵本作家の南相吉さんの紹介ではじめてお会いする彼をしばしお世話させて貰うことになった。我が家につくや否やそれはもうほとんど瞬間的にうちに子供達となじみすっかり家族の一員のようにすごしていたのはたいへんなセンスであった。そして彼が作った音楽をCDで聴くとそれが伝わってくる。YAWNO氏がブラジルを発って半年以上も過ぎたのに、子供達は別れ際に彼からもたった細い布で出来たお守りを、色が抜けぼろぼろになってもいまだに手首にくくり付けて大切にしている。
2月からはここの庭造りに関わってくれる人もやってきた。カトリック大学の僕の生徒であったサンドラは毎週金曜日にやって来て落ち葉掃きから草むしりと朝の2時間ほどをせっせと手伝ってくれた。そのあと午後から二人で声と身体と言葉,息、などの研究をした。彼女の卒業論文は「整体法と舞台芸術」というテーマ、ここの庭仕事がいろんなヒントになったという。8月以降は彼女の仲間達3人ファファ、レチッサ、ダニエリもやって来るようになりこんどは11月に控えた卒業公演のためのパフォーマンス作品の準備にかかり最終的には僕も共演する運びになり盛り上がった。そのほかにも月に1回ほど週末に作業日をつくり普段出来ない大仕事、畑造りや斜面の草刈などを多いときは10人近くが集まり一緒に汗をながし、夕方作業が終ってから2時間ほど動法の稽古などをして充実した。
8月にはヨシオイダさんがピーターブルック劇団の公演のためにフランスからいらっしゃり5年ぶりにお会いできた。ヨシさんはブラジルはもとより国際的に非常に高い評価を受けている俳優兼演出家であり前回いらした折にワークショップに参加させていただき公演ともども感銘をうけた。特に日本の古典芸能の身体技法を欧米にあって現代舞台芸術のなかに溶かし込んでゆこうとする作業は40年近い歳月のなかで見事な成果をあらわしているといえる。今回お別れ会の際に手元にあった「整体入門、ちくま文庫」をプレゼントしたら後に「大変勉強になりました、またこんどゆっくりお話しましょう。」とお葉書を頂き嬉しい限りだった。
10、11月には舞踏家の和栗由紀夫氏がカトリック大学招聘講師としていらしゃりお世話させて頂いた。一昨年の舞踏フェスティバルの折にお会いしていたし事前にメールのやり取りもあったので予測は立っていたが、ワークショップと公演の熱の入りようはそれをはるかに上回るものであった。メールでは学生達を交えた試演会程度を考えていたが最終的には10人の共演者に全て違う振り付けをした大きな作品になっていた。僕も通訳という初仕事を引き受けたものの、土方巽の暗黒舞踏を全力で伝えてゆこうとする和栗さんの速度に必死でくらい付いてゆくことしか考えになく生徒達に逆に助けられた面もあった。しかしそれは大変な集注の時間であった。そして午前中の稽古後近くの学生レストランで2、3人で語らうのはなんとも楽しいひと時であった。多くの共通の友人、先人たちの名前が思い出と共に交差し僕が舞踏に関わり始めて24年近くの歳月がまるで息を生し返しなにかを要請しているようであった。
たった一日だったが公演は成功した。ふりかえって見ると一人でポツンとやって来て「どうなるかなあ」と半ばぼやいていたところからわずか2ヶ月足らずの間でサンパウロ、サルバドールでのワークショップ、舞踏譜の講演、ギャラリーでの小公演と一般劇場での大公演をこなしていかれた気迫は凄いものだった。きっと土方さんがいらしていたと僕には思えた。帰国直前我が家で催した宴会は天候に恵まれ夕べには蛍が飛び交いその後夏の通り雨があたりの森を洗った。普段は禁酒を決めている僕もこの日ばかりは飲み明かしたことは言うまでもない。
(2005年1月12日エンブーにて)
風樂草子 2004年1月 真夏編
蟻
ザクッと鍬を地面に打ち下ろすと、口を空けた土塊から蟻の群れがポロポロと落ちてくる。白い卵を守り運び出す奴、こちらの足元まできて攻撃に出る奴、もうただおろおろとして走り廻る奴など様々だ。この庭にも少なくとも5種類以上の蟻たちが、夏を待っていたというばかりに活動し始める。畑や花壇などを作っても大半は葉や花を連中に食われてしまう。もっとも葉は巣に持ち帰って卵の孵化に役立てるらしいが、噛み切った葉の小片を担いでゆく行列はさながらカーニバルの賑わいである。うっかりとしているとその上に足を置いて痛い目に遭うので油断がならない。なんでも彼らが土中に運び込む有機物でブラジルの土壌が豊かになっているという。一夏の間彼らとの共生が続く。
蛍
夏の夜、ここエンブーではクリスマス前から正月を過ぎ一月中旬まで、空といい森といい蛍が一せいに飛び交う。それを見てしまうとどんなに細工を凝らしたものでも人工の光には精気がない。なぜまたあのように音もなくフーと行ってはハッと消えまたパッと点いてスーと流れ、その気配に吸い込まれ夜が深まる。
日本の友人に言われて気をつけてみると、たしかにここの蛍はお尻がひからず胸部にある二つの目玉のようなものが光っている種類がいる。それはほかのタイプのものよりも大きく1センチ半くらいはあるだろうか、掌に乗せるとまるで米搗き虫のようにポーンと跳ねまた空に舞い上がる。その明るさは薄っすらと掌の輪郭を浮かび上がらせるくらい強い。夜空に戻った蛍は星ぼしの中に紛れこみ、こちらはまるで空中に漂っているような気持ちになってゆく。
庭造り U
一年半前から始めたこの作業はまだ続いている。裏山の斜面を切り崩し平らな空間に舞台を作ってから、まだ本調子でないにせよもう幾度も稽古で使ってきた。いまは舞台の前の水鏡になる池の仕上げと観客側の簡素な屋根と石の土台だけの東屋を作っている。職人を雇うとはいえ低予算なのだから自分の体を働かせなければ何も進まぬ。特に夏場は手を付けずに放っておけばたちどころに庭は荒れる。ここまで来ると大変なことを始めたものだと一人炎天下で呆然とすることもあるが、わかっている事はとにかく終わりまで行かなければならぬ、と。畑になるはずの広い斜面一帯はススキに似た背の高い草が根を張り当面もう手上げだが、裏庭の舞台周辺に植えた芝や置いた石などは落ち着いてきた。この庭が私たちの活動の拠点になってゆくのだ。日本と言わずブラジルと言わず世界中から未来の仲間たちをここに招きともに語らい体験し私たちの時代の文化を模索したい。そしてここから発信できる何かもきっとあるだろう。こちらに移住して10年間暖めてきた漠然とした夢が、今すこしずつ形になってきていると信じられる限りこの土木作業も続けられると思う。
2003年夏 雨季編稲妻 激しく雷が落ちまくる。ここ数日こらえていた水を一気に搾り出すかのように雨も また降りまくる。この日はこの夏最強の落雷であった。折りしも第2次湾岸戦争の前 夜、あるいは当に始まった頃かもしれない。天空もさぞかし荒れたのか。ここに移っ て間もない2年前はサンパウロ全域で異常に落雷の多い夏であった。アフガニスタン の空爆はかくもこうかと思ったのは僕ばかりではあるまい。ましてここは山の中、雷 様の生息地である。僕は87年に旅先のイランの首都テヘランでイラク軍の空襲を経 験した。イランの人々は壮麗な聖戦のプロパガンダとは裏腹に、疲れ果て悲しむこと すら忘かけ心は灰色だった。その後日本に戻り多摩川の打ち上げ花火をしばらく楽し む気持ちになれなかった。
それにしても雷。鮮烈な閃光に真空が裂け爆発する奴は近くに落ちて恐ろしい。ほ とんど目の前の出来事である。高い上空から積雲を突き崩すように転がり落ち地響き となる奴は、体の芯を振るわす。そのリズムはすばらしく和太鼓や歌舞伎、ハード ロックさてまた格闘技の守護神であろうか。家の中では興奮と一瞬の氷結の時が交錯 し、息子の悠林は血が沸くのを抑えるかのようにじっと外を見つめている。そしてじ つは奴などとは呼び捨てにできぬ、古人が雷様と称した畏怖のような凄みを体の奥で 触れてしまい、僕は為すことなくただウロウロするのだった。 この夏ハイウェイで見た稲妻は夜空に水平に数キロに渡り走った。これが龍か!と おもうと、漆黒の闇に中心から放射状に蜘蛛の巣となて放電し消えたのだった。
石垣造り
世界各地の異常気象が伝えられているが、サンパウロもこの夏は大雨に見舞わ れ、いたるところで水が溢れ土砂崩れや陥没の被害があった。いつも通うハイウェイ でも急に降り出されるとある低い地帯では道路が川に変わり、エンブー市内に入ると もうほとんどジャングルに分け入った様でこちらは全くのサバイバルである。
昨年から続けている庭造りはこの雨のため作業が滞っている。掘り返した土など がだいぶ流されたが、警戒していた削り落とした後の山肌の斜面は、芝を植えたため に持ちこたえている。2月から晴れ間を縫って石垣を作り始めた。ITATUBAという隣 町に採掘から施工までする職人さんをみつけて来てもらう事になった。子供からみれ ばまるでグリム童話に出てくる大男達であるが、こちらの煩い注文をよく聞いてくれ る。削られた斜面の底辺に石を置くことで庭の重心が沈み風格が出てきたようだ。そ れでも日本の茶や禅の庭の石に比べるとその創意や気配りには遠く及ばず、まずはこ んなところかと思う。枕木で縁取った四角い盛り土の舞台もこの雨によく持ちこた え、現在は楕円形の砂舞台の周りを腰掛けられる高さの石垣で囲っているところであ る。
悠林
この6月で5歳になる悠林は3人兄弟の末っ子としてよく生存競争に勝ち抜いてい る。2歳でここへ移ってきたわけだからほとんど山の子で上の2人とは野生味が違 う。それ以前僕らは妻の両親一家と同居していたため静かな高級住宅街に住み、僕も ゆっくり子供達と遊んでやることができた。しかし今はそんな余裕がない。だからこ そなのか、ぼくが家に居る間じゅうピッタリとくっ付いて間になん人をも寄せ付けな い。食事も風呂も一緒なら小便までいっしょ。もちろん夜は同じ布団に入り込みこち らは数冊の本を読まされているうちに根負けして寝てしまう。そして朝はどの子より 早くおきて僕の背中にしっかり飛びついてくる。その驚くべき集注力にはかなわな い。昨年島へ行ったとき炎天下の浜辺で兄の群と半日全く休まず遊び続けていたが、 こちらはもちろんその体力について行けないのだった。
竹や棒切れで武術まがいのことに夢中になるのもこの頃で、我が家でも兄弟間で凄 惨な戦いが繰り広げられていた。戦争はこの時代の特権であろう。しかしそんな彼に も4歳から5歳にかけてどの子にもある幼児から少年への成長の節目が見られる。そ れをいいかげんにやり過ごすと人の痛みを理解できない大人に成ってゆく。大人達の 戦争は正義や利害の見事な理屈に包まれ、たとえ立派に見えたとしても、この時期の 成長を十分成し遂げられなかった未熟で幼い人間の行為であると思えるようになっ た。
いずれは上の二人のように親から離れて仲間たちの輪の中へ入って行くと本能で 知って、さいごの名残を惜しんでいるのはお互い様なのかもしれない。
(エンブーにて 2003年3月 23日記)
春編 (2002年6月―12月) 乾季
雨が降り出した。この数日は午後の4時も過ぎると決まって小雨が通りかかってゆく。今年は8月から12月の初旬までが春と感じられるなだらかな大きな天気の波があったようだ。特に8月、9月には寒の戻りがあり空気の乾燥も強く、舗装されていない道路に車が通ると土ぼこりが舞い上がりしばらく視界を失うほどだった。その頃に風邪を引く人が多く僕も久しぶりに辛い変調をきたした。日中はTシャツで過ごし朝晩はセーターを着込むような天候が、やがて11月に入ると曇り勝ちで雨も多くなり気温は一日を通して安定してくる。草木の枝葉がにわかに伸びて輝き、いつの頃からか蝉があちこちで鳴いているのに気付く。このあたりでは夕暮れ時から夜半に蛍が飛び交い、しばし部屋の明かりを落して子供達と眺めている。この12月はもしかしたら一年で最もすごしやすい時期なのかもしれない。
こちらの人は冬と言うけど僕は長い間そんな季節がこのサンパウロにあるのかと訝っていた。しかしこの6月半ば頃にぐっと冷え込みこれぞ冬という日が2日ほどあった。霜こそ降らなかったが、体の芯から引き締まるような心地よい寒さに震えながら内心よろこんでいたものだ。それからしばらくして、あちらこちらでその昔日本から移植された山桜の花がほころびはじめた。舞台造り
一年を春夏秋冬で分けないとするとこちらの気候は大きく雨季と乾季とに分けられる。おおむね夏は雨季で秋冬春は乾季(5月から10月末ころまで)といえる。それでも年々温暖化と天候不順が合い混ざり暦を読むように自然は変化していないようだ。
この乾季に僕たちは敷地内の裏山の斜面の一角を削り落とし庭を広げ、そこに土盛りをして舞台を造った。舞台正面に向かって幅7m、奥行き10m、高さ90cmほどで外縁は路線の枕木で締め、傾斜のある側面は芝を張り、舞台の表面は赤土を叩いて固めた。正面中央部はこれも枕木で三段の上り口を付け、舞台右側は削り落とした山肌に芝を張った反り立った大面、左側は住居の壁に囲まれていて舞台に立つと気が散らない。こちらの観客側にはこれから東屋を建てる予定ですでに低く土を盛り固めてある。そして現在は舞台と東屋の中間部右側に池とその中央に正方形の物を展示できる台座を掘り出しているところである。整備と掃き掃除に追われ実はまだ2度しか仲間たちと使っていないが、その居心地は格別なものがあり歓びが溢れ出すのを止めようが無いほどだった。
山をも動かす思いと昔の人は言ったものだが山の重みを知ってのことだろう。いざやってみると山の片鱗とてちっとも動きはしなかった。こんな大変なことになろうとは5月にぽちぽち始めた頃には予測が付かなかったものだ。ちょうど2年前にこの家を買った時点では、見晴らしは絶景であるが住居の他には入り口からガレージまで車の通路が舗装されているほか、野外設備というものがまるで無かった。移り住んでから早速ブロック塀を作ってもらい、居間を畳の稽古場に改造してあっというまに資金が尽き庭は放置された。昨年の乾季は車の免許習得のため受験勉強をしていて外は手つかず、唯一草刈とジャリならしで20m×7mほどの楕円形のグラウンドを住居脇にこしらえたのみだった。それで今年こそはと造庭に踏み切った。
舞台造りの構想は家探しの頃から夢としてあったのだが、ここに落ち着いてからも一年半もの間どこに何をしつらえていいやら見当が立たずにいた。以前から何遍となくページを開いては見ていた一枚の写真、それは興福寺の古儀薪能舞台なのだが、ある日こんなものなら自分で作れるのではないかという気がしてきた。ちょっとこの辺の鬱陶しいせり出した山裾を削ぎとってしまえばよいと気楽に思いつき妻も同意してくれた。それはちょうど体の波が変わった時だったのかもしれない。そしてそれからここまで一気に来た。
運よくその頃近所の若い庭師と友だちになり、彼の空いている時間に来て、山の一角を鍬一本で削り落してもらうことになった。おそらく彼との出会いが無ければこのような形で実現しなかったであろう。以前空手をやっていたというその青年とは何故か気が合い、土方作業をとことん共にした。彼は仕事が終わると柔らかい掘り出したばかりの土のボタ山に駆け上がり、頂上から後ろトンボ返りをして着地するのが楽しみで、それを僕にも伝授しようとしきりに稽古を付けてくれるのだった。しかしこちらは半分逃げ腰で未だに身につかないが、それでもセメント捏ねやブロック積みから鍬やスコップ捌きまで見様見まねでいろんな事を習得させてくれた。
しかしそれにしてもだ、誰がどうやってみてもここでの炎天下の野外作業は厳しい。特に11時から3時までの日照りときたら、お互いに止まらぬ汗に顔を見合わせて笑う以外に手立てはなく、ペットボトルの水は瞬く間に飲み干される。日が暮れて風呂を浴び夕食を済ませると消耗しきって身動きひとつままならないような日も珍しくはなかった。
また崩した土を今度は一輪車に積んであちこちに分散させる作業にも難儀した。7月の冬休みには友人達のボランテイアで集注的に作業したがそれで終わるものではなく、毎日高く積みあがったボタ山を眺め、そこは休みの日に子供達が転がり落ちて遊ぶ格好の場になった。9月には疲れが溜まったのか一輪車に土を満載して舞台から駆け降りた際に前につんのめって腰を強く捻り、立ち上がるのに1時間を要し、そのあと丸2日ほど激痛で歩行困難という初めての経験をした。
だがそんな作業も5月から11月半ばの芝張りまででほぼ終了したことになる。今では腰はあの頃よりさらに弾力を得た。そしてこの時期に僕は人生の骨を鍛えることになったのではないかと思っている。
(12月8日エンブーにて)
断末魔の夏から秋の喉笛へ
獣のような夏が去ってゆく。4月に入っても未だ猛暑は続き遂に観測記録史上最高のものになった。街へ出るとギンギンとムカムカの分厚い空気をかき分け、まるで舟を乗り出し蔭の島々に逃れるように歩いていた。11月から2月までほとんど連日小雨が降り続いたというのに3月に入り九天直下炎天に見舞われ、サンパウロ市内でも30度半、リオでは40度をゆうにこえていた。さらには熱帯縞蚊の異常発生に伴いリオだけでも40人以上の死者をだすというまさに殺人的な一夏であった。サンパウロではそこまで緊迫しなかったが、何時終わるとも知れぬ気の長さに人々も挨拶のたびに呆れてみせる。しかしさすがにこの1週間で怪獣も尻尾を見せ始めたのではなかろうか。
山には都会生活から追いやられて行った者達が住んでいる。また人の住み良さを追求した末にそんな所を住み難く感じ離れていった者達もいる。そんな連中はにわかに姿を表したりせずひとまえに晒されるまでの時を稼いだりする。以前から賢治を読むと「風がどうっと吹いてきて」という表現に不可解さをおぼえていた。「どっどど どどうど どどうど どどう」という音の響きがどうして風と取れようか。しかしいまそれが触覚できるような気がしている。それは人に涼しさや寒さを与える風ではない。里から山へ人をさらって行く風の吼える声なのだ。この一夏はまるで「山猫軒」の化け猫に喰われてしまったように時がすぎた。要するに夏バテといってしまえば呆気ないが、街育ちの僕らには草1本、虫1ぴき、けもの1匹、子供一人にもいちいち戸惑い驚き「アアもう勘弁してくれっ!!」と舌を吐きまた気を取り直すのだった。そんなことが平凡な日常に帰してゆく前にその二,三でもお伝えしてみようとおもう。
犬に虫が付くことは誰でも知っているが、それが蚤やダニでなくアブの幼虫などだったらどうだろう。およそ人の小指第一間接くらいの芋虫が皮膚の下に巣食ってしまう。犬は自分では噛み出せず人が肉を摘んで押し出してやらねばならない。うっかり放っておくと抜け出た後にポッカリ穴が空く。やっかいなことには蝿が周囲に卵を産みに来てやがて蛆虫の巣窟を見ることになる。昨年などはそんなことは露と知らず雌犬の性器いっぱいに蛆の池をつくってしまい見つけたときには息が凍った。こいつらは箸で丹念に取ってゆくより手はないが、それでももらって来た塗り薬をすり込んでおくと奥に喰い込んだ奴も弱り取りやすくなる。今年も授乳中にやはり狙われるのか手を焼いた。
庭の草なども油断ならない。草木が萌えるというがここでは「燃える」といったほうがふさわしい。まるで輝く緑の炎が立ちのぼるように気が付くと家を包囲している。藪は蛇や毒蜘蛛を呼び寄せるのでなんとしても刈らねばならない。といっても庭だけでも2000・もあり眺めているだけでずっしり腰が重くなり、また刈ってゆく矢先から切り口が伸びているのではないかという錯覚にかられる。ほんとによく見ていると数枚の葉は風も無いのに捻るように異様に揺れているのだ。きっと成長真っ只中にちがいない。
我が家の猫と犬はそれぞれ4匹子供たちを育てた。成犬あわせて7匹が一時は庭を走り回っていた。人が家から一歩外へ出ると一目算に飛んできて足の踏み場も無いほどの賑やかさ。トロい子犬など悲鳴をあげる。かたや家に戻ると床を子猫たちが駈け回っている。犬の子育ても一見にしかるものだった。6匹うまれたうちの2匹は育たなかった。母犬は子犬の体力が無いとみるや乳すらあたえず顧みないという話は聞いていたが、わざわざ深い穴を数日がかりで掘りそこに捨ててしまった。昨年もそんな穴に子犬がはまりあやまって落ちたと信じていたが、じつは母犬がそこへ落としたのだと知った。落とした後もやはり気になるらしく穴を覗き込んで離れたがらなかったが、だからといって決して助けるわけでもない。十麻が見かねて取り出し2,3日世話をしたがやヘり結局は死んでしまった。とはいえ犬といい猫といい母親は子供達を信じがたいほど細やかに面倒をみて惜しまないものなのだ。
街にいる蟻はダニほどの小粒だがここのはデカイ。そして戸の下の隙間から堂々凱旋してくる。食事のあとなど床にこぼれたものなど放置しておくものなら数時間後そこは蟻の市場と化すが、でもまたデカイだけあり箒で掃けば片がつく。連中の棲家ときたらまた凄い。なにか核シェルターのような直径1mはある土のドームで、表面は恐ろしく硬くかたまり鍬など始め歯が立たない。そんなものを数日で一機に作り上げてしまうのだが出来た時点ではまだ柔らかく、うっかり足を踏み込もうものなら大変な目に会う。以前群がそれをやってしまった事があり大騒ぎとなった。
最後に猛烈な力を発揮しながら成長しているのが我が三人の子供達である。ここに越してきて以来テレビとビデオを置いていない上に夏休み中曇天が続き屋内にこもりがちであったため、壁や扉、小物や機械が次々に壊れていって我が家も混乱した。7歳と3歳になる息子たちの激しい闘争本能は、夕方になると柔道の稽古でも始めたかのように蹴りあい押さえつけ、勝つやいなや舌でなめてやる犬たちと同じであるのが面白い。武術の発生は案外戦のための訓練ではなく、もともとから生き物の闘争的本能の探求だったのかもしれない。そしてマスメディアによって伝えられる戦争激化の様相も大人の理屈を剥がしてゆくと、結局肉マン一個に全力で闘いを挑む息子たちとどこが違うのだろうかと思えてくる。はたして世界の悲惨がこの時期の人間の精神年齢を未だ抜け出していないことから来るのだろうか、そして本能の表われとしてはじつは犬より劣るのではないかと。
子供達の遊びには時に凄い閃きがあって大人たちは彼らから無限に汲み取るものがある。そんな遊びを気晴らしや勉強の余暇と取る向きはその世界に出会っていないからである。遊びの中にある創造力に触れられる時ほど感動的なものもない。子供達の内面にその新芽がキラリと息ついているのを見るのは嬉しいことだ。そして遊びを通して人間形成がなされて行くだろうことは間違いないし、そんなことから大人にとっては遊びの探求が技や芸事、パフォーマンスなのだろうと思えてくる。子供の時代より肉体でも教養でもない内にある大きな力が山の風のように吹いている。恐ろしいものなのか楽しいものなのか知らずとも僕はその声を聞きつづけてゆくだろう。 (02年4月1日から17日にかけて記す)
2001→2002 夏編
クリスマス 2001年12月24日〈月〉
カトリック信者が大半を占めるこの国では、当然ながらクリスマスは一年の節目である。こちらではnatalと呼ばれ文字通り誕生日という意味である。この日は家族親戚一同が会し、共に食事をしたり子供たちにプレゼントを渡したりと何か日本のお正月に近い。しかしこれは私が生活している範囲で知れる事で、多民族、多文化が同居しているブラジルでは押しなべてそうともいえない。知人のインデイオは、彼らにとってクリスマスは無くお正月に家族一同が宴会を催すと話してくれた。ユダヤ系の学校は休日まで一般の日曜日ではないのだからきっとずいぶん違うサイクルで生活しているのだろう。イスラム教、カンノンブレ(アフリカに起源のある宗教)の人たちはどうだろうか。7年もこちらで暮らしているのにそんなことを気にもしてこなかった。さまざまな人たちがそれぞれの一年の節目を迎えるに違いない。
私たちの家族はとりわけクリスチャンというわけでもないし、結婚式や葬式以外に教会を訪れることもないが親戚一同とクリスマスを祝ってきた。その慣わしを拒む理由も無いし親戚の人たちに会うのも楽しい。しかし日本でもそうだがこの国でもクリスマスは概ね商業主義に担ぎ上げられたお祭りの色合いが強い。サンタクロースはデパートや大スーパーマーケットにこそ闊歩しているが貧しい人たちの間では子供が眠っているうちに枕もとに訪れることになっている。私たちの親戚が会したnatalは毎年盛大ではじめはたいそう驚いたものだ。そして前回あたりからサンタクロースが会場となった義兄夫婦の家にやってくる。夜の8時半ころ予告どおりに赤い服と白い顎鬚でおなじみの出で立ちの男が、大袋を担いで現れた。集まった子供たちがはしゃぐのはいうまでも無い。
深夜まで続いた会食を終え帰るときは、交換したプレゼントも合わせて車一杯になる。それでも子供が気に入るおもちゃはそのうちの一つか二つであとは包み直しまたいつか人手に渡ることになる。息子たちはそんなことを喜んでいるようだが、わたし自身は枕もとにささやかなプレゼントを置いていってくれたサンタクロースが懐かしい。
お正月 2002年1月6日(日)
日の出前のひと時、夜がしらみ始めると共に鶏や山鳥たちが一せいに声をあげる。ふだんはそんな音で目がさめるのに、この日は早朝3時ころうちの犬たちのけたたましい鳴き声でおこされた。外の様子をうかがうとどうやら3匹いる犬の一匹がお産したようだ。昨年の2月とこれで2度目になる。暗闇の叢のなかから小さな泣き声がヒーヒーきこえてくるが何も見えない。4時ころ眠っている十麻を起しそれを知らせる。彼女も驚き高揚している。6時頃薄明かりがさして来たとき「私見てくる」といって庭へ出た。僕もつづいて近寄ってみると黒々とした赤ん坊が6匹、母犬に守られ乳を吸っていた。母犬はとても満たされた表情でおとなしく私たちを迎え入れてくれた。
この日は朝まだ陽が高く昇らぬうちに家族5人で散歩に出かけた。先月は小雨の降り続く日々が多く外を歩くことが少なかった。また他にも群の7歳の誕生パーテイ、終業式、クリスマスと大晦日などで人と会うことが多くなにかそんな余裕が無かった。とにかく「サア行こう!」と言ってから門を出るまでが一騒ぎ、また歩き始めてからもそれぞれの興味がべつべつで一向に進まない。まだ舗装されていないジャリ道を散らばりながら歩いているとやがて手を繋ぎたくなってくる。空の青がいつもより深く澄んでいる。しばらく行くとインデイオの道と名のついた細道に着く。ここは1年半まえ初めて訪れた時、そのうっそうとした森の気配に怖気づいたものだ。十麻と群は道端に咲き乱れるホウセンカの実を手のひら一杯に摘んで人に手渡し弾けさせる。悠林はとっくに僕の背に負ぶわれて高い木々の梢にある鳥の巣を見つけている。太い樹の幹の蔭から一匹の野リスが現れた。羽毛のように尾をふくらませ軽やかに駆け回っては枝から枝へ飛び移る。あまり人を怖れずむしろ遊びに出てきているようだ。このあたりには猿も住んでいるというがまだ出会っていない。 帰路に着いて「ああ良かったね、休みの間は毎日お散歩しようね。」とシサが言う。なにか私たちもこの日に新年を迎えたのかもしれない。
嵐 1月8日(火)
昼を過ぎてからにわかに雲が重く垂れ込めやがて激しい落雷を伴った豪雨となった。12月に入り夏らしくなったものの小雨がちであったが今日は強烈である。ゴロゴロと鳴るのは比較的遠いが、閃光と共にバーーンとかドーーンと打つように落ちるのは間近である。一歩も外へは出られない。山の谷あいから薄黒い雲が煙のようにみるみると立ち昇り俄かに細い稲妻が走る。電源の大元を抜き電話の接続を外し窓を締め切って畳の部屋の真中にお手伝いさんと6人で固まって座っている。アフガンの空爆はこんなものだろうか。これからいよいよ盛夏に突入だ。 夕方になっても雲は抜けきらなかったが雨は止んだ。案の定停電になっておりまたもや残った一本の蝋燭を囲んでの夕食となった。私が子供の頃の話をねだられるまま幾つかしているまに、独りで早々眠くなり床に着いてしまった。
2001 初夏編
11月21日 (水)
初雷。この数日長雨も止み快晴に恵まれていたのが、今午後 一声の雷を伴って小雨が降り出した。部屋の窓から眺める向かいの山の斜面には、ほぼ一面に紫と白の花が咲き乱れ壮観である。
12月もまじかになると学校や職場でもいろんな用事が積み重なってくるのは日本でもそうだが、しかしこちらはやがて来るのは真夏のクリスマスと長い休み気分を締めくくる2月のカーニバルである。その巨大な入道雲のように変化に富んだ夏の時間を通り抜けてゆかねば、人々はまた落ち着きを取り戻すことはないだろう。人の心も体も夏に向かっている。今はその関が切って落とされるまえのやや湿気った空気にくたびれた表情がうかがえる。
11月22日(木)
昼過ぎから直線的に突き刺すような眩しい日差しとともにサンパウロ市内の気温はみるみる上昇、照り返しの熱も追い討ちをかけてなかなかのものだがクーラーなどを入れている家やビルはあまりない。日陰に入れば凌げるしそんな必要は感じないからだろう。5時ころブータンタン地区の稽古場にて激しい雷とスコールの襲来にあう。遂に夏だ。関を切って落とした瞬発的な嵐。およそ30分か、そこに居合わせた5人とともに耳を澄まし初夏の雨を聴いた。
11月23日(金)
悠林は3歳半、4歳前後に幼児は大きな節目を迎えるというが彼は今がそんな時機だろう。母体まで辿れる時間の柔らかい殻に包まれていたのを自ら破り出る時がきている。それと引き換えに意識が強く芽生えてくる。本人にとってもそれは何か良く分からない不気味な衝動なのだろうか。ふいに機嫌が悪くなり人をぶったり物を故意に壊したり極端に甘えたりと親としても忙しいが本人はさらに切実なのかもしれない。1歳半頃言葉を話しはじめたときももどかしさからかよく人に噛み付いていた。そんな悠林もまもなく一人前の子どもに成って行く。
11月26日(月)
二クラス受け持ったカトリック大学の後期の授業が終了した。終えると生徒たちから拍手をもらい感動的な一瞬であった。ひとり一人握手とbeijo(挨拶としてのキス)をかわしてなごり惜しむ。
11月27日(火)
午後3時、路上を歩いていると熱気でフっと気が遠くなる。どこまでも広がり膨らみ続ける夏の空。ブータンタンでの稽古。
11月28日(水)雨が走って来る。山の樹の葉に当たる雨しぶきがまるで地響きのように轟き押し寄せてくる。すぐ先の峰に掛かる雲はまだこちらに残る陽に透かされ、一粒一粒の水滴を光らせ風に流され落ちてゆく。それから一分とたたずこの家も雲のカーテンの中にのまれる。庭のバナナの葉は狂ったように翻えりみるみるうちに小道の両脇は渓流と化し小石を洗う音が深い谷あいに落ちて行くよう。峰は濃霧のなかに隠れ辺りは薄暗く屋根から滝が降る。そしてただもう呆然と眺めている矢先からしだいに明るさが戻ってくる。やがて我に返ったように樹の葉は静まり鳥たちが飛び交い青々と萌える山が目の前に聳えている。 停電。やっと見つけ出した蝋燭を一本食卓に立てる。用事を忘れ家族五人がまた一つの家族に返れるひととき。