●<ジハード>  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

●ジハードは、イスラーム教において信徒(ムスリム)の義務とされている行為のひとつ。

ムスリムの主要な義務である五行には含まれないが、五行にこれを加えて「第六番目の行」に加えようという主張もみられる。一般には「聖戦」と訳されているが、単純にそうは訳し切れない面がある。

イスラーム教の教典コーラン(クルアーン)には、例えば「神の道のために努力することに務めよ」というような句が散見される。この中の「努力する」に当たる動詞の語根 jahada がジハードの語源であり、ジハードの語はアラビア語で「ある目標をめざした奮闘、努力」を意味する。この「努力」の語自体に「神聖」あるいは「戦争」の意味はまったく含まれていない。

●二つのジハード

イスラーム学者によって整理されたところによると、ジハードには2種類が存在するという。

個人の内面との戦い。内へのジハード、大ジハードと呼ばれる。

外部の不義との戦い。外へのジハード、小ジハードと呼ばれる。

「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪、不正義と戦って、内面に正義を実現させるための行為のことである。例えば、イスラーム共和制をとるイランでは、「ラマダーン月はジハードの月」などの標語において、緩みがちなムスリムたちの規律を正し、イスラーム共和国の理想を思い起こさせるための行為、との意味で「ジハード」が用いられる。

このようなジハードが「内へのジハード」であり、「小ジハード」である「外へのジハード」以上に優先されなくてはならない「大ジハード」である。もっとも、「内へのジハード」を「大ジハード」として重くみる観念はすべてのムスリムの間に認められているとは言い切れない面があり、実際には、主としてイスラーム神秘主義(スーフィズム)の潮流で非常に好まれてきたものである。

従って、一般に「ジハード」と言った場合は、ほとんどが上の定義に言う「外へのジハード」であるのが実態と言っても差し支えない。

●外へのジハード

一般に「聖戦」と訳されるジハードが、ここでいう「外へのジハード」である。

正統カリフのイスラーム共同体(ウンマ)からイスラーム帝国へと発展していく、イスラーム世界拡大の戦いが落ち着き、イスラーム世界のおおよその範囲が定まっていった8〜10世紀頃に整備されたイスラーム法(シャリーア)は、初期イスラームの拡大戦争を支えたイデオロギーである「外へのジハード」を以下のような観念にまとめた。すなわち、

(外への)ジハードとは、イスラーム世界を拡大あるいは防衛するための行為、戦い

である。イスラーム教とシャリーアの理念においては、世界の理想的な姿はイスラーム共同体の主権が確立され、シャリーアが施行される領域、ダール・アル=イスラーム(直訳すれば「イスラームの家」だが、イスラーム世界のこと)に包摂されていなければならない。しかし、現実には「イスラームの家」の外部には、イスラーム共同体の力が及ばないダール・アル=ハルブ(同じく「戦争の家」だが、イスラームの及ばない世界のこと)が存在するから、「戦争の家」を「イスラームの家」に組み入れるための努力、すなわちジハードを行うことはムスリムの義務とされる。

上の定義から、イスラーム共同体の支配に服さない異教徒に対するジハードは、イスラームの教えに照らせば原則として正しい行為である、という論理が導き出される。イスラーム教がしばしば好戦的な宗教と見られる所以である。しかし、ここで注意しなくてはならないことは、「イスラームの家」を拡大する行為とは単純に武力に訴えた戦争行為ではないことであり、中央アジアや東南アジアのように一種の平和的なジハードにより「イスラームの家」が拡大された場合も少なくないことである。その担い手はこれらの地域に赴いた商人やイスラム神秘主義者(スーフィー)たちであった。また、「イスラームの家」の内側に組み込まれた啓典の民であるユダヤ教徒やキリスト教徒(のちには拡大解釈が行われ、ゾロアスター教徒やヒンドゥー教徒、仏教徒まで啓典の民として扱われるようになる)たちは、イスラムの主権を認めてムスリムの保護民(ジンミー)になることで満足すれば、信仰と一定の自治を認められ、改宗を強制されたり生命を脅かされたりすることはない。

時には、「戦争の家」に住む異教徒たちが、「イスラームの家」に対して戦争を仕掛けてくることもありえるから、このような場合にもイスラーム共同体防衛のためのジハードがムスリムの義務となる。

ジハードに従事するものはムジャーヒドと言う。彼らに対して、神はコーランを通じて「神の道に戦うものは、戦死しても凱旋しても我らがきっと大きな褒美を授けよう」と教え、ジハードで戦死すれば殉教者として最後の審判の後必ず天国に迎えられると約束する。一方で、コーランは「敵に背を向けるものは、たちまち神の怒りを背負い込み、その行く先はジャハンナム(地獄)」であると語り、ジハードの忌避を激しく非難している。

しかし、戦争が神の道を実現するためにふさわしい努力行為、ジハードとして正当な戦争たりうるためには、異教徒がイスラム共同体に対して戦いを挑み、不義をなした場合に限られる、ともコーランは説いており、従って、異教徒たちがイスラム共同体と一時の和平を結び、不義の戦争を停止しようとしているならば、イスラーム共同体の側も異教徒に対する害意を捨てて和平を認めねばならない。この論理にもとづき、イスラーム共同体はイスラームとの戦いを望まず正義を認めている「戦争の家」の諸国とならば、条約を結び外交関係を樹立することができる。

このような理念を持つ「外へのジハード」は、日常においては個々人のムスリムの義務ではなく、全体としてのムスリムの義務であって、個々人のムスリムはジハードを間接的に支援するだけでも良いとされる。もし、ある戦争行為をジハードとして遂行することが必要となった場合は、統治者(カリフやスルタン)はムフティーにその戦争がジハードとして認められるかどうかを諮問しなければならない。その結果、ムフティーが合法であるとするファトワーを発することで、統治者はジハードを宣言し、彼らの統治する個々のムスリムにジハードへの参加義務を課し、彼らをジハードである戦争に動員することが可能となる。

なお、ムスリムであっても、イスラームの信仰に逸脱する信条を抱くようになったものは不信心者(カーフィル)と呼ばれ、「戦争の家」に住む異教徒以上の悪であり、すみやかにジハードによって打倒されなくてはならない者と見なされる。かつてスンナ派のオスマン帝国とシーア派のサファヴィー朝が領土を巡って戦争するときは、お互いを不信心者と決め付けることによってその戦争をジハードと位置付け、戦争の正当性を確保したし、イラン・イラク戦争においてイラン側が世俗主義を標榜するバアス党政権のイラクに対して激しい敵意を抱いたのはこのような思想を背景とする。

さらに過激なものでは、エジプトのジハード団のように、イスラームの教えに則って社会生活を送らない者は全て不信心者であり、テロリズムによって殺害して構わないという解釈をとるものもある。

●ジハードの実際

歴史的に見れば、全イスラーム共同体がジハードの意識を高め、異教徒との戦いにあたったのは、イスラーム世界を侵略し、多くのムスリムを殺害した十字軍が中東に出現した時代に見られるのみである。実際には、ジハードの語は政治的な動機によって引き起こされた個々の戦争をイスラムの名のもとに正当化するための論理として用いられることが多かった。

近代においても大筋においてはその傾向は変わらず、第一次世界大戦のときオスマン帝国が発したジハードの宣言も、インドのムスリムの対英協力やアラブ人の反乱を押し留めることはできなかった。しかしその一方で、19世紀には主にイスラーム世界の辺境である西アフリカ、マグリブ、スーダン、インドや東南アジアで、ジハードを宣言する反植民地主義、反帝国主義の戦いが頻発し、防衛のためのジハードの意識は高まっていったことも事実である。20世紀にはイスラエルの拡大と戦うパレスチナのハマースやソビエト連邦の侵攻と戦うアフガニスタンのムジャーヒディーン運動が盛り上がるが、これらの根底には近代ムスリムの侵略に対する抵抗運動としての防衛ジハードの思想との共通性を見出すことができる。

近年には、政治的な動機による戦争の正当化や、過激派のテロリズムを正当化する標語として、ジハードの語がきわめて頻繁に用いられ、本来ジハードの宣言を行う資格のない者がジハードを唱える局面が増えつつある。しかし、ジハードを標榜する政治家やテロリストの言葉がある程度のムスリムの人々をひきつけているのは事実として認められる。これは、欧米が支援する(と少なくともムスリムは考えている)イスラエルが、パレスチナのムスリムたちを追いやり、弾圧していることや、アメリカの空爆がアフガニスタンやイラクの独裁政権のみならず、ムスリム民衆たちまでをも死に追いやっているという現実に対し、侵略される側の者としての怒りの意識を多くのムスリムが共有しているために、「いまこそがイスラーム共同体を防衛するためジハードを行うべきときである」という政治家やテロリストたちの言葉に、彼らが多かれ少なかれ共感を抱くからに他ならない。

●ジハードのイメージ

日本においては、聖戦という訳が与えられるジハードという語には、ジハードとは異教徒に武力によって改宗を迫る行為(いわゆる「コーランか剣か」・「右手にコーラン、左手に剣」)であるとするステレオタイプの認識がつきまとうようである(正確には、「コーランか"貢納"か剣か」である)。しかし、それはイスラーム帝国の拡大や十字軍に対する抵抗の歴史を読み誤ったキリスト教徒の人々の誤解から始まったと言ってよく、認識は改められつつある。

しかし同時に、近年のオサマ・ビンラディンによるアメリカ同時多発テロや、サッダーム・フセインによるイラク戦争のジハード宣言は、粗暴なムスリムの過激な聖戦というイメージを改めて日本の社会に植え付けつつあるように思われる。

また、一種のオリエンタリズムではあろうが、中東とヨーロッパの接触と衝突の歴史あるいはイスラーム過激派のアンダーグラウンドなイメージを想起させる、ロマンティックかつエスニックなキーワードとして、ジハードという言葉が独特の人気を集めることがあるようであり、小説などの作品の題やロックバンドの名前、ファンタジーゲームのキャラクタ等の名前、競走馬の名前(エアジハード)として用いられることがある。

   ●<聖なる戦い─ジハード>

ジハードとは、イスラム教徒による異教徒への戦いをさす言葉である。一般に「聖戦」と訳されるが、アラビア語本来の意味は「定まった目的のある努力」である。アラブ人のジハードは、マホメットの死(632年)の翌年から始まり、「爆発」ともいうべき膨張を行った。その原動力は何だったのだろうか。

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アラブ=ムスリムは征服の際「コーランか剣か」、つまりイスラム軍は相手に「ムスリムになるか、それとも戦うか」と二者択一を迫ったと言われてきた。アラブ遊牧民の古くからの略奪本能が、イスラムの狂信性に裏づけられジハードのエネルギーになったというのである。だが、これは誤りである。

彼らは実際には「貢納か」の選択肢を用意した。そして戦いよりも相手が降伏し貢納を納めるのを望んだ。しかも、アラブ人は税額を従来より低くした。アラブが被征服地において、解放者として迎えられた理由の一つといえる。

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◆正統カリフ時代(632〜661)のジハード

マホメットの死後、アブー=バクル(マホメットの愛妻アイーシャの父親)・ウマル・ウスマーン・アリー(マホメットの末娘ファーティマの夫)と4人の“正統カリフ”が続く。正統カリフ時代の30年間に、ムスリムは征服に次ぐ征服を行った。この時代の国家目的は、領土の拡大と税収入にあった。アラブの貧困を救うことがジハードの目的であったのだ。ジハードは、理念としてはイスラムが全世界を包摂するまで続けられなければならない。偶像崇拝者や多神教徒は、彼らが改宗するまでジハードの対象であった。

◆ウマイヤ朝時代(661〜750)のジハード

アリーの暗殺後、ウマイヤ朝が成立する。

ウマイヤ朝は、内乱・分裂・カリフの暗殺など争乱が相次いだ。しかし、その一方で、いや、内乱が続発したからこそなお一層、アラブ民族のエネルギーは外へと向けられていった。

ジハードは続き、やがてイスラム史上最大の領土をもつようになる。西はイベリア半島から北アフリカ、東はインダス川まで達する広大な領土である。それは「アラブ帝国」と呼ばれる。アラブ人だけが、特権をもっていた帝国だからだ。被征服地の異教徒のうち、キリスト教徒・ユダヤ教徒・ゾロアスター教徒は、啓典の民と呼ばれ(のちには仏教徒・ヒンドゥー教徒も加えられる)、比較的優遇された。しかし、いずれにしても異教徒は、自分たちの自治と信仰を守るためにジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を納めねばならなかった。これを逃れるためにイスラムに改宗しても、アラブ人は彼らを平等に扱おうとはしなかった。相変わらず貢納の義務が課せられ、ほぼ生産物の半分の重税を納めなければならない。「非アラブ人」はあくまでも「非アラブ人」だったのだ。しかし、被征服民のあいだにイスラムとアラビア語が浸透していくと、アラブ=支配者という構造も徐々に崩壊していく。

非アラブイスラム教徒の急速な増加とともに、イスラムは、世界宗教となっていったのである。

◆アッバース朝(750〜1258)時代のジハード

アッバース朝は、その成立の際、イラン人勢力を利用したことに象徴されるように、アラブ人だけが特権的地位を独占することはしだいになくなり、イスラムに改宗した非アラブ人も、同等の扱いを受けるようになった。征服地に土地をもつ者すべてにハラージュが課せられ、すべてのイスラム教徒からジズヤを免除した。したがって、アッバース朝時代に初めて、

「イスラム帝国」が樹立されたといってよい。イスラムの拡張は落ち着き、ジハードによる武力征服も収まった。しかし、イスラム帝国アッバース朝はやがて、かつて被征服民だったイラン人やトルコ人が次々とうちたてるイスラム王朝の成立によって分裂していくのである。