般若心経へ

般 若 心 経
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『般若心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』は、日本では天台宗・真言宗・臨済宗・曹洞宗・浄土宗などで広く読まれるお経です。

◆漢訳  (玄奘三蔵訳を元にした流布本)

  ぶっせつ ま か はんにゃは ら  み た しんぎょう
 仏説摩訶般若波羅蜜多心経

かん  じ  ざい  ぼ  さつ    ぎょう じん はん  にゃ  は  ら  みっ  た  じ   しょう けん  ご  うん  かい  くう

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
 ど  いっ  さい  く  やく    しゃ  り  し      しき  ふ  い  くう      くう  ふ  い  しき      しき  そく  ぜ  くう
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
 くう そく ぜ  しき     じゅ  そう ぎょう しき  やく  ぶ  にょ  ぜ      しゃ  り  し      ぜ  しょ ほう  くう そう
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
 ふ  しょう ふ  めつ    ふ  く   ふ じょう     ふ  ぞう  ふ  げん    ぜ  こ  くう ちゅう
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 
 む  しき    む  じゅ そう ぎょう しき   む  げん  に  び  ぜっ  しん  い     む  しき しょう こう  み  そく  ほう
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
 む  げん かい   ない  し   む  い  しき  かい   む   む みょう やく     む  む みょう じん
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
 ない  し  む  ろう  し   やく  む  ろう  し  じん     む  く しゅう めつ どう     む  ち  やく  む  とく
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
 い   む  しょ とく  こ     ぼ  だい さつ  た     え  はん  にゃ は  ら  みっ  た  こ
以無所得故 菩提薩gaiji2.gif (297 バイト) 依般若波羅蜜多故 
 しん  む  けい  げ  む  けい  げ  こ      む  う  く  ふ     おん  り  いっ  さい てん  どう  む  そう
心無gaiji1.gif (264 バイト)礙 無gaiji1.gif (264 バイト)礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
 くう ぎょう ね  はん   さん  ぜ  しょ  ぶつ    え  はん  にゃ  は  ら  みっ  た   こ
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
 とく あの  く  た   ら  さん みゃく さん  ぼ  だい   こ  ち  はん  にゃ  は  ら  みっ  た
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
 ぜ  だい  じん しゅ   ぜ  だい みょう しゅ    ぜ  む  じょう しゅ   ぜ  む  とう どう  しゅ
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
 のう  じょ いっ  さい  く     しん  じつ  ふ  こ     こ  せつ  はん  にゃ  は  ら  みっ  た  しゅ
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
 そく  せつ  しゅ わっ   ぎゃ  てい   ぎゃ てい    は  ら  ぎゃ てい    は  ら  そう ぎゃ てい
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
 ぼ  じ   そ  わ  か    はん  にゃ しん ぎょう
菩提薩婆訶 般若心経 

※宗派によって読み方などが異なります。正しくは菩提寺にお尋ねください。


◆和訳

* 上記玄奘訳を元に、仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳しました。ただし、玄奘訳で欠けている部分の大筋などを「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(
青字部分)。また、分かりやすくするため説明を付加しました(緑字部分)。

 私はこのように聞いています。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、連想、思考という一連の知覚を構成する5つの要素(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」 それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。

 「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体のないものを本当にある物のように思っているのです。体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、実体がないというあり方が体の真実の姿なのです。これは体だけでなく感覚やイメージ、連想や思考も同じです。(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません。)
 シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。目に映る世界から、心の世界まですべてありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません。)迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。)苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。)知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。
 このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
 過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。

 ですから知らないといけません。“智慧の完成”は大いなる真言(呪文)、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除くものであり、偽りがないので確実に効果のあるものなのです。さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りをもたらしたまえ。)

 シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」
 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。

 以上で“智慧の完成”の真言(真髄)の教えを終わります。


◆『般若心経』とは?

 『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。
 「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言いますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。
 「フリダヤ」は直訳すると「心臓」ですが、「真髄」や「真言」という意味で使われます。「真髄」という意味だと解釈する説と、「真言」という意味だと解釈する説がありますが、どちらだろうかと考える必要はありません。なぜなら、経典の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の真髄は真言である」ということだからです。『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。実際、鳩摩羅什をはじめ多くの人が「真言」と解釈して訳しています。ちなみに「真言」という言葉で漢訳されていないのは、この時代には「マントラ」を「真言」と訳すことがまだ定まっていなかったからです。

 『般若心経』は、全600巻という膨大な量の『大般若経』から、いくつかの文章を抜き出して独自の解釈でまとめたものです。ですが、『般若心経』は観自在菩薩が「般若波羅蜜多」の真言を説くという点で特殊です。
 日本で一般的に知られている『般若心経』は、西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵が翻訳したものである言われていますが、鳩摩羅什の翻訳とほとんど同じでもあり、確かではありません。
 玄奘が訳した『般若心経』は「小本」と呼ばれる版ですが、これよりやや長い完全版の「大本」という版もあります。 「小本」には観自在菩薩の説法だけが抜き出されていますが、「大本」には経典の物語の基本設定に当たる部分(上の訳の最初と最後の青字の部分にその大筋を訳しています)が書かれています。この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。

  『般若心経』は修行法について説いています。お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想(観=ヴィパッサナー瞑想)で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。
 仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッサナー)」と呼びます。「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。
  『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でていると考えられる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。
 仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始まりとも言われています。
  以下に「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。この2つを説明しましょう。

◆「空」の思想

 『般若心経』が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の思想です。つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中ですべてを「空」であると洞察するのです。
 『般若心経』が次々と数え上げながら、「空」である、「無い」と否定しているのは、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」など、お釈迦様が説かれたとされる仏教の中心的な教説、教説で使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。
 小乗仏教はお経を解釈しながら、世の中のあらゆるものを細かく分析して、真に存在するものを「法」としました。そして、観の瞑想によって「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」は無常なもので、したがって執着することは苦であり、どこにも私はないのだという智慧を得て、煩悩をなくすことで悟りが得られるとしました。そして、「法」は、悟りと関係した清いものであったり、煩悩と関係した汚れたものであったり、また、生じてはすぐに滅するものだなどと考えました。これら小乗仏教の思想は「アビダルマ論」と呼ばれます。
 しかし、大乗仏教は、小乗仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、これらを実体のように考えていると批判しました。(当時、大乗仏教が批判の対象にしていたのは、小乗仏教の中でも主に「説一切有部」と呼ばれる宗派であり、その後、東南アジアで主流となっている「上座部」とは違います。) 『般若心経』は、小乗仏教の「アビダルマ論」を知っている人を対象にして、「法」も含めてすべてのものは「空」であって、もともと真実に存在しているものではないのだから、生まれることも、滅することも、汚れているということも、清らかであるということもないのだと、一つ一つ批判しているのです。
 『般若心経』は決して「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではなく、これら「法」を実体視することを否定しているのです。そして、この「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いています。

 一連の「空」の説法の中でも最も重要なのは、完全版が最初に観自在菩薩が見極めた内容だと語る「五蘊」の「空」です。玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されていますが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれています。つまり、お釈迦様が悟られた五蘊説をまず認め、次にそれを実体と見ることを否定しています。五蘊説は「無我」を説く仏教の基本的な教義で、これを理解することが『般若心経』を理解する基本になりますので、長い付加的な説明をつけて訳しました。
 また、玄奘訳に「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という有名な一節がありますが、サンスクリット原典などにはこの前に「色性是空 空性是色」と訳される部分があって、本来は三段階の説明でした。同じ内容を少し違った表現で3回繰り返しているだけかもしれませんが、「空」を説明する場合に、まず実体的な見方を否定し、次にそれを相対的に認めることで何も存在しないとう極端な考え方を否定し、最後にそのどちらにも片寄らない中立の立場に立つ、というように3段階で説明をする伝統もあります。上の和訳ではこのことを意識して訳しています。

◆「真言」の修行法

 『般若心経』で述べられている「空」の思想は、思想として勉強するためのものではなく、「観」の瞑想をするための指針です。つまり、小乗仏教では「アビダルマ論」に沿って「観」の瞑想を行うのに対して、『般若心経』では「空」の思想に沿って「観」の瞑想を行うのです。
 『般若心経』は後半部で「真言(呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。具体的な説明はしていませんが、「般若波羅蜜多」の修行は「真言」を繰り返し唱える「念誦法」と呼ばれる方法で行う修行なのです。しかし、「真言」を唱えるからといって密教ではありません。
 智慧を得て解脱するためには「観」の瞑想を行うのですが、深い智慧を得るためには、まず、何か一つのものだけに集中し続けて、言葉による認識のない状態でその対象との一体化を目指す「止」の瞑想が必要なのです。小乗仏教でも、まず、呼吸など40種類の対象(四十業処)に集中する「止」を行ってから「観」に移ります。「止」を行う際、集中する対象を指す言葉を繰り返し唱えながらその対象に集中することもあります。例えば、呼吸に集中する場合は、「息を吸った、息を吐いた」と繰り返し唱えます。
 これに対して『般若心経』が説いている「般若波羅蜜多」の瞑想法は、「真言」を繰り返して唱えてそれ自身に集中する方法でしょう。まず、「真言」を唱えながら心を「真言」に集中し一体化します。その後、おそらく「真言」を唱え続けながらも、自分が体験していることや外界の存在などの現実を対象にして観察します。日常的な主観を排除して、『般若心経』で述べられている「空」の教説に沿って、自分がそれらに対して妄想や執着を持っているけれども、実際にはそれらが存在しないこと、つまり、「法」も含めてすべては「空」であると理解します。十分に分析をし尽くすと、やがては言葉で認識しようとすることがなくなり、直観的にあるがままを認識する「空」の智慧が生じます。

◆真言の意味

 一般に「真言」は日常の言葉とは異なっていることが望ましく、言葉の響きが重要とされます。そのため、『般若心経』の「真言」も音訳されることが多く、上の訳では、インドの原典の発音をカタカナにしました。といっても、「真言」は、それをただ唱えれば何かがかなえられるという魔法の言葉ではありません。本来、「真言」は経典や仏の智慧を心の中に呼び起こすための言葉です。その意味や智慧を理解する努力なしには意味のないものです。
 『般若心経』の「真言」は正規のサンスクリット語ではなく、その意味がはっきり分らないのですが、「ガテー」は「行く」という言葉の過去受動分詞、女性単数の呼格と思われるので、『般若心経』のテーマである悟りをもたらす(彼岸に行く)女性名詞の「智慧」へ呼びかけているのでしょう。つまり、 『般若心経』の「真言」は「智慧よ悟りをもたらし給え」という内容であり、修行の目標そのものを意味しています。
 そして、過去にも菩薩達がこの「真言」を唱えた結果、実際に智慧を完成させて悟りを得て目標を達したのだから、この「真言」はその言葉の内容を実現する力がある真実のものであるということになります。ですから、「般若波羅蜜多」の修行の真髄は「真言」であり、「般若波羅蜜多」は「真言」のように目標を実現する力があるというのが 『般若心経』の主張なのです。

 「智慧」はインドの言葉では女性名詞であり、「智慧」によって仏が生まれるということから、『大般若経』では「般若波羅蜜多は諸仏の母」と書かれ、後に密教に時代になると、「般若仏母」と呼ばれる女性の仏であると考えられるようになりました。『般若心経』にも「智慧」を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのかもしれません。
 当時のインドはヘレニズム文化圏の東端にあり、ギリシャ、イラン(ペルシャ)系の王朝が次々と支配し、その文化の影響を受けていました。仏像が生まれたのはギリシャ彫刻の影響ですし、救いや光の性質を持ったたくさんの仏・菩薩が生まれたのはイランの神々の影響です。当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な「智慧の女神」に対する信仰が広がっていましたので、『般若心経』にもその影響があったのではないでしょうか? ギリシャの智慧の女神ソフィアの影響を受けて、イランでは河の女神アナーヒターが智慧の女神となりました。アナーヒターは観音菩薩の誕生にも影響を与えたと言われています。

◆読経と写経

 『般若心経』は「真言」の念誦について説いていますが、『般若心経』の「読経(読誦)」や「写経」については何も語っていません。しかし、『般若心経』は明らかに読経しやすいことを配慮して翻訳されています。
 小乗仏教では寺院に多額に相当する布施をすることが功徳とされましたが、大乗仏教では一般民衆を対象に布教していましたので、多額のお布施よりも「読経」や「写経」をすることが功徳になるとしました。
 「読経」や「写経」は心を集中させることができますし、仏教の教えに心を向けることで邪念を避けることができるのは間違いないでしょう。

<from “http://www.e-sogi.com/arekore/kyo1.html”2008/05/26>

 

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