蘇東坡



    春宵 

  春宵一刻値千金 (しゅんしょういっこくあたいせんきん)
  花有清香月有陰 (はなにせいかあり、つきにかげあり)
  歌管樓臺聲細細 (かかんのろうだいこえさいさい)
  鞦韆院落夜沈沈 (しゅうせんいんらくよるちんちん)

    --蘇東坡

  春宵は、春の「夕暮れ」とするより「夜」とすべきだろう。日本語に訳すると、こんなかんじだろうか・・・

  春夜 

  春の夜の一刻は
  千金に値する
  花の香
  おぼろな月
  歌と管弦を奏でていた楼台も
  今はひっそりとしている
  鞦韆(ぶらんこ)のある中庭に
  人影はなく
  夜はひっそりと更けててゆく

  春の夜。喧噪から離れて独り逍遙(しょうよう)する。花の香りと月を愛で、更けてゆく夜を感じる・・・
  そんな詩だ。さて、もうしばらくすると桜の季節だ。蘇東坡に習って、桜の下を夜の散歩と洒落ようか。


蘇軾(字・子瞻) (1036-1101)号は東坡居士。眉山の人。21歳のときに父洵に従って弟轍と共に上京し、翌年進士に及第して文名一時にあがった。中年以降は王安石の新法に反対したため中央を終われて地方の知事を歴任、神宗に代わって哲宗が即位したときに一時中央に呼び戻されて翰林学士から兵部尚書、礼部尚書になったが、59歳のときに再び失脚して海南島に流される。後に赦されて帰還する途中病死、文忠と謚された。 --------------------------------------------------------------------------------  蘇軾は言うまでもなく宋代第一の詩人ですが、父の蘇洵、弟の蘇轍も傑出した文章家であわせて三蘇と称せられ、いわゆる唐宋八家の列に入っています。 この詩の最初の句はよく知られていますが、制作年は不明とのことです。 --------------------------------------------------------------------------------   春宵一刻値千金   花有清香月有陰   歌管樓臺聲細細   鞦韆院落夜沈沈 蘇軾 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 蘇軾蘇軾(そしょく 景祐3年12月19日(1037年1月8日) - 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日)は中国北宋代の政治家、詩人、書家。号は東坡居士。蘇東坡(そとうば)と呼ばれることが多い。字は子瞻(しせん)。唐宋八大家の一人。蘇洵の長子であり、弟の蘇轍とともにそれぞれ大蘇、小蘇とも称される。 眉州眉山(四川省眉山市)出身。1057年に進士となり、地方官を歴任後、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗期に王安石の新法に反対して左遷され、再び地方官を歴任する。更に1079年に詩文で政治を誹謗したと讒言を受け、投獄された後に黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。名作『赤壁賦』(二つあるので前赤壁賦と後赤壁賦とも呼ばれる)が作られたのは、この黄州時代のことである。しかし蘇軾が詠んだ赤壁は、三国時代の実際の古戦場ではなかった(彼自身もそのことは承知の上だったらしい)。そのために現在では蘇軾が赤壁賦を詠んだ所は文赤壁、戦場の方を武赤壁と呼んでいる。 1085年に神宗が死去し、哲宗が即位し、旧法派が復権すると蘇軾も中央に復帰する事が出来た。だが、新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争した事から旧法派の内部でも孤立する。更に1094年に再び新法派が力を持ち、蘇軾は再び左遷され恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。 蘇軾は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』に纏められている。 現在中華料理のポピュラーな品目である東坡肉(トンポウロウ)は、彼が黄州へ左遷させられた際に豚肉料理について詠じた詩からつけられたという(自ら料理したとも言われる)。