Googleの不戦条約検索結果 約 16,400 件もある
ここでは全文記載のサイトとウィキペデアの解説を
載せることとした。

(パリ)不戦条約
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/fusennjyouyaku.htm


1929 (昭和4)年7月25日 条約第1号
1929 (昭和4)年7月24日発効(昭和4年 外務省告示第64号)


戰爭抛棄ニ關スル條約


朕樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ昭和3年8月27日巴里ニ於テ帝國全權委員ガ關係各國全權委員ト共ニ署名調印シ第一條中ノ字句ニ關シ昭和4年6月27日附ヲ以テ帝國政府ガ宣言スル所アリタル戰爭抛棄ニ關スル條約ヲ右帝國政府ノ宣言ヲ存シテ批准シ茲ニ右帝國政府ノ宣言ト共ニ之ヲ公布セシム

独逸國大統領、亜米利加合衆國大統領、白耳義國皇帝陛下、仏蘭西共和國大統領、「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下、伊太利國皇帝陛下、日本國皇帝陛下、波蘭共和國大統領、「チェッコスロヴァキア」共和國大統領ハ
 人類ノ福祉ヲ増進スベキ其ノ厳肅ナル責務ヲ深ク感銘シ
 其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ關係ヲ永久ナラシメンガ爲國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ率直ニ抛棄スベキ時期ノ到来セルコトヲ確信シ
 其ノ相互關係ニ於ケル一切ノ變更ハ平和的手段ニ依リテノミ之ヲ求ムベク又平和的ニシテ秩序アル手續ノ結果タルベキコト及今後戰爭ニ訴ヘテ國家ノ利益ヲ増進セントスル署名國ハ本條約ノ供与スル利益ヲ拒否セラルベキモノナルコトヲ確信シ
 其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ國ガ此ノ人道的努力ニ参加シ且本條約ノ實施後速ニ加入スルコトニ依リテ其ノ人民ヲシテ本條約ノ規定スル恩澤ニ浴セシメ、以テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸國ヲ結合センコトヲ希望シ
 茲ニ條約ヲ締結スルコトニ決シ之ガ爲左ノ如ク其ノ全權委員ヲ任命セリ



独逸國大統領
   外務大臣「ドクトル、グスタフ、ストレーゼマン」
亜米利加合衆國大統領
   國務長官「フランク、ビー、ケロッグ」
白耳義國皇帝陛下
   外務大臣兼國務大臣「ポール、イーマンス」
仏蘭西共和國大統領
   外務大臣「アリスティード、ブリアン」
「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下
「グレート、ブリテン」及北部「アイルランド」並ニ國際聯盟ノ個個ノ聯盟國ニ非ザル英帝國ノ一切ノ部分
   「ランカスター」公領尚書外務大臣代理「ロード、クッシェンダン」
加奈陀
   總理大臣兼外務大臣「ウイリアム、ライオン、マッケンジー、キング」
「オーストラリア」聯邦
   聯邦内閣員「アレグザンダー、ジョン、マックラックラン」
「ニュー、ジーランド
   「グレート、ブリテン」駐在「ニュー、ジーランド」高級委員「サー、クリストファー、ジェームス、パール」
南阿弗利加聯邦
   「グレート、ブリテン」駐在南阿弗利加聯邦高級委員「ヤコブス、ステファヌス、スミット」 「アイルランド」自由國
   内閣議長「ウイリアム、トーマス、コスグレーヴ」
印度
   「ランカスター」公領尚書外務大臣代理「ロード、クッシェンダン」 伊太利皇帝陛下
   仏蘭西國駐剳伊太利國特命全權大使伯爵「ガエタノ、マンゾニ」
日本國皇帝陛下
   樞密顧問官伯爵内田康哉
波蘭共和國大統領
   外務大臣「アー、ザレスキー」
「チェッコスロヴァキア」共和國大統領
   外務大臣「ドクトル、エドゥアルド、ベネシュ」

 因テ各全權委員ハ互イニ其ノ全權委任状ヲ示シ之ガ良好妥當ナルヲ認メタル後左ノ諸條ヲ協定セリ


----------------------------------------------------------------------


第1條

 締約國ハ國際紛争解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳肅ニ宣言ス


第2條

 締約國ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス


第3條

 本條約ハ前文ニ掲ゲラルル締約國ニ依リ各自ノ憲法上ノ用件ニ従ヒ批准セラルベク且各國ノ批准書ガ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約國間ニ實施セラルベシ

 本條約ハ前項ニ定ムル所ニ依リ實施セラルトキハ世界ノ他ノ一切ノ國ノ加入ノ爲必要ナル間開キ置カルベシ一國ノ加入ヲ證スル各文書ハ「ワシントン」ニ於テ寄託セラルベク本條約ハ右寄託ノ時ヨリ直ニ該加入國ト本條約ノ他ノ當事國トノ間ニ實施セラルベシ

 亜米利加合衆國政府ハ前文ニ掲ゲラルル各國政府及ビ爾後本條約ニ加入スル各國政府ニ対シ本條約及一切ノ批准書又ハ加入書ノ認證謄本ヲ交付スルノ義務ヲ有ス亜米利加合衆國政府ハ各批准書又ハ加入書ガ同國政府ニ寄託アリタルトキハ直ニ右諸國政府ニ電報ヲ以テ通告スルノ義務ヲ有ス


----------------------------------------------------------------------


右證據トシテ各全權委員ハ仏蘭西語及英吉利語ヲ以テ作成セラレ両本文共ニ同等ノ効力ヲ有スル本條約ニ署名調印セリ
 1928年8月27日巴里ニ於テ作成ス


(全權委員署名省略)


宣言


帝國政府ハ1928年8月27日巴里ニ於テ署名セラレタル戰爭抛棄ニ關スル條約第1條中ノ「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於イテ」ナル字句ハ帝國憲法ノ條章ヨリ観テ日本國ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス

昭和4年6月27日





不戦条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


不戦条約(ふせんじょうやく)(「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を抛棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、フランス、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官ケロッグと、フランスの外務大臣ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約とも言う。

 不戦条約は、期限が明記されていないため、今日においても国際法として有効であるとされる。もっとも、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないためその実効性は乏しい。

 当時、日本は田中義一内閣で、山東出兵や張作霖暗殺事件などの中国での武力行使に諸外国の批判が高まっていたことから、全権として元外相内田康哉を参加させて調印した。しかし調印にあたって日本国内では、その第1条が「人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言」するとされていることから、枢密院や右翼から大日本帝国憲法の天皇大権に違反するとする批判を生じ、新聞でも賛否両論が起こった。そのため外務省はアメリカに修正を申し入れたが、修正には応じられず、人民のために宣言すると解釈するとする回答を得たに止まったので、日本政府は、昭和4年6月27日、「帝国政府宣言書」で、該当字句は日本には適用しないことを宣言した。実際に批准されたのは田中内閣総辞職後の同年7月24日であった。その後、日本の起こした満州事変についても日本側は自衛のための措置としたが、諸外国を納得させることは出来ず、国際連盟で非難決議があり、日本の国際連盟脱退に至った。

 日本国憲法における三大原則のひとつである平和主義の淵源になったとして、この不戦条約と日本国憲法との関連を指摘する論者も多い。