● 池大雅 1723〜1776 享保8〜安永5


江戸中期の文人画家。梢園南海や柳沢淇園,彭城百川(さかきひやくせん)らのあとを受けて日本の文人画を大成した画家の一人。幼名を又次郎,のちに勤,耕,無名などと改め,字は公敏,子職,貨成などといった。大雅堂,待賈堂,九霞山樵,三岳道者,霞樵,玉海,竹居,子井,鳧滸釣叟などの号がある。

京都西陣に生まれたと推定される。父池野嘉左衛門は京両替町の銀座役人中村氏の下役であったが,大雅4歳のとき死去,母と2人で住む。

6歳の年,知恩院古門前袋町に移住,ここで香月茅庵に漢文の素読,7歳の年に川端檀王寺内の清光院一井に書道を学ぶ。また同年黄檗山万福寺に上り,第12世山主であった杲堂(こうどう)禅師や丈持大梅和尚の前で大字を書し〈7歳の神童〉と賞される。母子家庭ではあったが環境に恵まれ,万福寺への参内では異国情緒に接するなど,若年のころから文人的教養が植え付けられた。

15歳の年にはすでに待賈堂,袖亀堂などと号して扇屋を構え,扇子に絵を描いて生計を立てていた。大雅の画家としての天賦の才を見いだしたのは柳里恭(柳沢淇園)である。

20歳代の前半には文人画家として《渭城柳色図》などの本格的な絵をのこし,20歳代後半には真景図や中国画の学習において,前半生における一つの完成の域をみる。一方このころから富士,白山,立山から松島へ,さらには吉野,熊野などに,修験者を思わせるような旅をするが,こうした旅と,各地に居て幅広い文化の層の中心を形づくっていた素封家の存在が,大雅の人生と芸術を支えていたものと思われる。また高芙蓉,韓天寿の知己を得たことも彼が文人として成長する上に大きな影響を与えた。

大雅の絵が当時の画壇にあって革新的な意味をもったのは,なんといっても絵画空間の活性化にあった。狩野派,土佐派といった当時の官画系絵画にあっては,表現の形骸化が顕著であったが,大雅の弟子桑山玉洲は,大雅の絵の生き生きとした空間感覚やリアリティに富む表現はなによりも実景をよく学んだことによると指摘している。

当時の画家たちの多くがたどったように,官画系画家への入門,そして中国から舶載された版本類の研究や指頭画の試みなどによって獲得したものを統一ある活性化へと導いたのは実景のもつリアリティへの志向であり,それは彼の旅と深くかかわっていたと思われる。

40歳代前半の制作と思われる高野山遍照光院の朕絵《人物山水図》は,堅固な構築的構図,しっかりとした遠近法の中に描 出された深々たる空間,一点一画のゆるぎない筆致や統一ある色感によって大雅様式の完成を示している。

そのほかにも《十便図》(川端康成記念会),《楼閣山水図》(東京国立博物館)など主要作品は枚挙にいとまがないが,書家としての大雅もみのがすことはできない。流麗な中に堅牢な構築性を示す独特の書は,江戸書道史上有数のものである。

また大雅の妻池玉瀾(1728‐84)も閨秀(けいしゆう)画家として著名で,大雅の教えを受けながらも,その感性豊かな女性特有の柔和な様式は大いに人気を得た。 佐々木 丞平

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