● 松尾芭蕉 1644〜1694 正保1〜元禄7
江戸前期の俳人。姓名は松尾宗房。俳号は,はじめ宗房を用い,江戸に下って桃青(とうせい)と号した。別号は,立机(りつき)後に坐興庵,栩々斎(くくさい),花桃夭(かとうよう),華桃園など,深川退隠後に泊船堂,芭蕉翁,芭蕉洞,芭蕉庵,風羅坊など。好んで,はせを,芭蕉とも署名した。
伊賀上野(現,三重県上野市)の城東,赤坂の農人町に生まれ,元禄7年10月12日に大坂で客死,遺言によって近江の粟津義仲寺に葬られた。
[係累] 父与左衛門は伊賀阿拝郡柘植(つげ)郷の人で上野に世帯をかまえた。その本家は平家末流の土豪の一支族で無足人(むそくにん)級の家柄。母は伊賀名張(なばり)の人と伝える。兄半左衛門のほかに1姉3妹がある。妻子はなかったが,〈猶子(ゆうし)〉桃印(とういん)(1661‐93)を江戸に引き取り,その没後は〈若き時の妾〉と伝える寿貞の子二郎兵衛を最後まで身辺に置いた。
[閲歴] 10代末から俳諧に手をそめ,最初の入集は1664年(寛文4)。当時,藤堂藩伊賀付士大将家の嫡男藤堂宙吟(せんぎん)(1642‐66)の連衆として季吟系の貞門俳諧に遊んだが,宙吟の死で出仕の望みを失い,俳諧師を志し,72年宗房判の三
十番句合《貝おほひ》を携えて江戸に下った。
ただし,江戸に定住して活躍を始めたのは,74年(延宝2)に上京して北村季吟から《埋木(うもれぎ)》の伝授を受けた後と推定される。
はじめ高野幽山の執筆(しゆひつ)となって磐城平藩主内藤風虎の江戸邸に出入りし,常連の信章(素堂)らを知り,風虎の
招きで江戸に下った宗因と一座し,以後,宗因風の新進俳人として頭角をあらわした。78年に立机,日本橋小田原町で点業を始め,《桃青三百韻附両吟二百韻》(1678),《桃青門弟独吟二十歌仙》(1680),桃青判《田舎之句合》《常盤屋之句合》によって一門を確立したが,80年冬点業を廃止し,深川村に草庵をかまえて俳隠者となった。
この前後,宗因風の衰退するなかで《荘子》に心酔し,擬漢詩体の新風を率先して《次韻(じいん)》(1681)を刊行したが,82年(天和2)冬の大火で芭蕉庵を焼失し,以後,一所不住を志して行脚と庵住をくりかえしながら蕉風を樹立した。
《甲子吟行(かつしぎんこう)》によって知られる第1次行脚(1684年秋〜85年夏)は,名古屋連衆との出灯いで《冬の日》(1684)の成果を生み,以後の吟行に擬連歌体の俳言(はいごん)のない発句が目立つ。
旅の四季句集的性格をもつ《甲子吟行》と対をなすのが,第2次芭蕉庵の四季句集《あつめ句》(1687成)である。擬漢詩体,擬連歌体の表現をへて,和漢の伝統を混然とし,しかも〈擬〉意識を払拭した様式に到達しており,〈古池や蛙飛びこ
む水の音〉もその一句。
第2次行脚は,《蓉の小文(おいのこぶみ)》(1709)によって知られる歌枕行脚(1687年冬〜88年秋)から《おくのほそ道》(1702)によって知られる奥羽加越の行脚(1689年春〜秋)へと続き,その体験をとおして,芭蕉は蕉風の思想と表現に開眼した。
〈誠〉に基づく人生観と芸術観の統一的自覚であり,景と情の統一的表現である。その思索を深め,成果を世に問うために,伊賀,近江,京の各地になお2年の漂泊を続けた。
《幻住庵記》や《嵯峨日記》を執筆し,近江連衆を後見して《ひさご》(1690),京連衆を後見して《猿蓑(さるみの)》
(1691)を刊行したのは,その間のことである。江戸に帰ったのは91年(元禄4)冬。
翌年夏,第3次芭蕉庵の新築が成り,ここでの2年間は,新しい自覚に基づく《おくのほそ道》の執筆と,新風を期待できる新しい連衆の育成に費やされ,彼らを相手に〈軽み〉を唱導した。
景情融合の理想が,実際には景に情を託そうとはかる作為的な句作りにおちやすいのを懸念しての指導で,《炭俵》(1694)や《続猿蓑》(1698)がそうした指導の下に成った。
その成果を上方に及ぼすため最後の行脚に出たのは94年夏。前年50歳を迎えた芭蕉には老の自覚があった。健康の衰えもあり,桃印の死以来,心労も重なった。また俳壇の大衆化に棹さす業俳(職業俳人)に背を向けて,孤高を持する芭蕉に追随する者は蕉門でも多くなかった。
俳風の変遷に遅れた古参の連衆の中には離反者も出,各地に軋轢(あつれき)も生じていた。〈かるみ〉の指導も伊賀で難渋した。そして,同門の不和をとりもつために訪れた大坂で病に倒れ,病中吟〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉を最後に,門人にみとられながら世を去った。
その間の経緯は,随行の門人支考の《芭蕉翁追善之日記》や一門を代表する其角の追善集《枯尾花(かれおばな)》(1694)に詳しい。命日を時雨忌という。
[編著] 上述のごとく《次韻》以後は《俳諧七部集》の各集を後見したのみで,一冊の斤集も刊行していない。また《猿蓑》所収の《幻住庵記》のほかは,生前に一編の文章も公表していない。俳文,紀行,日記のすべては没後刊行。今日知られる発句は約1000,一座する連句は歌仙形式以上のもの約160巻,それに約200通の書簡が伝存する。 白石 悌三
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