● 木阿弥光悦 1558〜1637 永禄1〜寛永14


桃山・江戸時代初期を代表する書画,漆芸,陶芸に通じた芸術家。京都の人。号は太虚庵,自得斎,徳有斎など。

京都で代々刀剣の鑑定・研磨を本業とする上層町衆で,法華信徒の本阿弥家の分家に生まれる。父光二は多賀宗春の次男で,本阿弥宗家7代光心の婿養子となる。母妙秀は光心の長女。

彼の交際範囲は広く当代の知名人士と関係があり,物心ともに影響力をもった。加賀の前田家から200石の食知を父光二についでうけ,のち孫光甫の子光山が加賀本阿弥家の祖となる。

1615年(元和1)徳川家康より洛北の鷹ヶ峰に敷地を与えられたので,一族や工匠とともに住み,法華信仰をもとにした生活で,いわゆる光悦村をつくった。

光悦の漆芸は,斬新な意匠と器形を創出している。光悦蒔絵(まきえ)の特性をあげると,第一に意匠の題材の選び方が幅広く,その扱いが新鮮である。

物語や和歌など日本の古典から広く取材し,しかもしゃれて新鮮な感覚がみられる。このことは,高い教養を身につけた文人がはじめてわかる象徴的な表現で,知的な楽しさを意匠としているのである。それら古典への憧憬とその深い知識を基にした装飾的展開は,書において平安朝の料紙と仮名散らし書きを新たに完成したことにも通じる。第二に加飾材料の用い方がすぐれている。蒔絵に貝,鉛,銀などの加飾材料を大胆に用い,また貝は朝鮮で用いているのをとりいれたりしている。技巧過剰におちいることなく,意匠とよく調和して洗練した作品を仕上げている。代表作は《舟橋蒔絵硯箱》(国宝,東京国立博物館)。

なお,この漆芸の系統をひく代表的な作家として,元禄期(1688‐1704)の尾形光琳(1658‐1716)があげられ,光悦作品を模造した《住の江蒔絵硯箱》(重要文化財,静嘉堂文庫)があって,その傾向が知られる。絵画は宗達や宗達派の作品との区別がつかないので,確かな光悦の作品を知ることができない。なお,〈鷹峯光悦町古図〉にしるされている尾形宗伯宅は,光琳の祖父の家である。 郷家 忠臣

光悦の作陶は,1615年鷹ヶ峰の地を拝領してからと考えられている。伝世する作品はおもに楽焼の茶碗で,光悦の手紙によれば,楽家の赤土,白土をとりよせ,あるいは楽家に釉を掛けさせて焼かせるなど,光悦の作陶は楽家2代常慶,3代道入親子の助力を得ておこなわれている。また太衛門という陶工にあてた手紙が現存しており,楽家以外の大窯(おおがま)にも作品を焼かせたようすがうかがわれる。

光悦は茶の湯を織田有楽と古田織部に学んだといわれ,光悦の作陶もこの両者の影響を考えなければならない。光悦の茶碗は一体に定形がなく,素人らしい自由な造形性を示している。赤楽,黒楽,白楽があり,蒜釉を用いているものもある。代表作には〈不二山〉〈時雨〉〈雨雲〉〈喰違〉〈七里〉〈加賀〉〈毘沙門堂〉〈乙御前〉〈紙屋〉〈雪峰〉などがあげられるが,しいて分類をすれば腰を張らせた半筒形と,腰の丸い作品とに分けられる。 赤沼 多佳

書道ははじめ青蓮院尊朝流,近衛流などの影響をうけながら,上代様に直接学んで,ついに肥充の変化に富む纏綿(てんめん)華麗な独自の書風〈光悦様〉を創始し,近衛信尹(のぶただ),松花堂昭乗とともに寛永の三筆と呼ばれて名高い。金銀 泥の下絵を施した料紙に調和した装飾美困れる作品があり,おもなものに,〈木版下絵和歌巻〉〈四季草花和歌巻〉〈立正安国論〉などがあげられる。

また角倉了以と協力して刊行した豪華な〈嵯峨本〉と呼ばれる,謡本や伊勢物語などの古典の一連の版本が名高い。 木下 政雄

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