●1 良寛 1758〜1831 (宝暦8〜天保2)


江戸後期の禅僧にして歌人,書家。本名は山本栄蔵,のち文孝。字は曲(まがり)。号は大愚(たいぐ)。現在の新潟県,越後の出雲崎で代々名主と神官を兼ねる旧家の長男として生まれた。

屋号は橘屋,父泰雄(通称次郎左衛門)は俳号を似南と号する近在では知られた俳人であった。長じて名主見習役になったが,1775年(安永4)18歳の年に隣村尼瀬の曹洞宗光照寺に入って剃髪,良寛を名のり,大愚と称した。

79年光照寺に来た備中国玉島(現,岡山県倉敷市)円通寺の国仙の得度を受け,国仙に従って円通寺へ赴いた。以降11年間,同寺で修行し,90年(寛政2)に国仙より〈附良寛庵主〉の偈を受けた。翌年国仙が入寂したため,良寛は諸国行脚の旅に出,以降6年間,各地を経巡った。

父似南が京都桂川に身を投げて死んだのはこの行脚の旅の最中(1795)であったが,良寛は上洛して七七日の法会に参列している。行脚の旅を切り上げて越後に帰郷したのは,父の死の年,あるいはその翌年かとされる。

帰郷した良寛は,出雲崎近辺の草庵を転々とする。97年から1802年(享和2)までの5年間,および1804年(文化1)から16年までの12年間,合わせて17年は,国上(くがみ)山の真言宗国上(こくじよう)寺の五合庵に住んだ。農民と親しく接触し,子どもたちとの交流のエピソードを残したのは,帰郷後のこの時代のことである。

その後,江戸に出たり,東北地方を行脚したりもした。26年(文政9)69歳の折,三島郡島崎の能登屋木村元右衛門方に移った(木村家は現在,土蔵を改造し,良寛記念館となっている)。

そして翌年,70歳の年に29歳の貞信尼と出会った。貞信尼は越後長岡藩士奥村五郎兵衛の次女で,医師関長温と結婚したが死別,23歳で尼となっていた。短歌をよくし,良寛との贈答歌も多い。良寛没後も長生きし,1872年(明治5)に75歳で没した。

貞信尼は弟子として,女性としてひたすらな愛を良寛にささげ,良寛もまた晩年の愛弟子を深く愛した。彼らの恋愛は,貞信尼が編んだ《蓮(はちす)の露》(1835)に収められた2人の贈答歌によって知ることができる。貞信尼は長岡から5里の道を通ったのだった。けっして泊まることはなく,彼女が泊まったのは良寛が死去した晩だけだったという。

貞信尼との出会いは,晩年の良寛の書や歌に,明るさと華やぎとをもたらしたのだった。1831年(天保2)1月6日,前年の秋にわずらった重い痢病(赤痢の類)がもとで,貞信尼らに介抱されながら円寂。

良寛にはまとまった家集はなく,前述の《蓮の露》のほかに自選自筆歌稿《布留散東(ふるさと)》があるだけで,両者合わせても200首ほどにしかならない。ただし,遺墨として多くの歌を知ることができ,現在1400首ほどの作が知られている。万葉風と評されるが,書と同様にその作風は自由自在である。   佐佐木 幸綱

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●2 谷川敏朗著「良寛の詩歌百選」の前書き冒頭には次のような文が載せられている。



 良寛の名からすぐ連想されるものは、子供であったり、手毬や童唄であったりする。事実、子供と遊ぶ良寛の彫刻が、新潟県と岡山県に合わせて三基ある。

 では、良寛はなぜ子供たちと遊んだのか。それは、子供の持つ純真さを愛し、純真さを尊んだからだといわれる。良寛自身、生涯にわたって、その純真さを失わないように心がけたのであったかもしれない。

 もちろん、良寛が求めていったものは、純粋さばかりではない。日本の「まこと」「みやび」「わび」であり、古代中国の「仁」「無為自然」であり、東洋の「慈悲」であった。

 仏教徒であった良寛は、日々、心の汚れを取り去り、人々に安らかさを与えるべく努めた。独りで山中の庵に居住し、座禅を行ない、家々を回り歩いては施しを受けることを生活とした。羨まず、ねたまず、悪口を言わず、落ち着いてゆとりを持ち、自由に人生を送った。

 こうした良寛を、日本人の中で最も日本人らしい人として、現代の文学者は高く評価する。その清らかで美しい心は、世界の人々からも認められ、現在六ヶ国語に翻訳されて紹介されている。  

 以下略



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