●1 釈迦


仏教の開祖。釈梼はサンスクリット語のシャーキャムニ l´kyamuni の音訳,釈梼牟尼(むに)(〈釈梼族の聖者〉)の略。釈尊(しやくそん)は釈梼牟尼世尊(せそん)(尊称)の略。釈梼は歴史的実在の人物であり,その人種的帰属(モンゴル系かアーリヤ系か)や死没年(前483年,前383年など,南方仏教圏では前543年)は学問上の問題として論じられている(釈梼が80歳で死去したことは定説とされる)。

インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥKapilavastu を支配していた釈梼(シャーキャ)族の王シュッドーダナ luddhodana(浄飯(じようぼん)王)とその妃マーヤー M´y´(麻耶)の子としてルンビニー園で生まれた。姓はゴータマ Gotama(釈梼族全体の姓),名はシッダールタ Siddh´rtha(悉達多)。

生後7日目に母を失い,以後は叔母(実は継母でもある)マハープラジャーパティーに育てられた。アシタ仙人から,〈長じて偉大な王になるか,偉大な宗教者になる〉との予言をうけたため,王になってほしいと願う父王によって何ひとつ不自由のない王宮の生活があてがわれた。

しかし,耕作の光景に接し,農夫や牛馬の労する姿を見,露出した虫が鳥についばまれるさまを見て世の苦しみを悟る。

また城の東・西・南・北の門から外出しようとして老人,病人,死人,出家者に遭遇し,自分の進むべき道を予見する。ヤショーダラーを妃とし,一子ラーフラ R´hula をもうけたあと,一夜,愛馬カンタカと御者チャンダカを従えて城を脱出し,マガダ国で沙門(修道者)の生活に身を投ずる。

2仙人に禅の指導をうけたが満足せず,6年苦行に励んだが得るところなく,村娘スジャータの提供する乳粥で体力をつけ,ネーランジャラー河畔のアシュバッタ樹の根方で瞑想に入り,ついに菩提(悟り)を得て仏陀(悟った人)となった(アシュバッタ樹はこれよりのち菩提樹と呼ばれる)。

最初の説法はムリガダーバ Mngad´va(鹿野苑(ろくやおん))で5人の比丘(びく)に対して行われた。その後,拝火外道のカーシャパ3兄弟とその弟子たち合計1000人や,シャーリプトラ(舎利弗),マハーマウドガリヤーヤナ(目連),マハーカーシャパ(摩訶梼葉)らが弟子になった。

故国からは従兄アーナンダ(阿難),理髪師ウパーリ(優波離),息子ラーフラ(羅順羅)が弟子に加わった(十大弟子)。

比丘(男の出家者)のほかに,比丘尼(女の出家者),優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)(男女の在家信者)もできた。釈梼はガンガー(ガンジス川)中・下流域の平原,なかんずくマガダ国のラージャグリハ(王舎城)とコーサラ国のシュラーバスティー(舎衛城)で活動した。

前者には国王ビンビサーラの寄進した竹林精舎が,後者にはアナータピンダダAn´thapilfada(給孤独(ぎつこどく))長者の寄進した梢園精舎があった。

釈梼の教勢が盛んになるにつれ,法敵も増えた。彼の従弟とされ,のちに彼に離反するデーバダッタ Devadatta(提婆達多)からは狂象をけしかけられ,梢園精舎ではバラモンたちから女性と密通しているとの虚偽の告発がなされた。

実際,釈梼の教えはバラモン教の階級制度や祭式至上主義を脅かすものであった。彼の教団では僧の順位は出身階級に関係なく,出家後の年数で決められた。真のバラモンとは生れによるのではなく,行いによるのであった。そして不殺生の教義はバラモン教の犠牲式を否定し,出家主義は祖霊祭をつかさどる子孫の確保を困難ならしめた。ほかに六師外道と呼ばれるライバルもいた。 

釈梼の教義は人の心の悩みを解決することをめざした。心の悩みの解決は祭式のような外形的行為によっては達成されない。各人が自己の内面から行う変革によらねばならない。そのための基本的な出発点となるのが四諦・八正道や十二因縁の教義である。

これは,一言でいえば,苦悩のよってきたる淵源を追求し,その淵源(おそらく〈我あり〉との妄執)を取り除くことを教えている。

これは当時にあっては驚くほど科学的・合理的な態度である。しかも,自己存在の問題について,現代の深層心理学を先取りするような先見性を示している。これは仏教発展の背後に都市と商人階級という進んだ社会があった事実を反映しているかもしれない。

釈梼は29歳で出家し,35歳で悟り,45年教化活動を行って,80歳で死去した。

故国へ向かう旅立ちの途中,食中毒をおこして,クシナガラKu⇒inagara で2本のサーラ樹(サラソウジュ)の間に横たわって生涯を閉じた。

遺体は荼毘(だび)に付され,遺骨は各地の塔(ストゥーパ)にまつられた。釈梼は遺言として
〈自己自身を灯明(あるいは島)とせよ〉
〈すべては移ろいやすい,怠らず努めよ〉
〈出家者は私の葬儀にかかわるな,葬式は在家者がするであろう〉
などと述べた。これらの言葉は彼がいかに人間ひとりひとりの魂の救済に意を注いでいたかを示している。

弟子が伝道に赴くときに
〈二人していくな,一人ずつ行け〉
〈俗語で説け〉
と言ったのも,教えをできるだけ多くの人のものにするためであった。慈悲の精神と涅槃の理想が彼の教えを貫いている。

後世の仏教徒はしだいに釈梼を神格化し,その伝記を粉飾する傾向をもった。輪廻(りんね)転生の思想に基づき,釈梼は今世に出現するまでにすでに多くの生存をくりかえし,そのつど善行に励んだとされた。

このいわば修行時代の釈梼は,ボーディサットバ Bodhisattva(菩醍,すなわち菩提を求める者)と呼ばれ,彼の前世物語(ジャータカ,本生譚)がいくつもつくられた。

一方,大乗仏教では,彼は永遠の仏の顕現とされ,化身または応身と呼ばれるようにもなった。釈梼の誕生日については〈バイシャーカ月白分8日(または15日)〉の伝承が生まれ,中国暦ではこれが4月8日に換算され,南方仏教圏ではベーサク月(4月〜5月)の満月の日にあてられている。  定方 晟

[釈梼像] 造形的表現をとる釈梼仏像は,歴史上実在した偉大な仏教の教祖としての釈梼と,時空を超越した覚者,すなわち如来としての釈梼の二つの形態をとる。

仏教成立初期においては釈梼を表すことは行われず,やがて前2世紀ころバールフットやサーンチーの浮彫において,〈仏陀なき仏伝図〉として歴史上の釈梼をその生涯の説話の中に表現することが行われた。しかしあくまで人間の姿をとらず,輪宝,菩提樹,金剛座,舎利塔などを用いて,説法,成道(じようどう),涅槃を暗示・象徴した。

仏像として表されるにいたった契機や起源については諸説あるものの,後1世紀ころガンダーラにおいてであると考えられる。

やがて仏伝中の釈梼をはなれ,超越的な如来として,単独の礼拝像である釈梼仏像も造られた。なかでも2世紀ころの南インドのアマラーバティーや中インドのマトゥラー,サールナートにはすぐれた釈梼仏像が見いだされる。

仏教の東漸に伴い,アフガニスタンから中央アジアの各地にこの両形態の釈梼像がさかんに造られた。また東南アジアの各地にも伝播した。中国における釈梼像は後漢の明帝のとき,初めて伝来したとされる。

遺例としては5世紀の銘を有する金銅仏が最も古く,このほか金銅仏,石仏に多くの作例がある。やがて北魏時代には雲岡石窟に次いで竜門石窟,さらには西の果て敦煌莫高窟など,中国各地に多くの石窟が開かれ,多くの釈梼像が造られ,また壁画に描かれた。

中国における釈梼像にも,如来に通形の表現をとる釈梼仏像,さらには文殊・普賢などの脇侍を伴うもの,降魔・涅槃,あるいは山中苦行釈梼などの仏伝説話と不可分の釈梼像,さらには《法華経》見宝塔品に説く,〈二仏併座図〉中の釈梼,さらには多くの菩醍に囲繞された釈梼の浄土を表した〈釈梼浄土図〉などがある。

日本における釈梼像の初見は,《日本書紀》欽明天皇7年(538)条百済の聖明王が初めて金銅釈梼像をもたらしたとする,いわゆる仏教公伝の記録であるが,606年(推古14)に飛鳥寺の本尊,623年(推古31)には法隆寺金堂本尊などの造られたことが《日本書紀》や造像銘で知られ,今日に伝わっている。

やがて飛鳥・奈良・平安時代を通じて多くの釈梼仏像が造られた。これらは如来としての通形の図像をとるもので,偏袒右肩で手は施無畏・与願印ないしは説法印をなし,結跏趺坐するものが多い。平安時代初期になって立像釈梼像も多数造られ,室生寺像が著名である。釈梼像の中には小金銅仏で釈梼の誕生時に獅子吼し,灌水を受けたときの姿を表した釈梼誕生仏がある。また清凉寺式釈梼と称せられる一群の特異な図像をもつ釈梼像がある。これは987年(永延1)橿然(ちようねん)が宋よりもたらした像で,通肩で頭髪を巻毛とした立像。鎌倉時代の釈梼信仰の流行に伴って多くの模刻像が造られた。

絵画作品としては,法隆寺金堂壁画中には釈梼を主尊とする浄土,すなわち釈梼浄土図があり,霊鷲山(りようじゆせん)における釈梼の説法の情景を描いた〈霊鷲山釈梼説法図〉としてもと東大寺法華堂に伝わった《法華堂根本曼荼羅》(ボストン美術館)や《釈梼説法図斥帳》(奈良国立博物館)など,飛鳥・奈良時代の作品がある。

また涅槃図や仏伝図としても多くの作品があり,ことに応徳3年(1086)の銘を有する涅槃図や再生説法を描いた《釈梼金棺出現図》(京都国立博物館)などは,平安時代の著名な作品である。

なお単独の礼拝的釈梼像を描いた作品として,神護寺の釈梼像が知られている。

やがて鎌倉・室町時代になって水墨画を中心とする宋・元の絵画作品がもたらされた。これには二尊院,東福寺,建長寺の釈梼三尊や,寧波の画工陸信忠の描いた《涅槃図》(奈良国立博物館),長崎最教寺《八相涅槃図》などがあり,さらに梁楷筆《出山釈梼図》などが知られ,禅宗における釈梼信仰を軸として,中世の釈梼画像に大きな変化をもたらした。  百橋 明穂

[日本における仏伝の展開] 仏教がインド,中国を経て日本に伝わってさまざまなかたちで人々の心をとらえたのに対応して,その創始者である釈梼の伝記,人物像もまた,多様な展開をみせた。

釈梼の生涯は下天,託胎(たくたい),誕生,出家,降魔,成道(じようどう),転法輪(てんぽうりん),涅槃の8段階に区分され,〈八相成道〉と呼ばれる(《天台四教儀》)。

兜率天から人間界に下り,白象に乗って摩耶夫人の胎内に宿り,その脇の下から生まれるや〈天上天下唯我独尊〉と唱え,生の苦悩にめざめて出家・苦行し,悪魔の妨害を退け,ついに悟りの境地に達し,教団を組織して人々にその教えを説き,80歳の生涯を閉じる。

それ自体劇的な一代記であり,これに本生譚(ジャータカ)と呼ばれる前世時のさまざまな物語や滅後の舎利分納,仏典結集や阿難,目連など弟子たちをめぐる逸話が付随する。これら釈梼をめぐる物語は広く〈仏伝文学〉と呼ばれ,日本の文学・文化史に重要な位置を占める。

日本の文学史で,最初にまとまった仏伝をのせるのは10世紀末の《三宝絵》であるが,仏として生まれる以前の本生譚が中心で,飢えた虎に自らの命を与える醍凱(さつた)王子や自らの命と引換に鬼から無常偈を教えてもらう雪山童子などの自己犠牲(利他行)の話が集められている。

仏典をもとにしながら難しい漢文をはなれ,こなれた和文の表現で語られる最初の仏伝文学として注目される。その背景には当時寺院で盛んに行われた法会における僧の説教・説法で,仏伝が語られていたということがある。口頭の語りだけでなく,道長の法成寺御堂の扉絵に八相成道が描かれたり,貞観寺の仏伝の柱絵にもとづく絵解きや《梁塵秘抄》にみる歌謡(今様)世界で仏伝が歌われるなど,さまざまな領域で仏伝の物語は享受されていた。

11世紀後半になって,釈梼滅後二千年に〈末法〉の暗黒の世に入るという終末観の思想が広まったが,12世紀前半の《今昔物語集》が初めて体系的な仏伝文学を形成したのもこの末法の考えと深いかかわりがあろう。

《三宝絵》が前世の仏を問題にしたのに対し,《今昔》は人間としての釈梼の生を徹底して見すえようとする。それは天上から下って摩耶夫人の胎内に宿る巻一の巻頭にはじまり,巻三の〈涅槃・舎利分納〉に至るまで一貫している。

《過去現在因果経》《釈梼譜》など,漢訳の仏伝経典をもとにしたテキストや,仏典から離れた説法用のテキスト類(《注好選》《百因縁集》)などをふまえて,独特の漢字片仮名まじりの迫力ある文体になっている。

仏典では前世時や悟りを開く成道が重視されるのに対し,《今昔》では転法輪すなわち国王から民衆に至るあらゆる人々に前世からの因縁を説き,生の苦悩から離脱すべき救いを説く教化の物語が圧倒的に多いのが特徴である。

布施が受けられず鉢をむなしく胸にあてて疲れきった表情をみせたり,死に際して吾が子羅順羅(らごら)と涙の対面をしたり,仏典以上に人間的で身近で親しみやすい釈梼像が印象深く描かれている。

また巻四〈仏後〉は釈梼滅後の仏法の流布が説かれ,以後の震旦部(中国),本朝部(日本)の仏法の物語世界の展開に通ずる。

一方,巻五〈仏前〉は釈梼出生以前のインドの建国話や世俗的な話題が続くが,同時に本生譚も多く,預かった猿の子を鷲にさらわれ自分の肉を裂いて子を取り戻す獅子の話(獅子が釈梼の前世),帝釈天に供養する物が手に入らずついに我が身を火に投じ月にこめられる兎の話や,獅子の威勢を借りる狐,猿の生き肝を取ろうとするが,口をすべらして逃げられる亀の話等々,日本の昔話や伝説でもなじみの深い話がおもに釈梼の前世の物語として語られる。

そこでは食物,風景などすべて日本のそれに変わっており,和文調のこなれたユーモラスな語り口で展開されている。

こうした傾向は中世になるとさらに進み,室町末期の《法華経直談鈔(じきだんしよう)》では,仏の出家した姿が,濃い墨染めの身にやつした日本の隠筒僧さながらに描かれた。また,御伽草子の《釈梼の本地》(釈梼出世本懐伝記)は《今昔》に次ぐまとまった仏伝文学であるが,太子時代の釈梼が東・西・南・北の四門で老者・病者・死者・出家者と出会い,それが出家の機縁となる四門出遊の場面は,御伽草子特有の四方と四季を重ねた日本的な風景・景物の描写でつづられる。

さらに《塵添格臥鈔(じんてんあいのうしよう)》では,実母摩耶夫人の死を知らされていなかった太子が,たまたまその墓に詣でて事情を知り,それがもとで出家してしまう話となる。日本人好みの〈母子もの〉の物語に完全に変貌している。

平安時代の《今昔》の段階ではまだ仏典をふまえつつ離れようとする緊張が表現の源になっていたが,鎌倉時代の釈梼信仰の隆盛(明恵など)を経て室町時代に至ると,仏典とはまったく切り離されて日本人の好みにあわせた釈梼の物語が形成され,近世の《釈梼八相物語》もその延長線上にある。仏教に対する信仰の変遷と釈梼の物語(仏伝文学)の変容とはまったく相応じている。

中世には,京の鴨河原で笠をかぶった僧が扇子片手に釈梼の涅槃の場面を人形を用いて説教している図がある(《遊行上人縁起絵》)。灌仏会(かんぶつえ)は釈梼の生誕を祝う花祭として今も伝わり,涅槃会(涅槃講)も各地の寺院で続き,涅槃図をもとに絵解きを行う寺もある(鈴鹿市の竜光寺など)。  小峯 和明

世界大百科事典による


●2 釈迦の教え


釈迦の直接の説は確定しがたい。以下(1)〜(11)に記す原始仏教の教説の諸項目の原型ないし核を、釈迦に求めるのがふさわしいであろう。

同時にまた釈迦は卑近なたとえなどで、そのつど臨機応変のもっとも適した教えを説いた(対機(たいき)説法という)とされている。

(1)現実の直視、それによる多様性の承認、それは寛容につながる。

(2)心を平静にし、主体的な自己の確立を求める。しかし我執(がしゅう)と自己中心とはすべて捨てる。

(3)いっさいの平等。当時すでに有力なカースト制度を否認し、生まれではなくて、個人の実践のみを尊ぶ。

(4)ひたすら実践を目ざし、議論の優劣を争わず、とくに形而上(けいじじょう)学的な問いに答えず加わらない(無記とよぶ)。

(5)可能な限り普遍的な法を中心とする。

(6)三法印(さんぼういん)(一切皆苦(いっさいかいく)、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しよほうむが)。のち涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を加え、やがて一切皆苦を除く)。

(7)苦集(くじゅう)滅道の四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)(正見・正思・正語・正業・正命(しょうみょう)・正精進・正念・正定(じょう))。

(8)五蘊(ごうん)(法の分類で、色(しき)・受・想・行(ぎよう)・識の五つの集まり)。

(9)六入(法の分類で、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六つの器官、それに対応して色(しき)・声(しよう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法の六つの対象)。

(10)縁起(えんぎ)(すべては他との関係においてあり成立し生じ滅する。そのもっとも整備された語が十二因縁(いんねん))。

(11)ニルバーナnirva(涅槃、限りない安らぎ)こそが解脱・悟りの境地であり、釈迦はそれに到達し、その生き方は仏教徒の理想のあり方、目ざす彼岸とされる。

なお釈迦の生きた時代は、インドで自由思想家が輩出し、またそれを支える社会的地盤のあったことを銘記する要があろう。[三枝充悳]

日本大百科全書による

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