長岡百景
(独断的名所案内)


その1  「グラウンド・ゼロ」

模擬原子爆弾投下地点
昭和20年7月20日午前8時12分
米空軍B29が単機で飛来。
大型爆弾一個を投下。
爆発により死者4名・負傷者5名
・住宅全壊2戸
・被害家屋 左近町地域全戸。
同年8月9日長崎に投下された原子爆弾と
ほぼ同じ型の爆弾でした。
左の図を見ると、あのプルトニウム型原爆
「ファットマン」にそっくりです。
但し、中身は通常火薬でした。
それでもTNT火薬2.5トンというのは相当
大きい爆弾です。
被害が割と少ないのは、当時も現在もこの
辺りは農地だからです。軍事施設も軍需工
場もありません。写真の背景は桃畑です。
米軍は練習の為だけに4人の農民を殺害
したのです。碑文には恨みがましい事は一
切書かれておりません。
この日の12日後、長岡市街地が空襲に曝
され、父の従姉の双子の姉妹を含む千数
百名の市民が殺されました。
広島・長崎・東京でも非戦闘員を殺戮した
戦争犯罪は裁かれていません。

写真撮影の後、todomanが深く黙祷した事
は言うまでもありません。
碑の有る場所は信濃川の支流、太田川の
土手の上にあります。(写真やや左)
桃畑は画面の左外です。
右手の奥にある建物は市役所です。
そして、写真の左奥 数百メートルの地点
に「日本一の三尺玉」が打ち上げられるの
です。
60年前と違い、市民が誇る大爆発です。

皮肉な事に、この場所は三尺玉の爆発で
危険である として花火大会の夜は立ち
入り禁止になるのです。

その2  「百年の山河」

右の上下の写真を見比べて下さい。
同じ場所で撮影された写真ですが、二つの
写真の間には百年の隔たりがあるのです。
故郷の山河は変わらない。
感慨深い物があります。いかがですか。


石塚三郎という偉大な先人が明治時代に
撮影した物です。旧安田町出身の歯科医師
でアマチュア写真家でもありました。(私の歯
科大の大先輩でもあらせられます。)長岡市
に歯科医院を開業していた頃には、市内外
の風景を多数撮影していたようです。その中
に日露戦争勝利の宴会もありますので、20
世紀初頭である事は間違い有りません。


撮影場所は長岡市南方郊外。上越新幹線の
架橋下から南蛮山方向を望む。
あの谷を辿って登ると山古志村があります。



古写真の出典は阿賀野市立吉田東伍記念博物館所蔵の写真です。
何度か引用のお願いをメールしたのですが、全くご返事がないので
無断で使用させて頂きました。私の郷土愛に免じてご容赦下さい。

おまけです。    

柏崎市米山付近、聖が鼻
現代百年前

その3  「ご先祖様の手水鉢(ちょうずばち)」

明治時代の女株券師が奉納した手水鉢。
何が「名所」なのかというと、私の祖先の名前があるからであります。
右下写真の「堀田タミ」は私の父方の祖母の姉にあたるひとです。(えっ、やけに近いんじゃないかい?とお思いかもしれません。祖父は再婚、父は晩婚でした。)
というわけで、ごく私的な名所なのでした。
「独断的名所案内」なのでご容赦下さい。
元々ここに有った物ではないと思います。私が小さな頃にはここに神社はありませんでした。
新市役所が出来る前にはここに厚生会館があり、
厚生会館が出来る前には長岡市公会堂がありました。
こことは反対側の奥に長細い築山があり、その上だか下だったかにあったガマで遊んだ記憶がかすかにあります。(下写真参照)
ですから、手水鉢もその後の移設と思われます。

神社の由来? 知りません。
ここは長岡城二の丸跡地です。


↑なつかしいガマ


ガマと向き合う手水鉢→

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