鉄道趣味のページ
碓氷線の歴史




建造から110年。現在もなお偉容を示す碓氷第3橋梁(筆者撮影)


 ここは、私の趣味の一つである鉄道趣味について語るページです。そもそも乗り物とくに鉄道が好きだったことが、社会への眼を開くきっかけとなったと自分史的に考察しています。ここではそのさらに原点で深い研究テーマである、群馬・長野県境碓氷峠をめぐる鉄道の歴史・事情についてまとめた文章を載せます。初出は東洋大学鉄道研究会機関誌『キロポスト』29・30・31と1997-1999にかけて連載したもので、それに加筆修正したものであります。



はじめに

 信越本線横川―軽井沢間(通称:碓氷線)は、ご承知のように、JR最急勾配区間であった。しかしながら、北陸新幹線高崎―長野間の開業に伴い、1997年9月30日をもって廃止され、今日に至っては過去形で記さなければならない。私事ながら、碓氷線は私の鉄道趣味の原点であり、最も好きな区間でもあった。EF63の力強さ、旧第三橋梁の雄大さ、四季折々の車窓風景、魅力を挙げれば枚挙にいとまがない。
 その碓氷線終焉の年に際して、何かアクションを起こしたいと思い、文献をあさり、さよならイベントへ行き、最終日には、この眼で見届けてきた。ここでは、そのまとめとして、下記の構成でここに発表したい。私の禿筆では、見苦しい部分も多々あるかもしれないが、ご一読頂ければ幸いである。

1. 前史

 碓氷峠が史書に初めて登場するのは、「日本書紀」の日本武尊の東征伝説である。記録によれば、東征の際この地に至った尊は、走水の海で尊の身代わりに入水した妃、弟橘媛を偲び、「おお吾が妻よ」と三嘆したという。
 平安時代に入り昌泰2年(899)碓氷関がおかれ、東山道の要衝として、峠のふもと坂本に駅がおかれた。古代の東山道碓氷坂の道筋は、昭和30年の調査で、峠の祭祀に使われる幣などが発見されたため、入山峠(標高1035m)を通過したとの説が有力である。また、万葉集では、峠を往来した防人の歌が収められている。

ひのくれに うすいのやまをこゆるひは せなのがそでも さやにふらしつ       万葉集14、よみ人しらず
ひなぐもり うすいのさかをこえしだに いもがこいしく わすらえむかも        万葉集20、他田部子盤前

 その後、平将門軍、後醍醐天皇の皇子宗良親王、下って武田信玄軍の往来が伝えられている。
 江戸時代になり元和3年(1617)幕府は五街道の一つとして、中山道六十九次を定め、松井田、坂本、軽井沢を宿場とし、元和9年(1623)には横川村に関所を設置、明治2年の廃止まで、中山道を往来する旅人を取り締まった。

 江戸時代の峠道は、坂本から、現在の国道18号旧道より北側の刎石(はねいし)、子持山を通り、旧軽井沢へ至る道であった。江戸年間、北国大名の参勤交代の際、碓氷峠の往来によって、坂本は大いに賑わい、また、小林一茶、松尾芭蕉も句を残している。
 文久元年(1861)、14代将軍家茂に嫁ぐ皇女和宮は、中山道を京から江戸に下る際、碓氷を通過、坂本に本陣がおかれた。


2. 中山道幹線計画

 明治2年(1869)11月5日明治新政府は、初の鉄道敷設のための会議を開いた。出席者は、岩倉具視、伊藤博文、沢宣嘉、大隈重信、駐日英公使パークスであった。そして11月10日の廟議において、イギリスの資金援助のもとに、東西両京を結ぶ鉄道を幹線とし、東京―横浜、京都―神戸、長浜―敦賀を支線として建設することを決定した。しかし、政府内部では、西郷隆盛を中心とする兵部省などの勢力が「軍備優先論」を唱えて鉄道敷設に反対したため、推進派の伊藤、大隈は孤立していた。

 鉄道建設の要望は民間からも起こった。明治3年1月、岐阜の医師、谷暘卿から鉄道の早期開設をすすめる建白書が提出された。谷は、日本の基幹工業である生糸工業の中心地と東京を鉄道で直結させることによって、経済の発展を図ることの必要性を説き、東京と上田、福島、米沢、前橋を結ぶ鉄道を早急に建設すべしと記した。

 明治3年(1870)6月、政府は幹線の建設計画に着手、鉄道頭井上勝は、技師小野友五郎、佐藤政養両名に東海道の調査を命じた。二人は視察の後、翌4年1月「東海道筋巡覧書」を提出した。その中で付加意見として、「東海道は水運の便があり、道も開けている。しかし中山道は道が険しいが、鉄道を敷設すれば産物輸送や山国の開化が可能となる。」と幹線のコースとして中山道を推薦。それに基づき政府は4年3月、改めて小野と山下省三らに中山道を視察させた。さらに、明治7年、イギリス人鉄道技師長ヴィッカース=ボイル(R.Vicars=Boyle)に中山道の調査を命じた。ボイルは5月に神戸を出発、強い要望によって用意された旧尾張藩の駕篭に乗り、コックなどを同行させた「大名旅行」で、二か月半をかけて調査、翌8年9月から11月にかけても再度調査した。
 そして、明治9年9月「中山道調査上申書」を提出した。その中で、ボイルも小野らと同様の理由で、中山道ルートを幹線に適当と報告した。また、碓氷峠を越える部分については、横川村から入山峠方向に25‰で4マイルすすみ、それより先は50‰勾配となり、通常の方法での機関車の運転はできないため、ゆるい勾配で入山峠を迂回する長い路線が必要と見積もった。工事については「難工事ではあるが、決して難しいものではない」と言ったが、後に本格的な調査によって予想以上に鉄道敷設が難しいことが判明した。また、ボイルは、群馬の養蚕地帯と東京の直結を急ぐため、中山道幹線のうち、東京―高崎間の早期着工を上申している。
 ボイルの報告を受け、政府は早速着工しようとしたが、萩の乱、熊本神風連の乱、西南戦争により財政が悪化、鉄道建設の財源確保が困難となった。そのため、岩倉具視らは民間資本の導入を検討、紆余曲折を重ねて明治14年、華族士族などの出資による日本鉄道株式会社が設立された。日本鉄道は東京―高崎、東京―青森間の建設許可を受け、用地払下げ、工事代行、8%利益の保障という政府の全面的なバックアップのもと、明治15年9月に東京―高崎間が着工、17年5月1日、上野―高崎間 101qが全通。保線、運転も官鉄に代行させるという半官半民の経営であった。

 さて、軍は明治初年には鉄道敷設に反対していたが、西郷隆盛が西南戦争に敗れて世を去ると、反対の急先鋒が消え、さらに、軍自体も鉄道の軍事における重要性を認識し始めたことによって、幹線鉄道の建設は望むこととなった。陸軍の実力者となった山縣有朋は、「海岸を通る東海道幹線は、敵の上陸の際寸断される恐れがある」として、中山道幹線の建設を建議、明治16年10月、廟議によって東西両京を結ぶ幹線は中山道沿いに敷設することを決定、12月には「中山道鉄道公債」2000万円を発行した。そして翌17年7月、南清、本間英一郎を技師として、高崎―横川間を官設鉄道として着工し、18年10月15日開業した。
 鉄道局長官(←鉄道頭)井上勝は、中山道線建設の際の資材運搬鉄道の必要性を訴え、直江津―軽井沢間の鉄道は官設で行われることとなり、明治18年3月に着工された。このため同区間に出されていた民間の信越鉄道建設許可申請は却下された。
 さて、中山道線碓氷峠の鉄道計画は、明治16年11月から、南清によって調査がすすめられた。南は、ボイルの計画線に沿って入山峠または和見峠( 986m)を越える、現在の信越本線よりも南側のコースを通る計画を立てた。 100‰勾配案では、車両に取り付けたケーブルを据付け蒸気機関で巻き上げる方式、66.7‰案ではフェル式中心軌条を利用、50‰以下案では特殊緩急車の連結によって運転する方式を報告した。これを受けて鉄道局は実地中心線の選定のため、小川資源技師を派遣し、南とともに測量を行った。その結果、五つの案が生まれた。
 しかし、いずれのルートも工費、工期等の問題から採用には至らず、明治19年4月、測量は一旦打ち切られた。

 井上鉄道局長は、中山道幹線の建設は、困難箇所の数、工費、工期などの問題が多いことから、幹線の東海道ルートへの変更を計画、陸軍の山縣有朋に上申した。山縣は、仮想敵国である清国の弱体化により、上陸による路線寸断の心配がなくなったことに加え、外征に備えるため、幹線の早期開通を優先させるべきと、井上の提案を了承。内閣総理大臣の伊藤博文から閣議に諮られ可決。天皇に上奏裁可のうえ公布され、東海道線は明治22年7月、東京 ―神戸間が全通した。


3. 碓氷線開通前夜

 高崎ー横川間の開通に続いて、直江津−軽井沢間も明治21年(1888)12月1日に開通したため、横川―軽井沢間の鉄道建設が急がれるようになった。
 軽井沢―直江津間の開業に先立つ9月5日、明治18年(1885)に完成した碓氷新道(現在の国道18号旧道)に沿って、碓氷馬車鉄道が5年間の限定営業許可を受けて営業を開始し、横川―軽井沢間18.8qを2時間20分で結んだ。その後、碓氷線の鉄道建設の際、資材運搬などに使われた。しかし、碓氷線の開通とともに営業許可は取り下げられ、廃止となった。そして、その車両とレールは群馬馬車鉄道(高崎―渋川・後の東武高崎軌道線)に売却された。

 直江津線の開通から半年後の明治22年6月、井上鉄道局長官は、折から来日していたイギリス人技師 チャールズ=アセットン=W=パウネル(C.A.W.Pownall)に碓氷線の調査を依頼した。パウネルは要請を受け、鉄道局は補佐役として本間英一郎を派遣した。パウネルは、さきに南、小川らの調査した五つのルートを実際に踏査した。が、どのルートも勾配がきついという理由から彼は気に入らなかった。そして彼は勾配を25‰以下、曲線半径を 200m以下とした次のルートを選んだ。

「横川から原、坂本を経て霧積川に入り、さらに中尾川に沿って迂回、入山、境、一軒家、沓掛離山(現在の中軽井沢)で直江津線と接続する・総延長28.7q」

 井上は、トンネル52、橋梁47、延長28.7qというこの大計画には、工作物の多さと、何より莫大な経費がかかるということで、採用できなかった。碓氷線建設の予算は約 300万円と見積もられたが、政府は認可せず、鉄道局長官の再三の上申によって、ようやく 200万円が3年度に分けて支出されることになった状況では、とてもパウネルの案は採用できなかった。
 そのころ、ドイツ留学中の鉄道技師、仙石貢と吉川三次郎から書簡が届いた。「ドイツのハルツ山鉄道ではアプト式歯軌条を利用して60‰勾配を安全に運行している。日本の山岳鉄道にも応用してはどうか。」 とのことであった。井上は、元鉄道局建築師長で在英顧問技師であったトーマス=セルヴィントン(Thomas=R=Shervinton)に、アプト式と25‰案のどちらを採用すべきか意見をもとめた。セルヴィントンはアプト式を推奨したため、早速、本間英一郎に対してアプト式使用の前提でのルート選定を命じた。本間は、これまでの案をすべて検討し直した上で、候補を和見線、入山線、中尾線の三案にしぼり、パウネルに対しいずれが適当かを問うた。
 ところが、パウネルはアプト式採用に反対であった。その理由は「東京と北陸を結ぶ幹線鉄道の一部である碓氷線は、特殊な運転方式にすべきではない」ということであり、さらにインドにおいて採用が見送られた前例を引き、ハルツ山鉄道は1435o軌間であり、日本のような1067o軌間では採用しがたいとの見解を示した。
 このため井上は、再度セルヴィントンに問い合わせた。彼は、再びアプト式の採用が望ましいとの意見を述べ、「チリ、アルゼンチン間のトランスアンディノ鉄道計画線(1890年開通)では1000o軌間で80‰勾配のアプト式と決定しており、1067oの碓氷線に採用して支障はない。加えてアプト式を採用すれば、工費を大幅に節約できる。」と断言した。予算不足に悩まされていた政府は、後者の結論がアプト式採用への決定力となった。

 明治23年(1890)9月、井上はアプト式採用を決断した。パウネルは、アプト式を採用するならば、路線は長いがアプト区間が短い和見線を適当とした。入山線は曲線が多く、中尾線は国道を20回も横断するため交通を遮断する。との結論であった。井上はこれを受け入れ、本間に和見線の調査と工事監督を命じた。
 しかし、もともと和見線に批判的であった本間は、中尾線が優れているという意を強くした。そして、中尾線が有利な点を四つあげ井上に上申した。

@総延長が9.9kmと短い
A工費が安い
B国道に沿っており、資材運搬が容易
C工期が短くてすむ

 これを受けて明治23年11月、井上は本間に中尾線の精密調査を命じた。また、明治24年1月14日には鉄道局技師松本荘一郎がパウネル、本間とともに中尾線を視察し、中尾線を可とする旨井上に報告。パウネルも最終的には日本の財政事情に理解を示し、ついに24年2月4日、横川―軽井沢間を中尾アプト線で着工することに決定した。

 碓氷線建設工事は明治24年3月19日軽井沢で着工され、6月には全線で着手された。出張所が横川に設置され、本間が全線を統括、橋梁の設計はパウネルが担当、その他の工事箇所と監督は吉川三次郎と渡辺信四郎が分担。資材の運搬には碓氷馬車鉄道が使われた。工作物はトンネル26か所、橋梁18か所の大工事で、昼夜兼行の突貫工事であった。横川に建立されている「招魂碑」には、工事に従事した人夫のうち、少なくとも 500人が犠牲になったといわれる。(「招魂碑」碑文・旧第16中山道踏切横に建立)一方、工事の正式報告書である渡辺信四郎『碓氷嶺鉄道建築略歴』には、事故等による直接的な犠牲者は20名前後とされている。この数値の差はおそらく、1891年に全国的なコレラの流行が、不潔な工事現場の環境を媒介して多くの死者を出したが、その数の差と思われる。

工事に使われた資材
    レンガ  18000000個
    セメント  17500樽余
    切石  約 3681立方b
    松丸太   30000本
    杉丸太   30000本
     砂   12021立方b

工費
    用地費   14286円824
    土工費  104241円832
    橋梁費  124548円175
    溝拱費   14085円225
    ずい道費 752459円534
    軌道費  155773円882
    運送費  263490円809
    車両費  419456円851
     総計 1991710円

 明治25年12月22日、横川―軽井沢間がレールでつながり、ドイツ、エスリンゲン(Esslingen)社製3900形タンク機関車4両が陸揚げされると、年明け26年1月から試運転が開始された。ドイツ製の機関車をアプト式の経験の無いイギリス人機関士が運転したため、トラブルも頻発した。練習運転の不評は世間に伝わり、2月27日の衆議院でも質問される事態となった。もっともこれは、直前の総選挙で政府が行った選挙干渉への抗議という側面が大きく、3月に入ると次第に営業運転の準備も整い、開業を待つばかりとなった。
 一方、碓氷線の建設に尽力した鉄道庁長官・井上勝は、持論の鉄道国有化論が、民間鉄道業者の反感を買い、その意を代弁する代議士によって、議会において激しく攻撃された。さきに述べた2月27日の衆議院質問も、井上を標的としたものだという説もある。そして、碓氷線の開業を目前にした3月16日、井上は鉄道庁長官を辞任した。

 明治26年(1893)4月1日、碓氷線は旅客4、貨物5の計9往復で営業を開始。線内には、丸山、熊ノ平、矢ヶ崎の各信号場が設置された。これによって官設鉄道・高崎―直江津間が全通した。碓氷線の所要時間は下り列車78分、上り列車80分。上野―長野間は8時間55分(下り)であった。


4.蒸気運転時代

開業

 明治26年(1893)4月、碓氷線は華々しく開業した。『開業のことなれば、乗客の数すこぶる多かりしが、たいていは軽井沢までにて、直にその汽車にて引き返した鉄道見物人なりしために、横川、軽井沢の両停車場は、僻地に似合わぬ賑わいなりき…』(読売新聞)と伝えている。この「碓氷嶺鉄道」の開業により、官設鉄道「高崎直江津間鉄道」が全通。東京と信州、日本海が鉄路で結ばれることとなった。
 碓氷線には、旅客4往復、貨物5往復の計9往復の列車が設定され、ドイツ・エスリンゲン(Esslingen)社製の3900型アプト式蒸気機関車が、最大6両の客車を、下り列車は推進、上り列車は牽引して運転した。最高速度は9km/h、途中の熊ノ平での交換・給水5分停車を含んで、横川―軽井沢間11.2kmを78〜80分要した。それでも、それまでの馬車鉄道(160分・下等40銭)よりもはるかに速く、運賃も中等20銭、下等10銭と安くなった。
翌年には、所要時間が上下75分に統一され、ちょうど善光寺御開帳の時期と重なって、旅客が増加した。貨物輸送では、繭と生糸が主力であった。

 開業を記念して、軽井沢駅駅頭には「碓日嶺鉄道碑」が建立された。後にこの碑は、大正12年(1923)の関東大震災によって倒壊し、永らく放置されていた。しかし、昭和29年(1954)、当時の横川保線区長小山五郎氏がそれを発見し、熊ノ平駅構内に再建。現在でもその姿を見ることができる。これとは別に、保存されていた拓本をもとにした複製碑が、昭和15年(1940)軽井沢駅前に建立されており、こちらも現存している。
この碑は、明治期の史学者で、漢詩文家重野安繹(1827〜1910)の撰文で、篆額は陸軍大将山縣有朋(1838〜1922)の筆によるものである。

蒸気運転の苦闘

 明治28年(1895)、官設「高崎直江津間鉄道」は「信越本線」と命名され、碓氷線も改めてその一翼を担うこととなった。しかし、急勾配と、26箇所を数えるトンネル、牽引力の小さいアプト式SLの輸送力では、貨物は滞貨を余儀なくされ、主力商品の繭が腐ってしまうなど、大きな影響が出始めた。旅客輸送においても、乗客は機関車が吐き出す煙によっての苦痛を余儀なくされ、乗務員も窒息や、気温差による貧血などで倒れる者が続出し、そのため、この区間に乗務する際には「危険手当」が支給される程であった。

隧道番

 このような「煙害」を克服するため、さまざまな施策が行われたが、そのなかで特筆されるのは、「隧道番(幕引き)」と呼ばれるものである。これは、列車がトンネルに入った際に、排煙が列車を追いかけてトンネル内に侵入するのを遮断するために、列車の最後部がトンネルに進入すると、間髪を入れずに排煙幕(R.F.トレビシック考案)を引くということを行った。そしてその要員は上記のように呼称された。そして、隧道番は家族とともにトンネルの横に住み、雨の日も風の日も一日交替の24時間勤務であった。作業中に機関車と接触して殉職する職員も出るなど、危険と隣り合わせで、今風に言えば「3k」の象徴のような任務であった。

明治29年(1896)碓氷線を通過する貨物列車に歯車付緩急車(ピフ)が連結されるようになった。ピフは貨車を改造してブレーキ用の歯車を装備した車両である。のちに旅客列車にも連結され、機関車故障時の補助制動用として、空気ブレーキの性能向上により昭和6年(1931)に廃止されるまで使用された。そのなかで蒸気ボイラーを装備した車両は、暖房車ヌ600型に改造され、昭和33年(1958)までその姿が見られた。

アプト式SL
 碓氷線開業から2年後、機関車の増強として、イギリス・ベイヤーピーコック(Bayer Peacock)社製の3920型機関車2両を輸入した。この機関車は前述のような煙害から乗務員を守るため、逆L字型の煙突を装備していたが、ボイラーの燃焼効率が悪く、間もなく撤去された。また、31年(1898)から同じくピーコック社製の3950型機関車が10両輸入された。
この3950型はアプト式標準機関車として3900型とともに全面電化まで使用された。3951号は引退後大井工場に保管されていたが、戦時中に鉄屑として供出され現存しない。
その後、貨物輸送の増加により39年(1906)から、3950型をモデルに大阪汽車製造合資会社製の3980型が6両製造された。しかし、図面がなく、スケッチをもとに製造するなどの悪条件もあり、性能もあまりよくなく、全面電化を待たずに廃車された。

逆行事故
 明治34年(1901)7月13日午後9時ころ、長野行き51列車が26号トンネルを通過中、突然大音響とともに機関車のスチームパイプが破裂し、蒸気が機関室内に噴出した。この際に機関助士2人が車外に吹き飛ばされてしまった。機関士は、非常制動をかけるとともに、ピフに乗り移ってブレーキを操作した。しかし、列車は停止せず、今度は勾配を逆行しはじめてしまった。機関士は機関車に戻って懸命に操作しているうちに、約1.9km逆行して、第18号トンネル東口付近で停車。乗客は歩いて軽井沢に向かった。この列車の乗客(40人)の中に、日本鉄道副社長の毛利重輔男爵とその三男助三郎氏が居た。毛利氏は技術畑の出身で、碓氷線の実情を熟知しており、逆行をはじめると、同乗の乗客たちに「みな、飛び降りよ」と言い残して父子ともに飛び降りた。しかし、毛利男爵は列車に轢かれて即死、子息もトンネルの壁に激突して死亡した。ほかに、機関助士2人は重軽傷を負った。いっぽう、列車が逆行する寸前に飛び降りた乗客は軽井沢まで無事に到着し事故を通報したという。翌日、毛利父子の遺骸は臨時列車で東京へ運ばれた。

明治37年(1904)5月3日、北越鉄道・直江津―新潟間が開通。これによって日本鉄道、官設鉄道、北越鉄道を経由して上野―新潟間がレールで結ばれ、1往復設定された直通列車は所要15時間40分(下り)であった。

パイプライン
 日露戦争後の工業の発展に伴い、石油の消費が増加するに従って、国産石油の産地である新潟から京浜工業地帯への石油輸送が碓氷線の重要な輸送品目となった。しかし、アプト区間の輸送力不足のため、軽井沢での滞貨は1日当たり36000リットルにのぼったこともあり、国産石油の滞貨は、外国産石油の輸入を呼び、多額の外貨を失うという深刻な問題のため、早急に解決を迫られた。
 そこで、迂回ルートである岩越鉄道(磐越西線)や篠ノ井線の建設を急ぐとともに、軽井沢から横川までの線路沿いにパイプラインを敷設し、勾配を利用して自然流下させることを計画した。そして、明治39年(1906)3月、総工費10万円をかけて、日本初の石油パイプラインが完成した。軽井沢と横川にはそれぞれ貯蔵タンクが設置され、直径107mmの鉄管を使用、急勾配による圧力でパイプの継ぎ目等から石油が噴出するのを避けるため、中間数箇所に受け桝を設けるなどの工夫もされた。5月から本格的に使用が開始された。このパイプラインでは最盛期年間17000トンを輸送した。その後、電化による輸送力の増加と、迂回ルートの開通により、87000トンの輸送実績を残して、大正3年(1914)10月に廃止された。
 その後、鉄管は掘り起こされて転用されたが、中尾川から熊ノ平駅の間は、熊ノ平駅の給水用に残され、昭和41年(1966)の駅廃止まで使用された。昭和61年(1986)に中屋栄氏が鉄管を旧線の廃線跡から発見し、日本鋼管が分析調査したところ、ドイツ・マンネスマン社から輸入された日本最古のシームレス・ジュート巻き鉄管であることが判明した。そして、現在は碓氷峠鉄道文化村に保存されている。(『月刊 上州路』91年5月号参照)

避線と複線化
 碓氷線の歴史が語られる際、必ずといっていいほど出るテーマは、横川―丸山(信)、矢ケ崎(信)―軽井沢間の複線化時期と、丸山信号所構内に設けられた「避線」に関しての議論である。
 これについては、各文献によって紹介されているが、記述がまちまちであり、これという説はなかった。そこで今回、それぞれの説を比較し仮説を立ててみた。
 まず、部分複線化の時期であるが、丹羽俊彦氏「信越本線 高崎−長野間建設と改良の記録」(『鉄道ファン』97/9)では、「…開業後間もなく…」と記述してある。いっぽう、中川浩一氏「碓氷峠100年:アプト式鉄道の形成」(『鉄道ピクトリアル』93/1)では、「…明治26(1893)年4月1日からそれぞれ複線で開業しているが…」という記述で食い違っている。このあたりは、小西純一氏「碓氷峠の鉄道をめぐる興味」(『鉄道ピクトリアル』97/8)で整理している。中川説の根拠となっている『日本国有鉄道百年史』別巻年表では、「横川―軽井沢間(7マイル)開通し、高崎―直江津間全通。同時に横川―丸山(信)間および矢ケ崎(信)―軽井沢間を複線として使用開始…」となっている。しかし、小西氏は「碓氷線の正式な報告である、渡辺信四郎『碓氷嶺鉄道建築略歴』にそのような記述はなく、付図から読み取れる線路は単線である…」と指摘している。また、小西氏は、『明治工業史 鉄道編』の「…複線工事は、明治34年には…横川−丸山間及び矢ケ崎―軽井沢間を竣工せり」という文章を紹介し、また、前述の『日本国有鉄道百年史』別巻年表でも、明治34年(1901)の項において「横川−軽井沢間丸山信号所および矢ケ崎信号所で単・複線区間接続点の連動装置使用を開始」という記述がみられることから、複線区間の使用開始は、明治34年(1901)4月とみて間違いない。
 また、「開業と同時に複線」という説を覆すものとして、明治30年(1897)10月の逓信省公文「横川軽井沢間一部複線敷設及熊ノ平避線設置」という文書が残っており、複線の敷設はこの時点で立案されたということの証左である。
 複線の完成時期については、高鉄運転史『轣轆114』によると、横川−丸山(信)の複線化完成は、明治33年(1900)7月となっており、使用開始時期とタイムラグがあるが、おそらくこのような流れになっていたのではないだろうか。

明治30年10月 複線計画立案
33年7月 横川―丸山(信)間完成
34年4月 矢ケ崎(信)―軽井沢間完成
〃 使用開始

 もう一つの話題である「避線」であるが、これは、66.7‰勾配内で、列車が逆行し、途中停車の望みがなくなったとき、列車を引き込んで自然停車させて脱線転覆を防ぐという効果をねらったもので、勾配が25‰から66.7‰に変わる丸山(信)の構内に、峠と逆の方向に200‰、延長 350mの引込線を設けた。これが「避線」である。『轣轆114』によれば、使用開始は明治29年5月となっているが、用途廃止の欄は空欄である。しかし、注記には「避線用地ハ昭和11年度民間ニ払下ゲ」というように記されている。ここで問題になるのは、用途廃止がいつであるかということであるが、これに明確に触れた文献は筆者が知る限りはない。したがって、正確には分からないが、小野田滋氏の「鉄道古文書に見る碓氷峠の鉄道」(『鉄道ピクトリアル』97/8)のなかに、題名だけであるが、明治35年(1902)の欄に「信越線丸山信号所及奥羽南線庭坂停車場ニ於ケル避難線撤去」という逓信省公文が紹介されている。したがって、この「避線」の用途廃止は同年ころと思われる。


5. 日本初の幹線電化

電化計画
 さまざまな施策を講じても解決しない「煙害」と慢性的な輸送力不足は、碓氷線の大問題であった。これを解消するため、パイプライン敷設や、重油の併燃などの対策を立てた。しかし、どれも目覚ましいほどの効果はなかった。
 明治41(1908)年に新設された鉄道院の初代総裁となった後藤新平(1857〜1929)は、碓氷線の電化を決断、翌年6月に電化計画が決定した。集電方式は、トンネル断面の問題から第三軌条方式をとり、直流650Vで、駅構内や機関区内では架空電車線による集電となった。
建設工事は、明治43年(1910)4月に開始された。なにしろ、電化は我が国初のことであり、ニューヨークセントラル鉄道を参考に、第三軌条の敷設を進めた。特に、トンネル内の工事は、煤煙やパイプラインの存在があり、困難を極めた。
 また、当時この地区に電気はなく、発電所と変電所も作る必要があり、横川に国鉄自営・出力3000kwの火力発電所が建設された。総工費76万円をかけて、総煉瓦造りの建物のなかには、8基のボイラーが1000kwの蒸気タービン直結発電機3基を運転。3相、25Hz、6600Vの発電を行った。現在は、タービンを冷却した貯水池の跡が残っている。ここで発電した電気を供給する変電所は、丸山と矢ケ崎に建設された。煉瓦造り2棟1組で機械室と蓄電地室に分かれていた。ここでは、峠に列車が居ない場合に蓄電し、峠を登る列車に放電して電力を補助した。丸山と矢ケ崎は共通設計の建物で、アプト線の廃止まで使用された。現在は、丸山の建物が残っており、最近整備され綺麗な姿を取り戻した。
 建設工事も佳境を迎えた明治44年10月から、ドイツ・アルゲマイネ社製10000型(後のEC40型)電気機関車が12両輸入された。日本初の電気機関車として、昭和11年(1936)まで碓氷線で使用され、4両が京福電鉄に譲渡され、記念すべき1号機は昭和39年(1964)に国鉄に戻って復元され、鉄道記念物として軽井沢駅に保存されている。また、2号機は京福電鉄で、昭和45年(1970)まで活躍した。


電化開業
 明治45年(1912)5月11日0時1分、貨物列車から電気機関車の使用を開始した。その後順次旅客列車を電気機関車使用に置き換え、貨物列車を蒸気機関車使用に変更された。電化によって、所要時間は49分に短縮され、牽引定数も140トンに増えた。
この「電蒸併用運転」は、電機が増備される大正10年(1921)まで行われた。「電蒸併用運転」の詳細と実態においては、いまなお不明な点が多い。

大正2年(1913)4月1日、北陸線直江津―米原間が全通により、京浜地区から北陸へのルートが完成された。そして早速、上野―富山・福井間にそれぞれ1往復の列車が設定された。さらに、4年(1915)3月25日には、上野―金沢、上野―(北陸回り)神戸行き列車が設定された。これによって、新潟直通列車は1往復に減便されたが、残ったこの列車は上野―新潟間を14時間で結んだ。翌年11月に、神戸行きは明石まで延長される。この時から、この明石行きと新潟行きには1等寝台車が連結されるようになった。6年(1917)3月1日、新潟行き夜行が、2往復になる。その内1往復は所要12時間35分になる。


6. 碓氷の険をさけるべく

軽井沢の発展と堤康次郎
 かつて、中山道の宿場町として栄えた軽井沢宿であったが、明治18年(1885)の碓氷新道の開通後は、寂れつつあった。しかし、19年(1886)、英国人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショウが、軽井沢を避暑地として世界に紹介。自身も21年(1888)に別荘を建て、それ以後、現在のように別荘地が立ち並ぶ世界有数の避暑地となった。
一方、軽井沢とともに、「浅間三宿」に数えられた沓掛・追分の宿場は、鉄道の開通後は同じようにさびれつつあった。
 大正4年(1915)早稲田の詰め襟にカンカン帽といういでたちの若い男が沓掛(現在の中軽井沢)駅に降り立った。その男こそ、後に西武グループの創始者となる、堤康次郎(1889〜1964)であった。彼は、軽井沢・沓掛両地区を擁する東長倉村村長・土屋三郎を訪ね、「別荘用の土地として村有地100万坪を譲ってほしい」と要請し、毎週のように村長を訪ねた。村長は、はじめは、半信半疑であったが、接しているうちに、寂れかけた村の再生を託することが出来るという確信を持ち始めた。
 当時の沓掛地区は、避暑地として脚光を浴び始めて、外国人の発音の都合から「KARUISAWA」から、「KARUIZAWA」への変化をとげた隣区軽井沢に対し、わずかに草津湯治客の玄関としての往来があったものの、草津軽便鉄道(後の草軽交通)の開業が迫っており、凋落は時間の問題であった。しかも、この地域はコメがとれず、古来からサービス産業を主体とした村だけに、宿場の凋落は村の存亡の危機であった。そのような背景から、土屋村長は堤に土地を売ることを決断する。
 しかし、沓掛の住民は、弱冠26才の若僧に、先祖以来の「入会地」を簡単に売るべきではないと、3分の2が反対に回った。また、地元の実業家で軽井沢の別荘開発にも携わっていた野沢源次郎に売却すべきだとの声も上がった。
 そして、大正6年(1917)12月23日、村有地売却に関する住民総会が開かれた。会議はもめにもめたが、「堤という男は本当にカネを持っているのか」という疑問に対して、堤はこの会議の場で、3万円(現在の10数億円)の現金札束を見せ付けた。この威力はすさまじく、住民の賛否は五分五分となった。議決は割れ、最終的には村長一任という形で劇的に可決をみるのであった。このあたりは、野球のスクイズを見るような緊迫感があふれている。
 ところで、この「見せ金」にはウラがあった。本当は、3万円の札束は、村長の信用で銀行から借りた1万5千円を上下に挟んだ、新聞紙の束であったのだ。もちろん堤は全く金を工面してないわけではなく、川崎文(後に堤の2度目の妻)という女性が、3万円を用意する手筈になっていたという。
 翌年、堤は前述の3万円を元手に、「千ケ滝遊園地株式会社」(資本金25万円)を発足させた。後藤新平の紹介によって、財界の大物藤田謙一を社長に招聘した効果によって、株価はたちまち値上がりした。「千ケ滝遊園地株式会社」の株は、50%が土屋村長他、開発賛成派の住民の名義となっていたが、実際は堤の持ち株であったため、わずか2年のうちに、資本金2千万円(当時、日銀の資本金が6千万円)の「箱根土地株式会社」を設立するほどの、驚異的な「財テク」をおこなった。
資金を確保した堤は、沓掛の開発に乗り出し、沓掛駅から千が滝まで、一直線の七間道路(幅13m)をつくり、電気、電話、水道を整備し、「簡易別荘」の名で、軽井沢とは一味違った「中流」を意識した別荘地となる。その後、鬼押し出しの開発などを進め、「西武王国」軽井沢を築いていったことは、読者諸兄ご存知の通りである。
 大正12年(1923)、東長倉村は町制施行により「軽井沢町」となり、沓掛駅は「中軽井沢」に改称された。


アプトの改良
 大正7年(1918)3月7日、下り191貨物列車が25分遅れで熊ノ平を出発し、第20号トンネル内で、モーターの異臭を感じ、列車を停止させて点検したところ、本務機(列車の最後尾に連結する)には異常がないため、再び発車しようとしたところ、列車は逆行をはじめてしまった。運転士は必死にブレーキをかけて制動を図ったが、発電ブレーキが故障して一切の制動が利かず、そのまま熊ノ平駅構内突込線岩壁に激突し、全車両脱線転覆し、破砕した。この事故により、熊ノ平駅上り線転轍手、ピフ乗務運転助士、後部車掌、本務運転士の4名が死亡。他6名が重軽傷を負う惨事となった。この事故の原因は今もってはっきりしないが、電気系統のトラブルという説が有力である。
 この事故の翌年、工学士平井喜久松は「あぶと式軌道改造案」を著わし、それに則った軌道の大改造が行われた。これにより、アプト式廃止までの軌道整備の基礎が完成した。その内容は、@鉄枕木を廃し、木枕木に変更。A枕木間隔を狭くして、本数を増やす。B軌道重量を60ポンドから75ポンドにする。Cラックレール断面の変更。が主要なものであった。

 碓氷線の全面電化を控え、機関車の増備の必要性が高まり、大正8年(1919)から、10000型をモデルに鉄道省が設計した10020型電気機関車が大宮工場で製造された。これは、日本初の国産電気機関車であるが、その性能は10000型を上回り、長く碓氷線で活躍した。
 この10020型には、前照灯が横川側の第1エンドにしかなく、軽井沢へ向かう下り列車の第3補機(列車の先頭)になるときは、わずか40wの第2エンド後部標識灯を使用して運転したという。
 100020型は大正12年(1923)までに14両が製造され、うち2両は昭和26年(1951)まで碓氷線で活躍。その他の12両のうち、2両は南海に譲渡される。また、東武日光軌道線にも2両が譲渡され、その内の1両、100029号機は軌道線廃止後国鉄に戻って復元され、昭和43年に準鉄道記念物として大宮工場に保存された。残る8両の内3両は、駿豆鉄道に譲渡された。のちに岳南鉄道に移って、もとの10030号機はED311として昭和47年(1972)まで活躍した。また、10032号機は、富山港線に転用されたがすぐに廃車。その他の車両は碓氷線で生涯を終え解体されている。

 大正15年(1926)には、近代化と機関車の大型化への試金石として、スイス・ブラウンボベリー社から10040型電気機関車が2両輸入された。この機関車は、最新鋭の機器を装備し性能がよく、昭和4年(1929)には、粘着運転の試験車としても使用された。そして、のちのED42型の基礎となり、昭和26年(1951)に廃車・解体された。

なお、昭和3年(1928)の称号改正により、機関車の形式番号が、EC40型(←10000)、ED40型(←10020)、ED41型(←10040)にそれぞれ改められた。



計画新線
 経済の発展に伴い、需要の要請に対して輸送が追いつかない碓氷線は、相変わらず輸送のネックであった。
このような状況のなかで、抜本的解決方法として、あちらこちらで碓氷峠を迂回する新線ルートが考えられた。

@高崎―水上―越後湯沢―長岡 228.9q
A渋川―長野原―嬬恋―上田 約90q
B高崎―下仁田―内山峠―中込 約70q
C高崎―下仁田―志賀峠―岩村田 約70q
D高崎―下仁田―田口峠―臼田 約70q
E飯能(西武)―秩父―十石峠―羽黒下 約100q
F新町―上野村―ぶどう峠―小海 約60q

このなかで特筆されるのは、これだけ多くの迂回線が計画された事実と同時に、この機を利用してわが村に鉄道を引こうという「我田引鉄」競争の現象である。この運動の経緯を説明する。
 まず、Aの計画は、長野原町が鉄道を誘致するために考えたが、嬬恋にまで鉄道を伸ばそうとしても、尻切れとんぼになってしまうため、長野県側の協力を受け、碓氷線の迂回ルートとしての使命を帯びさせることによって、政府を動かそうと考えたのである。長野原から要請を受けた上田市は周辺五村の賛成を取付け、群馬、長野双方から陳情がなされた。そして大正11年(1922)の第45帝国議会で、渋川―長野原間が予定線に組み入れられ、勢いづいた上田では、長野原―上田間の予定線組み入れを求め、「上信鉄道期成同盟会」を結成した。
 ちょうどこの年、高崎―下仁田間を結ぶ上信電鉄が、Bの下仁田から県境内山峠を越え、佐久地方の中込までの延長計画を発表した。この報を聞いた中込側は大喜び、そして、「この計画は碓氷線の迂回ルートにするため、国鉄として建設すべき」と、南佐久の各村に呼びかけ「中込高崎間鉄道期成同盟会」を創設、「上田に負けるな」を合言葉に陳情を繰り返した。
一方の上田も、振って湧いたような中込の計画に負けてならじと、連日陳情を繰り返した。
 しかし、鉄道省では、関東大震災からの復旧に予算を裂かざるを得ない状況にあったため、金のかかる碓氷迂回線の建設には消極的で、現在線の改良で乗り切ろうとの意向が強かった。
 このような鉄道省の思惑を察知したのは、上田、中込いずれにもつかずにいた岩村田町(現佐久市)であった。岩村田は、Bよりも予算が節約できるとして、CBの志賀峠越えのルートを計画し、陳情した。すると、南佐久の臼田町も名乗りをあげた。「北佐久「郡都」の岩村田が計画したのなら、南佐久「郡都」の臼田も計画するのは当然」という理由であり、これがDとなる。
こうして、距離もほとんど変わらない 3つの計画を携え、入れ替わりたちかわり鉄道省に陳情を繰り返したが、鉄道省としては「なんとか一本化できないものか」とこぼすばかりであった。

 さらに、昭和2年(1927)になると今まで動きをみせなかった羽黒下村(現佐久町)が、まったく新しい案を出した。それがEである、十石峠から群馬に入り、秩父に出、飯能で武蔵野鉄道(現西武池袋線)と接続する。そして、経営面では国鉄に頼らず、長野、群馬、埼玉三県の住民が、株式会社として運営しようという計画であった。
 これに対抗したのが小海村をはじめとする五村である。彼らは、北相木村からぶどう峠を越え、群馬県上野村を通って高崎線新町駅につなぐFを計画した。この計画は、むしろ山向こうの群馬県側から大きな支持を受け、群馬側と共同で誘致運動を起こした。
 結局、これら五つの運動は、その後の昭和恐慌による不景気と、満州事変に端を発する戦時体制強化によってあっけなく立ち消えとなってしまった。その後、戦後になって、昭和44年(1969)に西武鉄道が秩父まで開業して、「次は軽井沢へ」という声が出るまで、この地域に鉄道誘致運動は起こらなかった。


ED42型登場
 昭和6年(1931)9月1日、清水トンネル完成により上越線が開通、これによって碓氷線の負担も軽減された。
 その2年後、昭和8年(1933)に、碓氷線の輸送力向上と、老朽EC40、ED40型の取換え用として、ED42型が製造された。ED41型をモデルに、鉄道省と、国内の有力電気機関車製造メーカーが一体となって、いわば、当時の電気機関車製造技術の粋を尽くした車両である。ED42型は、その後22年(1947)まで28両が製造され、アプト式廃止の昭和38年(1963)年まで、碓氷線の主役として活躍した。また、昭和28年(1953)から、峠を下る列車に回生ブレーキを使用するようになり、現在の省エネ電車の基礎となっている。
 トップナンバーの1号機は準鉄道記念物として、横川駅に保存されていたが、昭和62年(1987)に動態に復元された。しかし、再び静態保存に戻されていたが、現在碓氷峠鉄道文化むらにおいて展示されている。また、2号機は、軽井沢町東部小学校に保存されている。


7. 新線への道

 敗戦後、公共企業体として日本国有鉄道が発足し、上野―新潟間ルートは、上越線がメインルートとなった。しかし、長野・北陸方面への足として信越本線の重要度は変わらず、復興の槌音と響きとともに、需要は再び増大しつつあった。そのような状態のおり、碓氷線史上最悪の大惨事が起こった。

熊ノ平の大惨事
 昭和25年(1950)6月8日、20時30分ころ、熊ノ平駅構内・第10トンネル西口の山腹が、3000立方bの土砂が大音響とともに崩壊、本線と上下突込線を埋没した。ただちに、熊ノ平駅職員をはじめ、変電所(昭和12年(1937)建設)職員が応急作業を開始、24時には沿線から保線区職員が非常召集され、救援列車などで続々と現場に到着し、 215人体制で復旧作業が進められた。小雨が降りつづける中、土砂の排出作業が行われた。作業は困難を極めたが、本線の開通を9日正午と目途を付け、職員官舎では朝食の準備が行われていた。
 その、9日6時6分ころ、一次崩壊箇所の上方から、7000立方bの土砂が突如崩壊、山津波となって、復旧作業中の職員、家族を襲った。土砂は一瞬のうちに70余名を生き埋めにし、職員官舎4棟を破壊。さらに、駅から150m下方の18号国道まで達して道路をも寸断した。すぐに、難を逃れた職員や各所から非常召集によって集められた人たちによって、救出作業が開始されたが、第三次災害の発生も懸念されることから、作業は難航した。土砂の運び出しは、行方不明者を捜索しているうちには、重機を使用できないため、人海戦術と、米軍の放水車によって進められた。その間にも、小規模な崩壊が起こったが、作業員に被害はなかった。
 復旧作業は、雨が止んだ14日から本格的に進み、本線の仮開通は20日からで、平常に戻ったのは22日からであった。
最終的にこの災害は、死者50、重軽傷者25を出す大惨事となり、熊ノ平駅長、熊ノ平変電区長も殉職した。
この熊ノ平駅の土砂崩れ大惨事に関しては、八木富男氏の『碓氷線物語』が詳しい。八木氏自身が、救援要員として二次災害現場で救出・復旧作業に携わった体験が克明に表現されている。
この事故の翌年、熊ノ平駅構内に、国鉄当局と、職員の浄財により、「熊ノ平殉難碑」と「母子像」が建立された。


碓氷白書
 戦後、迂回線計画が挫折した沿線市町村から、国鉄が発表した近代化計画に、信越本線の電化と、碓氷線の改良を加えることを求める運動が起こり、昭和32(1957)年2月には「信越本線改良促進期成同盟会」が結成された。そこでは、当面の対策として、熊ノ平駅のホーム延長と、軽量客車を増結することを要請した。
 一方、碓氷線を管理する国鉄高崎鉄道管理局でも、経済復興による旅客、貨物の需要増加に対して、輸送力は飽和状態に陥っている上、施設の老朽化が進んだ碓氷線の抜本的改良が必要と感じていた。そして、先述の熊ノ平土砂崩れ大惨事で、信越本線も12日間不通となり、この事故が、官民双方が碓氷線改良の決意を固める端緒となった。
 まず、夏季の多客時に乗客の重みによって、客車の床下機器とラックレールが接触する事故が頻発した、
矢ケ崎付近の「縦曲線(バーチカルカーブ)」を改良する工事が行われた。この工事では、先述の「碓日嶺鉄道碑」の再建に尽力した佐藤横川保線区長が過労のため殉職している。
 そして昭和31(1956)年 8月、高崎鉄道管理局は、碓氷線の窮状をまとめた「碓氷白書」を作成。関東支社を通じ、本社に上申した。
その要旨は、
@アプト線は輸送力が小ささと、その特異性ゆえ、輸送の隘路となっている。
(編成の9両制限、運転容量の飽和状態)
A 輸送力と運転速度、
(牽引力360トン、速度16km/hに起因する輸送力不足)
B 機関車の老朽化
(過酷条件下での酷使によるED42の老朽化)
保守作業の特異性
(軌道交換の困難、消耗の激しさ、
構造物の老朽化
(トンネル外壁の剥離など)
電力
(急勾配による電力損失、施設の老朽化、)
信号
要員
(一般線区と比較し、270人の負担増)
というものであった。
本社上層部も改良の必要性を認め、33年(1958)度予算に調査費を計上した。

議論再び
碓氷線の改良にいよいよ手がつけられることとなり、 以下のような案が示されたが、このうち、50‰案は、中途半端としてまず退けられ、長大トンネル案も予算上外された。それによって、25‰の関東支社案と、66.7‰現在線改良の2案が残った。

        延長  トンネル   工費
T
66.7‰線増設 11.5q 11個 5.3q  36億 長所:最短距離、工費節約、工期短縮
短所:補助機関車の付替が必要、
U
50‰別線    13.9q  10個 7.3q   56億
長所:66.7‰よりゆるい勾配で25‰線より工費節約
短所:地質が劣悪、新車開発が必要
V
25‰迂回別線 25.2q  28個 16.6q   71億
長所:補機無しで長編成運転が可能
短所:所要時間変わらず、工費莫大、トンネルが多い
W
25‰トンネル  22.4q  1個 15.0q   100億
長所:補機無しで長編成運転が可能
短所:日本最長(当時)のトンネル、軽井沢が地下駅化


国鉄本社はこれらの案を比較検討した結果、
@所要時間の短縮がなければ輸送のネック解消にはな らない。
A新幹線が現実になりつつある今、在来線改良に莫大な金を使うのは得策ではない。
B車両の粘着性能の進歩はめざましいものがある。
C予算が25‰案の半分(34億)である。
のような理由から、昭和34年(1959)8月25日、国鉄理事会において「アプト線に並行して一線を増設し、この線はアプトを使用しないで運転する」方針に決定した。

輸送力増強
昭和29年(1954)10月1日のダイヤ改正において、上野―金沢間に急行「白山」が新設される。これは、それまでの上野―直江津間準急「高原」の格上げと区間延長によって生まれたものである。これによって、上野−長野間は所要4時間39分となった。
昭和36年(1961)5月1日、上野―長野間に初のDC使用急行「志賀」が設定される。碓氷線のアプト区間を通過するため、エンジンを横形にし、空気バネ台車を装備したキハ57型が開発されて使用された。
また、10月1日の全国白紙ダイヤ改正においては、大阪―上野・青森間にキハ82型使用の特急「白鳥」が設定される。この列車は信越線初の特急列車で、これによって上野―長野間の所要時間は4時間を切り、3時間45分で結んだ。
37年(1962)7月15日、高崎―横川間の電化が完成し、夏季の臨時準急「軽井沢」が設定された。車両は80系電車を使用したが、碓氷線のアプト区間は入線できないため、横川―軽井沢間はバス代行運転となっていた。


新線開通とアプト廃止
 昭和36(1961)年4月5日、坂本小学校において碓氷新線の起工式が行われた。新線の工事は丸山(信)―矢ケ崎(信)間を3工区に分け、一斉に始まった。新線トンネルの掘削では、最新鋭の機械が導入され、工事は順調に進んだ。トンネルは11箇所、橋梁は17箇所となり、最大級の橋梁は、アプト線の第3橋梁より上流330mにかけられた新碓氷川橋梁である。
 昭和37年(1962)に入ると、丸山信号所から新線第1トンネルまでの2kmが試験線としてまず竣工し、新線用EF62・63型の試作機の各種性能訓練や乗務員訓練を行った。
 新線工事は順調に進み、昭和38年(1963)5月に竣工した。早速13日から、入線試験が開始された。試験運転で問題になったのは、貨車の自動連結器が壊れる事故が頻発したことである。これは、勾配区間で急ブレーキをかけたときのショックによるものであった。また、同じく急ブレーキ試験によって、編成の軽井沢側車両の台車が抜けたり、衝撃によって客車の蓄電池箱が振り落とされるなどの事故もあったが、これらの問題は連結器の緩衝容量の調整や、車両の改造によって解決を見た。新線の開業は7月15日と決まり、しばらくは、旧線と併用運転を行うこととなった。
昭和38年(1963)7月15日、碓氷新線の開業と、軽井沢―長野間の電化完成にともない、暫定ダイヤ改正が行われ、上野―長野間に80系臨時準急「軽井沢」が2往復設定された。
 碓氷新線の開通祝賀行事は、7月15日9時から横川機関区にて、EF63機関車の入魂式から始まり、横川駅ホームでは、10時18分発一番列車「軽井沢1号」の出発式が行われた。沿道では700人の住民がバンザイで出迎え、EF63には「祝・碓氷新線開通」のヘッドマークが輝いた。
その後、徐々に旧線から新線へ列車ダイヤを移行し、9月30日に全列車が新線に移行され、アプト線は廃止された。そして10月1日、碓氷新線の全面使用開始により、ダイヤ改正が実施され、165系8両編成による急行が8往復設定された。
 昭和38年(1963)の晩秋、横川機関区構内に、ED42のラック歯車を利用し、高崎鉄道管理局運転部長黒岩源雄氏の撰文、赤木管理局長の筆による「刻苦七十年」碑が建立された。現在も「横川鉄道文化村(仮)」として整備される予定の旧横川運転区構内に残っている。


8. 粘着運転の開始


 昭和38年(1963)7月15日、粘着運転方式による碓氷新線の使用開始と、軽井沢―長野間の電化完成による暫定ダイヤ改正が行われた。
これにより、80系電車使用の臨時準急「軽井沢」が運転開始され、臨時延長扱いで2往復が上野―長野間を結んだ。165系は横川・軽井沢駅構内が旧線・新線併用運転のため旧線の電圧 600Vのままになっていたため、全面切り換えまでお預けとなった。
その後、旅客列車から徐々に新線に移行し、9月29日限りでアプト式旧線の使用を廃止。9月30日に全列車を新線経由に切り換えた。
そして10月1日、ダイヤ改正を実施し、従来キハ57系使用の急行を165系に8両編成に置換え、上野―長野間に「信州」・「志賀」(長野電鉄乗入れ湯田中行併結)・「とがくし」(夜行)の計7往復が設定された。また、上野―直江津間にはDC急行「妙高」が存置された。

アプト式の廃止に伴い、ED42型機関車は全車廃車となり、旧線は粘着運転での複線化に備えて改修が着手された。この複線化の完成まで、新線による単線運転が続けられる事となる。

幻の草津アプト線
 碓氷のアプト線が消えた後、御役御免となったED42やラックレールを活用して、新たにアプト鉄道を建設しようという動きが現われた。
これは、草軽電鉄の廃止後、草津温泉へのアプローチをバスに頼ることに成ったため、輸送力の確保と新たな観光資源として、廃止になったアプト線のレールやラックレール、ED42型機関車を譲り受け、長野原線(現吾妻線)の長野原と草津温泉間の約10kmに渡るアプト式鉄道を建設する計画が持ち上がった。
 しかし、採算性の疑問や、碓氷アプト線の機関車や部品が老朽化のため二次使用に耐えられないということからこの計画は結局立ち消えと成ってしまった。


記念物として
 アプト式旧線は廃止後、日本最初の幹線電化の地ということから、文化遺産として注目されることとなった。
国鉄内部では、最初の電気機関車である旧EC40型の保存を計画し、譲渡されていた京福電鉄では、昭和39年(1964)2月にテキ 511(旧EC40 1)を廃車の上、国鉄松任工場に回送。さらに大宮工場に回送されて復元工事が施された。そして、8月から軽井沢駅前に展示され、10月14日には鉄道記念物に指定され、現在も保存されている。
昭和43年(1968)には、東武日光軌道線で使用されていた旧ED40 10号機が、国鉄に再譲渡されて、復元された。10月14日には国産初の電気機関車として準鉄道記念物に指定され、生まれ故郷である大宮工場に保存された。
草津での再就職がかなわなかったED42のうち、先述のとおり1号機は横川駅構内に準鉄道記念物として、2号機は軽井沢町立東部小学校に保存された。

40年(1965)10月1日改正で、それまで大阪―上野・青森間運転だったDC特急「白鳥」は、上野行の設定を廃止し、かわって金沢―上野間に特急「はくたか」が新設された。

横川―軽井沢間(正確には丸山(信)―矢ケ崎(信)間)の複線化工事で、丸山(信)―熊ノ平間は新線の南側に並行して新設し、熊ノ平―矢ケ崎(信)間は旧線を改修する形となった。複線工事は順調に進み、昭和41年(1966)7月2日より使用を開始した。それに伴い、丸山、矢ケ崎両信号所は廃止となった。また、それに先立つ2月1日には、熊ノ平駅が信号所に格下げとなっている。

昭和41年(1966)8月24日、直江津―長野間の電化が完成。それに伴う10月1日のダイヤ改正では、特急「あさま」2往復(田町区 181系8両)が設定された。また、上野―直江津間には165系急行「妙高」3往復が設定され、急行は計10往復体制となる。今改正により上野―長野間は所要3時間30分となった。


9. 協調運転の開始

169系しょーとひすとりー
 先述のように、碓氷線内の通過可能両数は、EF62牽引の客車列車の場合11両、電車の場合は8両に制限されており、これが粘着運転開始後も輸送力の増強を阻む新たなネックとなっていた。これを改良すべく、急行列車の12両化が計画され、オールM編成案、緩衝車連結案、協調運転案などが検討されたが、12両化程度の増結には協調運転が適当との判断が下された。
そこで、碓氷線内でEF63と協調運転を図るため、協調運転用機器を付加した165系900番台が試作され、昭和42年(1967)末から各種試験が行われたのち、量産形として 169系電車が製造された。
169系は74両が新製され、グリーン車・ビュッフェ車用に153・165系から改造された29両を加えて 103両の勢力であった。試作車165系900番台は169系900番台と改称された。また、169系以降、末尾の「9」は協調対応車に使われていった。
169系の特徴である協調機器とは、EF63の運転室からの指令で力行・ブレーキ制御ができるジャンパ栓引き通しの施行、空気バネパンク装置、ユニット動作表示機器などがあげられる。
169系は急行全盛時代の信越線の主役として活躍したが、急行列車の削減によってローカル運用に転出、61年(1986)11月改正で急行運用から全面撤退した。その後は団臨・波動・ローカル用として活躍していたが、老朽化により廃車が進み、現在は三鷹区に27両、長野所に15両、しなの鉄道に12両が在籍している。
また、 900番台は、先頭車が国鉄末期に電装解除され、クハ 455に改造された。それらの一部は、仙台区、大分区、鹿児島所で現役である。


輸送力増強と「あさま」時代
  43年(1968)10月1日の「ヨンサントウ」白紙ダイヤ改正では、169系電車のデビューにより、電車急行列車は、165系から169系に置換えられ、12両化が実現。列車名称も「信州」「妙高」に統合した。また、直江津行「あさま」が1往復設定され、3往復体制となった。さらに、複線化の延伸と路盤強化により 120km/h運転が開始。これによって上野―長野間の所要時間は最速3時間3分となった。
これに先立つ43年の夏季輸送では、 157系電車を使用した臨時特急「そよかぜ」が上野―中軽井沢間に2往復運転された。
「そよかぜ」はその後も季節列車として輸送を補完し続けた。「あさま」「白山」という「主役」に対しての名脇役として信越本線の在来線特急黄金期を支えた。充当車両は翌年から 181系となり、その後は 489系、189系、時には185系や14系客車などバラエティに富んだ車両で運転された。平均的に2往復程度が設定されていたが、末期は、上りのみ1本の設定であった。
44年10月1日改正で、特急「はくたか」が電車化され、同時に上越線経由に変更された。また信越急行に「志賀」の名称が復活した。
47年3月15日の白紙ダイヤ改正では、上野―金沢間の客車急行「白山」が特急に格上げされ、協調運転機器を 485系に付加した 489系電車が充当された。これにより、碓氷線を超える特急列車の12両化が可能となり、大幅な輸送力の増強がはかられた。また、10月2日改正では、「白山」を増発して2往復体制となった。(車両落成の遅れで運転開始は11月)
48年(1973)10月1日改正では「あさま」「白山」がそれぞれ1往復増発された。この増発「あさま」1往復には、 489系12両編成が充当された。


昭和50年(1975)3月10日改正で、「あさま」は 489系使用の2往復が増発。8往復体制となる。
41年(1966)の運転開始以来 181系の8両編成が充当されてきた「あさま」であるが、 183系1000番台に協調機器を取り付けた 189系が新造され、50年7月1日から置換えられた。当初は6M4Tの10両編成で運転を開始した。一方で急行列車にも斜陽が訪れ、51年11月限りで急行のビュッフェは廃止された。

昭和50年(1975)10月28日、粘着運転切り換え後の碓氷線で唯一の大事故が起こった。
午前6時20分ころ、上り単5462レ(EF63 5,9・EF62 12,35)が上り第1号トンネル出口付近で脱線し、全車左に転覆し築堤下に転落。機関士3人が重傷を負った。原因は過速度検知装置の故障と思われ、通常35km/hの制限速度のところ、事故列車のスピードは約60km/hであった。そのため、トンネル内のカーブで脱線して左へ傾き、トンネルの壁に接触しながら出口付近で転覆したと見られる。この事故を契機に碓氷線の各種保安装置が一斉点検された。なお、当該車両の4両は廃車となった。

昭和53年(1978)10月2日改正で「あさま」は10往復体制となり、 189系使用列車は12両編成化された。「白山」は6M6T編成から食堂車と付随車を普通車ユニットに置換えた8M4T編成になった。これは、降雪期に機器に故障が発生すると、自走ができずに機関車に牽引されるというトラブルが発生したための措置であった。急行では、すでにビュッフェが営業休止しているサハシを減車した11両となった。


北陸新幹線
 昭和45年(1970)に成立した「全国新幹線鉄道整備法」は、昭和47年(1972)の田中内閣の成立と同時に起こった「日本列島改造」ブームに乗って、その翌年にはいわゆる「整備新幹線計画」のなかで、東京―大阪間を北陸経由で結ぶ、「北陸新幹線」の整備計画が決定した。これが「北陸新幹線」計画の始まりである。
 当初、碓氷峠へは高崎から南回りで下仁田方向からアプローチし、軽井沢へ抜けるという、ちょうど現在の上信越自動車道にほぼ沿ったルートで越える計画であった。が、57年(1982)鉄道建設公団は高崎―軽井沢間のルートを南回りから、北回りに計画を変更した。群馬県はこれに猛反発したが、折衝を続けた結果、3年後の60年(1985)11月、新安中駅(現在の安中榛名)設置と、在来線の維持・強化を条件に北回りルートを承諾した。
その間、57年(1982)9月には「整備新幹線計画凍結」を閣議決定し、しばらく「北陸新幹線」は日の目を見ないことになる。

昭和57年(1982)11月15日、上越新幹線開業による白紙ダイヤ改正では、急行では長野電鉄乗り入れの「志賀」が廃止となり、「信州」5往復、「妙高」は夜行のみ1往復となる。
上野―福井間急行「越前」は廃止となり、上野―金沢間急行「能登」が上越線経由から信越線経由に変更された。
また、特急では、「あさま」が13往復になり、「白山」ではグリーン車1両を食堂車に置換え、食堂車が復活した。
昭和60年(1985)3月14日新幹線上野開業によるダイヤ改正で、信越線の昼行急行列車は特急格上げにより全廃。対北陸輸送体系変化によって「白山」は1往復が削減され2往復となった。また、1ユニットと食堂車を減車して9両編成となった。
一方「あさま」は格上げ分を含めて15往復に増発されたが、編成は5往復が12両で存置されたものの、9往復は平常期9両、多客期12両に、残り1往復は 489系使用の9両の体制に変更された。
61年(1986)11月1日、国鉄最後のダイヤ改正では、「あさま」が2往復増発され17往復となったが、全列車9両編成に減車された。また、夜行急行「妙高」は 189系に置換えられ、上野口から 169系が撤退した。

昭和62年(1987)4月1日、日本国有鉄道は分割民営化され、碓氷線は東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎運行部(現高崎支社)の傘下に入ることと成った。なお分割民営化に先立つ3月1日には、職制改正により、横川機関区は横川運転区に改称されている。
この年昭和62年(1987)は、碓氷線が電化されてから75周年ということから、10月17日、25日に「碓氷峠電化75周年記念行事」が行われた。それに際して、横川駅構内に保存されていたED42 1号機を整備し、動態に復元。展示運転を行った。

63年(1988)3月13日JR発足後初のダイヤ改正では、「あさま」は「そよかぜ」の1往復を延長して18往復体制となり、編成も8往復が11両に増強された。また、この年の10月から、「ラウンジ&コンビニエンスカー」などを連結した、金沢運転所「白山」用 489系のアコモデーション改善車が登場した。


10. 廃止論

 昭和62年(1987)1月、整備新幹線計画の「凍結解除」が閣議決定し、それを受けて運輸省はJR各社に意見を照会した。12月17日、JR東日本は政府に対して、北陸新幹線の事業化の前提として、「特急急行の旅客が新幹線に移ることで同区間の需要がほとんど見込めなくなり、急勾配区間を重複して運行するのは経営上負担がかかる。」碓氷線の廃止を提示した。
 これに対して地元の群馬県松井田町では、この報に驚き、年明け1月に早速町議会において廃止反対を決議すると共に「在来線廃止反対特別委員会」が設置された。また、2月には行政・議会・住民団体など 220名による「在来線廃止反対対策協議会」(以下・対策協議会)が設置された。
松井田町では町をあげた廃止反対運動に動き出し、署名運動では3万5000人の反対署名を集め、廃止反対町民大会では4100人の参加があった。
また、運輸省・国会議員などに陳情を繰り返し、在来線と新幹線の「分離論」を訴えた。
 しかし、天皇重体の報に列島が自粛ムードに包まれていた昭和63年(1988)11月29日、JR東日本は、政府・自民党整備新幹線建設促進検討委員会に碓氷線の廃止を正式に申請した。廃止の理由として「@新幹線開業によって1日2万人の利用が170人程度になる。A新幹線開業後の収支は10億円の赤字となる。Bバス代替輸送が現実的」という主張であった。
 年が明け1月7日、天皇崩御・新天皇即位によって「平成」と改元された。
 その喪が明けぬうちの1月17日、政府・自民党整備新幹線建設促進検討委員会において、北陸新幹線高崎―軽井沢間の平成元年度内着工と、「適切な代替交通機関を検討し、その導入を図った上で新幹線開業と同時に廃止する。代替交通機関については関係者(運輸省・JR東日本・群馬県・長野県)で協議する。」として、碓氷線の廃止を決定した。これにより、JRによる鉄路存続の道は事実上閉ざされ、鉄道を存続するためには第三セクター経営等に頼ることになった。

「廃止反対」から「鉄路存続」へ
平成元年(1989)8月2日北陸新幹線高崎―軽井沢間の起工式が挙行された。群馬県としては、新幹線のルート変更の際に結んだ「在来線の維持強化」という約束が反故にされたという怒りもあり、群馬県知事が欠席するなかでの着工であった。

9月になると「並行在来線対策群馬県協議会」が発足し、鉄路存続方針を確認した。
また、運輸省・JR東日本・群馬県・長野県による第1回「代替輸送協議会(四者協議会)」においては、群馬県が鉄路存続を強硬に主張したのに対し、長野県は消極的で、運輸省とJRはバス代替を主張した。 JRによる存続が不可能になってからは、それまでの反対姿勢に比べて各地域において若干の「温度差」が生じてきた。
長野県側では、碓氷線よりむしろ軽井沢―長野間の新幹線が「フル規格」になるのか「ミニ規格」になるのかという問題の方を重視していた。そして、平成2年(1990)12月、その結論は「1998長野冬季オリンピック」の開催決定という追い風もあり、「フル規格」での着工が決まった。そして、軽井沢―篠ノ井間をJRから分離し第三セクターで運営することとなった。ルートから外れて当初反発した小諸市や御代田町も翌年には受け入れた。

 松井田町では、シンポジウムの開催や鉄道文化財の調査などによって、「鉄道啓蒙運動」を展開した。また、町が主宰して学識経験者を集めた「信越本線鉄道輸送方策調査委員会」を発足させて、急勾配車両の研究と、利用度調査、廃止の場合の問題点などを検討した。
 平成3年6月に刊行された「信越本線鉄道輸送方策調査委員会平成2年度調査報告書」では次のような提案をしている。
 まず、車両については、スイスにおける60‰補機なし直通電車の事例を挙げ、長大編成の必要が無ければ、補機なしで走れる車両の開発は技術的にも充分可能で、経費もJRの試算よりもだいぶ節約できるとした。
次に利用度問題では平成2年(1990)夏に、横川・軽井沢で行ったアンケート調査において、多くの利用者が新幹線開業後も在来線が存続すれば在来線を利用すると答えている(普通列車利用者の80%、特急利用者の42%)ことから、代替鉄道でもある程度の需要を見込めるとした。
さらに、廃止後の問題点として、東京―大宮間の新幹線線路容量の問題や、東京―軽井沢という区間利用者の安価な選択肢を奪うことになること、輸送の「安全弁」確保の問題をあげている。


 このように、新たな需要創出という視点からの存続検討がされているさなか、平成3年(1991)8月29日の第2回四者協議会では、碓氷線普通列車の通年輸送量調査の結果が公表された。その結果は、1日平均乗車人員 967人で、廃止によって影響を受けるのは 184人という数字であった。この数字自体をみると、碓氷線を一区間とした場合、184人という数字は、旧国鉄の赤字線のなかでも低い部類である。
ただ、この数字には先述の「鉄道輸送方策調査委員会」が出したような、この区間以外の利用者の状況や現状のダイヤ編成の問題などを勘案していないため、必ずしも正鵠を射ているものではなかった。
 しかしながら、この四者協議会の結果が、これ以降の存続運動での試算基準となって独り歩きしていくことになる。

 平成4年(1992)に入ると、全国各地で整備新幹線と並行在来線の問題が持ち上がり、その影響から、鉄路存続運動はやや広がりを見せ、安中市や妙義町でも鉄路存続に動きを見せ始めた。
 平成5年(1993)は大きな年となる。まず、松井田町では、5月21日の「対策協議会」において、「うすいネイチャーランド21」計画を公表した。
これは、地域振興の一環として、碓氷線代替鉄道を中心に、鉄道博物館や霧積大規模公園、坂本宿や碓氷湖の整備、鉄道文化財の森などの沿線開発を行い、新駅も設置して代替鉄道の利用者増を狙う壮大な計画であった。
また、本年から翌年にかけて、旧アプト線の丸山変電所跡や丸山―熊ノ平間の煉瓦造りの構造物(随道・橋梁)が相次いで近代化遺産として国の重要文化財に指定された。

話が前後するが、同年9月8日の「対策協議会」では、「横川・軽井沢間代替鉄道事業成立可能性調査」を平成5年度に行うこととして、@現状輸送量を前提とした輸送需要と収支 A沿線開発による利用増を想定した調査 B高崎―軽井沢間一括経営を想定した調査が実施されることとなった。


平成4年(1992)3月14日のダイヤ改正では、長岡接続特急「かがやき」の増発により、「白山」はついに1往復となり、その代替として上野―直江津間に「あさま」が1往復増発され、19往復となった。
平成5年(1993)3月18日改正では、上野―金沢間客車急行「能登」が電車化され 489系が充当されることになった。また、上野―長野間夜行急行「妙高」が廃止され、対長野圏を結んだ急行列車は全廃された。この改正以降は大きな動きはなく、碓氷線最期の日を迎える事になった。


鉄路存続断念
 平成6年(1994)は、「四者協議会」も「対策協議会」も開催されず、比較的穏やかであったが、碓氷線の鉄道資産の扱いについてJR側は、廃止後の有償譲渡を通告し、それには19億円の費用がかかるため、存続運動の大きな打撃になった。
 平成7年(1995)3月、群馬県議会において、平成5年度に実施された「横川・軽井沢間代替鉄道事業成立可能性調査」の結果が公表された。
これの@にあたる現状輸送量の前提調査では、運賃500円として、1日の平均利用者は352人との試算で、JR資産の有償譲渡やバブル崩壊による低金利によって、初期投資は151億円との試算になった。
この結果をきっかけに県議会では財政的に鉄路存続は困難という意見が出始め、9月の並行在来線関係市町村課長会議では、地元負担の過重に猛反発がおきた。
 しかし、この調査は本当に正確だったのだろうか。1日平均利用者352人という数字は、旧興浜南線や旧万字線と同程度である。
この数字の算出方法の基準として、さきに問題にした「四者協議会」の数字を利用しているのである。この前提を変えていない時点で、すでに狂いが生じているように思われる。特に、碓氷線の普通列車利用で最も多い、高崎以遠から軽井沢・小諸方面への「定期外旅客」が、新幹線開業後は10分の1になるという予測には、在来線から新幹線に乗客を「シフトさせなければならない」というJR側の作為さえ感じてしまうのは下衆の勘繰りであろうか。そうでなければ、首をかしげざるを得ない。


「信越本線鉄道輸送方策調査委員会」のアンケートにみられる「在来線ニーズ」のデータはここでも省みられることはなかった。
また、沿線開発による需要増を想定した調査結果(A)は、初期投資が@より多いとして、問題にされなかった。

そしてついに、7年(1995)10月15日の記者会見で小寺群馬県知事は、「廃止もやむを得ない」と発言するに至る。沿線自治体からは、当然反発の声が上がったが、現実問題としてのタイムリミットが迫っており、次第にあきらめの色が濃くなっていった。
そして年が明けて平成8年(1996)1月11日、「四者協議会」において、碓氷線のバス代替が正式に決定され、鉄路存続は断念することとなった。
これによって、松井田町の「廃止反対対策協議会」も解散した。
存続断念後、松井田町では横川周辺の開発プランを公募したり、シンポジウムを開くなどして、廃止後の地域振興・活性化の施策を模索し始めた。
そのなかで、横川運転区の跡地利用と駅周辺の活性化を図るとして、鉄道のテーマパーク建設が具体化され、平成9年(1997)7月には「横川鉄道文化むら(仮)」開設準備室が設立された。そして、9月のイベントでは来場者に対するアンケート調査なども行われた。

廃止が正式決定されると全国各地から、鉄道ファンが碓氷峠を訪れはじめた。その数はだんだんと増え始め、名撮影地には人があふれた。
一方で、不心得な者による盗難や、列車直前横断、マニア同士の喧嘩などのトラブルが頻発するという悲しい一面も目立ってしまった。

平成9年(1997)になると、「新幹線の名称『あさま』の決定」、代替バスの運行はJRバス関東が担当などさまざまな具体的スケジュールもだんだんと発表された。
5月、7月、9月には、「さよなら碓氷峠イベント」が行われ、碓氷線は最後の夏の賑わいを迎えた。

そして、平成9年(1997)9月30日。つめかけた多くの鉄道ファン、地域住民、マスコミ関係者が見守り、TVで全国中継されるなか、碓氷線は開業から 104年におよぶ歴史の幕を下ろした。同時に碓氷線を走る列車を支えた横川運転区も廃止され、碓氷線の中間にあった熊ノ平信号場も廃止となった。
翌10月1日、北陸新幹線・高崎―長野間が開業。「あさま」の最速列車は東京―長野間を1時間19分で結ぶようになった。


終章. 挽歌
 
 碓氷線廃止という結論には、「整備新幹線問題」という重い政治的問題とともに、群馬県が自家用車所有率全国一という背景や、県境地帯特有の世論の温度差などという複雑な事象が絡まりつつ導かれてしまったということが、これまでの研究の中で浮き彫りになってきた。
廃止という事態に至ったことは非常に残念である。しかしながら、私はこれを、「復活」が起こるためのプロローグと捉えたい。
碓氷線は日本初のアプト式鉄道であり、日本初の幹線電化区間でもある。そして電車と機関車の協調運転を行った区間でもある。この輝かしい歴史に、「復活」という形でまた新たな一ページが加わることを願わずにはいられない。
横川から軽井沢への鉄路は、表面がうっすらと錆びてはいるが、いまだ輝きは失っていない。いつの日か、いや近い将来、ここに何らかの形で不死鳥のごとく復活することを思い浮かべつつ、3回にわたった本稿の結びとする。

平成11年11月―碓氷線廃止から2度目の秋に


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