社会学の日本はじめて事情(人物編)

2.外山正一

 前回は「社会」という日本語の発祥者福地源一郎について書いてみたが。今回は「社会学」という言葉を日本語に生んだ、歴史の浅い言葉でしかも翻訳語である。その意味することは何なのかを考えるとなると、とても一言で言い表せない。そこでここでは、「社会学」という日本語が定着するに至ったきっかけを作りあげた人物について、そのキャラクターを紹介したい。

外山正一 1848年−1900年

 嘉永元年(1848)9月27日、旗本外山孫兵衛の子として江戸・小石川柳町に生まれる。幼名は捨八、後にゝ山(ちゅざん)と号した。蕃書調所にて洋学を学び、16歳で開成所教授方となる。1866(慶応2年)幕府派遣留学生としてイギリスに派遣されるも、68年明治維新に伴い帰国、駿府静岡学問所教授となった。
 明治3年(1870)外務省弁務書記出仕となり、森有礼の随行として渡米するが、現地にて学を志して、外務省を退官。留学生となりミシガン州のハイスクールを経て、ミシガン大学に入学。哲学・化学を専攻した。明治11年(1876)化学科を卒業して帰国。東京開成学校5等教授になり、有機化学を教え、翌年合併により東京帝国大学が設置されると。唯一人の日本人教授として、英語と心理学を担当。とくに進化論の鼓吹に力を注ぐともに、後に社会学と哲学を講義、文学部長を歴任した。
 明治15年(1882)『新体詩抄』を井上哲治郎やアメリカ留学仲間の矢田部良吉と発表。「ポエトリー」を「新体詩」として移入したことで文学史上にも大きな足跡を残す。21年(1888)文学博士。明治26年(1893)
東京帝国大学に社会学講座が創設されるとともに、講座担当主任となる。30年(1897)東京帝国大学総長、翌年には、伊藤博文内閣の文部大臣となった
明治33年(1900)3月8日没・享年53。初の東京帝国大学名誉教授谷中墓地に眠る。

『演劇改良論私考』(1886・明治19)

『日本絵画の未来』(1890・明治23)
『新体詩歌集』(共著 1895・明治28)
『民権弁惑』(1880・明治13)
『日本知識道徳史』(1895・明治28) 著作多数

『外山正一史料目録(東京大学史史料目録 2)』(東京大学百年史編集室1977・昭和52)
建部遯吾・三上参次編『ゝ山存稿』


 
一言で言えば、近代国家として歩み始めた明治日本を代表するマルチな知識人といえる。そしてその功績やエピソードにはユニークなものも多い。(「トリピア」的なものも多いが・・・)
 たとえば、「万歳三唱」という風習は外山正一発案といわれる。
西欧における「Long・live・the・King!(ロング・リヴ・ザ・キング)」「Long・live・the・Queen!(ロング・リヴ・ザ・クウィーン)」(王バンザイ・女王バンザイの意味)、またフランスでは「Hourra・le・France!(ウィラ・ラ・フランス)」(フランスバンザイの意味)に対し、日本でも祝福の言葉を考えようという事になった。
 明治22年(1889)2月11日の大日本帝国憲法発布式の慶祝の際、宮城外にて陛下をご奉迎するにあたり、どのような言葉で陛下に対し慶祝の発声をしたらよいか議題となった。なぜかと言うとそれまで日本には一同で慶賀を発声する統一された言葉がなかったからである。文部省から「奉賀」という案が出ましたが、続けて発声する「ぁほうが」と聞こえ「ピン」とこないので落選。 次に臨時編年史編纂掛のほうから「萬歳」の提案が出て、それでいこうということになった。しかし今度は「ばんぜい」では「パット」しない。また「まんざい」では漫才みたいで厳粛さがない。そこで外山正一博士から漢音と呉音を交えて「バンザイ」としたらどうかという意見が出て、協議の結果全員一致で賛成となり、いよいよ11日の当日、発案の外山博士が音頭をとって二重橋外において陛下奉迎の際、声高らかに「バンザイ」を発声したのが最初といわれている。

 また、文学的にも有名な『新体詩抄』には、「社会学の原理に題す」という作品も収録されている。この中の一節「政府の楫(かじ・舵)を取る者や 輿論(よろん)を誘ふ人たちハ 社会学をバ勉強し 能く慎みて軽卒に 働かぬやう願ハしや」というところなど、120年前の言葉にも関わらず、 イマに当てはまる言葉ではないかと感じる。
 同じ『新体詩抄』には、『抜刀隊の詩』が収録されています。抜刀隊とは、明治10年、西南戦争の際、薩軍に対抗して明治政府が組織した「警視庁巡査抜刀隊」をさしています。
 西南戦争勃発後、政府軍の苦戦の原因に、近代装備であっても召集された武士出身ではない兵隊が、地の利を生かし斬り込んでくる薩摩の武士に対して戦えないという問題があった。そこで、武士出身者の多い警察官から斬り込み部隊として100余名からなる「抜刀隊」を編成したわけです。警察官の中には、明治維新時の戊辰戦争の際に賊軍とされた幕臣、東北や新潟、会津出身者も多数おり(新撰組の元隊士も)、彼らの新政府への微妙な感情を薩摩へに転嫁させ仇討ちの機運を盛り上げようという意図もあったようです。彼らは日本警察の父と呼ばれる薩摩出身の川路利良大警視の指揮下で数々の武勲をあげ、政府軍の勝利に大きく貢献する事になりました。(そのため川路大警視は鹿児島での名誉回復はここ10数年前まで待たなければならなかった)その活躍を外山正一が詠んだのがこの詩です。

1.
吾(われ)は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ  敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従うつわものは 共に慄悍決死(ひょうかんけっし)の士  鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起こせし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

2.
皇国(みくに)の風(ふう)ともののふは その身を護る魂の 維新このかた廃れたる 日本刀(やまとがたな)の今更に
また世に出ずる身のほまれ 敵も味方も諸共に 刃(やいば)の下に死ぬべきぞ 大和魂あるものの
死すべき時は今なるぞ 人に後(おく)れて恥かくな 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

3.
前を望めば剣なり 右も左もみな剣  剣の山に登らんは 未来のことと聞きつるに
この世において目(ま)のあたり 剣の山に登らんは 我が身のなせる罪業(ざいごう)を 滅ぼすために非ずして
賊を征伐するがため 剣の山もなんのその 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

4.
剣の光ひらめくは 雲間に見ゆる稲妻か 四方(よも)に打ち出す砲声は 天にとどろく雷(いかずち)か
敵の刃に伏す者や 弾に砕けて玉の緒の 絶えて果敢(はか)なく失(う)する身の 屍(かばね)は積みて山をなし
その血は流れて川をなす 死地に入るのも君のため 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

5.
弾丸雨飛(うひ)の間にも 二つなき身を惜しまずに 進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
果敢(はか)なき最期を遂ぐるとも 忠義のために死する身の 死して甲斐あるものなれば 死ぬるも更にうらみなし
われと思わん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

6.
吾(われ)今ここに死なん身は 国のためなり君のため 捨つべきものは命なり たとえ屍は朽ちるとも
忠義のために死する身の 名は芳しく後の世に 永く伝えて残るらん 武士と生まれし甲斐もなく
義のなき犬と言わるるな 卑怯者とな謗(そし)られそ 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし



 この歌詞を見てみると、漢字廃止論を唱えて「羅馬字会」(ローマ字)を設立したり、女子教育の充実や公立図書館の整備などを主張・指導した急進的改革者のイメージが強い外山であるが、自らも武士の出身という事で近代戦の中の刀と刀の戦いという情景の読み方はある種のノスタルジーさえ感じさせます。「古今無双の英雄」と反乱軍である西郷軍をもたたえるほどです。このような歌詞を作り出した外山に代表される感覚こそ、スペンサーのいう「漸進主義」による進歩という主張を、維新後の第二世代の明治の要人たちが受け入れて行った素地になっているのではないかなどと感じます。
 この詩に、日本の軍楽向上のため来日していたシャルル・ルルーが曲を付け、明治18年(1885)明治天皇の御前で演奏された。明治大帝はことのほかお気に入りになりアンコールを求めたという。その後、明治35年(1902)陸軍が分列行進曲として採用した。
 ちなみにこの曲は、現在でもニュース映像などに残る、昭和17年雨の神宮外苑「学徒出陣」壮行会の行進に流れていた曲です。そして敗戦後、外征を題材とした軍歌は侵略的として公式な舞台から姿を消しましたが、国内の戦いを歌ったこの曲は現在でも自衛隊の隊歌として観閲式などで演奏され、生き続けている。

 
さて、社会学の関係でいくと、彼は「スペンサー輪読の番人という異名を」頂いているとおり、スペンサーの社会学を日本に紹介したことが特筆されている。外山は明治11年アメリカから帰国し、東大の前進開成学校で教壇にたった際に、スペンサーの社会学を講義し、著書を用いたとされている。なお、アメリカでの最初の社会学講義はその前年に、W・サムナーによってエール大学で行われたとされている。
 そして、東京帝国大学が新設されると、外山も邦人初の教授に迎えられる。明治13年にはフェノロサによって政治学の基礎としてスペンサーの社会学が講義され、1881年には「世態学」という名称のもとで正課となった。
1893年 東京大学に社会学の講座が創設され、外山が最初の講座担当となった。
ちなみにフランス・ボルドー大学文学部に「社会科学」の講座が新設され、E・デュルケームがフランスで最初の社会学を講義したのはその3年後の1896年のことであった。したがって外山は日本初の社会学を講義した日本人といわれているのであります。


参考

新睦人他『社会学のあゆみ』(有斐閣新書)
中島重『スペンサー』(三省堂)