倉木麻衣は宇多田より強い?
最近は収まったようだが、歌番組での浜田雅功の発言から「倉木麻衣は宇多田ヒカルのパクリか」という論争があった。私に言わせれば似て非なるものであって、そこまで目くじらを立てるなら、私の耳には、今年リリースされたキロロの曲の一節は、永井真理子の『ZUTTO』とほとんど同じ旋律であり、ラヴ・サイケデリコの曲でも、サビの部分の曲調が華原朋美の『hate tell a lie』によく似ているように聞こえてしまう。
話が横道にそれた。ここで言いたいことは、宇多田よりも倉木のほうが「強い」、もっと端的にいえば日本では倉木のほうが「受ける」のではないかということである。この「受ける」定義は難しいが、日本人の心をどちらがつかみやすいかとでも表現しようか。
宇多田ヒカルがチャートをにぎわせるようになったのは99年の春先からである。その後のファーストアルバムの爆発的な売れ行きなど、99年は宇多田旋風があったといっていいだろう。藤圭子の娘という話題性も手伝って、マスコミにも「天才」的文脈で伝えられた。しかし、テレビの歌番組に出るようになると、それと同時に『バリバリ日本人じゃん』という本人の言動とは裏腹に、いわゆる日本人とは「ちょっと違うな」という印象、流行語にたとえれば「グローバル」な「ネオ日本人」的印象を与えたことは間違いない。
そして99年末、先行的に全米デビューした倉木麻衣が、日本で『love day after tommorow』をリリースした。このような全米デビューというある意味余計なことをして「パクリ」のイメージを結果として創出してしまったことは、倉木の販売戦略の中で評価できない部分だと思う。しかし、じわじわとチャートを上昇し、その余勢をかって人気アニメの主題歌などにも起用され、続けて出したシングルもそこそこの売れ行きをみせた。そこでの「パクリ」発言である。それを契機に論争となったのだが、そのようなバッシングを吹き飛ばしてしまったのが、NHKの連続テレビ小説の主題歌と、例の「父親騒動」の相乗効果である。「どうしようもなくダメな父親のせいで苦労をしてきて、いまやNHKの主題歌になるようなミリオンヒット歌手」という古ぼけたストーリーが、事実として、しかも大衆の好奇心の象徴である「ワイドショー」を舞台に展開されたことは、論理を超越した義理人情の世界に論争の舞台が移ったことで、図らずも、倉木をこれまで以上にメジャーにした。要するに、この件をきっかけにそれまでのただ「第二宇多田」的な地味さから、浪花節的なバックグラウンドをもった地味さへの脱皮によって、倉木麻衣という大衆イメージが固まり、それはむしろ倉木にとって有利に働いたのではないかと思うのである。
興味深いのは、倉木がミディアム・テンポの曲調をある程度守っているのに対して、宇多田の方が「変化」を迫られているように印象付けられた。現に、月9の主題歌としてヒットした宇多田の新曲は、かつての『automatic』や『first love』に比較して、むしろ「倉木色」を払拭したアップテンポの曲でなのである。
それではここで「理論と実証」を旨とする社会学っぽくデータで見てみることにしよう。まず、現在までのCDの売上枚数であるが、ファーストアルバムは宇多田761万枚(99年度アルバムセールス1位)に対して、倉木350万枚(00年度アルバムセールス1位)である。シングルでは宇多田が6曲で合計840万枚(一曲平均140万枚)、倉木が同じく6曲で452万枚(一曲平均75万枚)と、いずれも宇多田がダブルスコアで倉木を圧倒している。にもかかわらず、倉木がこれだけの存在感を示したのかといえば、単なる「パクリ」論で片付かない先述のような理由があろう。それをデータで補うならば、2000年リリースを見てみると、宇多田が2曲のリリースで254万枚に留まったのに対して、倉木は5曲で314万枚を売り上げた。つまり2000年に限っていえば、曲数、販売枚数とも倉木が勝っているのである。そしてデビュー1年目を比べるなら、宇多田の586万枚には及ばないが、倉木の452万枚もとてつもない数字なのである。爆発的にヒットして記録などの話題性を利用してさらに数字を伸ばした宇多田と、じわじわとヒットし、じわじわと収まっていくロングセラー傾向の倉木という対称も見られる。
これらを総合してみると、宇多田ヒカルのあっけらかんとした、絵に描いたような「メリケン」イメージに対して、倉木麻衣ののどこかミステリアスで影がある、ある種演歌的なバックグラウンドを想起させる哀愁イメージでは、倉木がやや有利といったところだろうか。
このような予想がどうなるかは、これからの倉木の露出展開次第である。すでに彼女は4月から立命館大学産業社会学部の学生となり、今までと若干曲調が異なるややアップテンポの新曲をリリースし、それを引っ提げて夏にはライブを行っていくそうだが。彼女がどのような社会学にタッチするのかをも含めて、目が離せなくなるだろう。