社会学の日本はじめて事情(人物編)

1.福地源一郎(福地桜痴)
 
「社会」そして「社会学」という言葉は、歴史の浅い言葉でしかも翻訳語である。その意味することは何なのかを考えるとなると、とても一言で言い表せない。そこでここでは、「社会」そして「社会学」という日本語を作りあげた人物について、そのキャラクターを探ってみたい。
 そもそも、日本において「社会」という言葉を公的に使用したのは、福地源一郎という男といわれている。では彼はどのような生涯をおくり、なぜ「社会」をひねり出していったたのか。その生涯に触れることによって探っていきたい。

 福地源一郎は天保12年(1841)3月23日、6人の姉を持つ長男として長崎に生まれた。幼名八十吉といい。父親が医師であったことから14歳から蘭学を学び、安政5年(1858)軍艦奉行谷田堀景蔵の推薦で江戸に出府。英文学者森山多吉郎に師事して英語を学んだ。いっぽうでは吉原の魅力に惹かれ、生涯「江差第一風流才子」を自称した。万延元年(1860)幕府御家人に昇格し、英語通訳として開国後の幕府外交に関わる。翌年、福沢諭吉らとともに幕府使節として渡欧、この際訪問先のロンドン、パリにおいて新聞に感動し、ジャーナリズムの重要性を認識、後の人生に大きな影響を与える。

 帰国後、慶応元年(1865)万国公法・国際法調査を命じられ再び渡欧、慶応3年(1867)関西出張中西宮で「ええじゃないか乱舞」に遭遇、これにより京・大坂方面の公的機能が麻痺しているのを見、これを倒幕派のデマゴーグととらえた。慶応4年(1868)自ら『江湖新聞』を創刊し佐幕姿勢を鮮明にした論陣を張る。そして戊辰戦争佳境の上野彰義隊決起の際江戸で官軍に逮捕される。しかし取調べの後無罪放免となり釈放された。維新後から「桜痴」(おおち)という号を名乗り、しばらく半浪人の生活を送る。

 明治3年(1870)秋、旧知の渋沢栄一の紹介から、伊藤博文の招きで大蔵省職員として出仕、すぐに伊藤とともに貨幣制度調査のため渡米したほか、翌年には、岩倉欧米使節団に随行するなど精力的に活動する。明治6年帰国するも、密接な関係となった木戸孝允が勢力をうしなうと。官職を辞してしまう。


 
そしてこんどはジャーナリストとして『東京日日新聞』の社長兼主筆に就任し、日本ではじめて「社説」欄を設けた。そこで、幕府・新政府時代の内情や、広く国際情勢に明るいという知識経験に裏打ちされた情報を比喩の名手と呼ばれた表現力で記した。そして、明治8年(1875)1月14日の紙面で「社会」を「ソサエチー」のルビつきで掲載した。これが「社会」という日本語が使われた最初と言われている。
 
明治10年(1877)の西南戦争では、現地熊本などで取材し、田原坂など激戦の模様をそれを速報で伝えた。ほか明治天皇への戦況の奏上にもたづさわる。その後は、明治日本を代表するジャーナリスト・文人評論家として、「銀行」などの訳語を数多く生み出したほか、「軍人勅諭」の起草・撰文などにも関わった。

 ほか、過激な自由民権運動の高まりのなか、漸進主義を唱えた福地は、明治15年(1882)、立憲自由党・立憲改進党に対抗して生まれた、政府寄りの立憲帝政党の党首に就任する。が翌年はやくも党自体が解散となり。これに懲りたのか、文筆に専念し力を入れる。

 明治21年(1888)東京日日新聞を退社し、市井からライフワークと成っている「演劇改良運動」に没頭し、明治22年(1889)「歌舞伎座」を創建する。その後は小説家、評論家。そして劇作家を生業として、『懐往事談』、『幕府衰亡論』など著作、「春日局」など数多くの歌舞伎台本を著した。
 明治37年には衆議院議員に立候補して見事当選を果たしたが、明治39年(1906)1月4日東京芝愛宕山下の自宅で没した。享年66。