宿場と一里塚について

 会津中街道は、氏家町から矢板市・黒磯市を経て大峠を越え、下郷町から会津若松市に至る街道である。会津藩3代藩主松平正容侯によって、元禄8年(1,695年)開削された。その全長は、31里10町57間(約123km)である。天和3年(1,683年)の日光大地震によって男鹿川がせき止められ、そのために五十里沼が出現し、会津西街道が遮断されるに至り、急遽その代替道として造られたものである。
 さて、今回はこの道中における問屋と一里塚について、いろいろと調査をして行く上で疑問点が生じてきたので、ここに改めて調査をし、まとめ上げたものである。また、この中街道という名称についても、故伴内翁は「東街道」だと主張されていた。西と東の間と言うなら、その東街道とはどれを指すのかとのことだが、これについては、県内では「原街道」ということで統一されている。また、西那須野町と塩原町の2箇所に「中街道」と刻まれた道標があることからも頷けよう。なお、現在のところ、原街道に東街道という道標はないものかと調査中である。
 これをまとめるに当たっては、文献によって諸説があるために、自分なりに見解を統一して進めることとした。それが表1である。これらは、今後の調査によって新しい発見があれば、その都度改めて行くこととしたい。
 まず、宿場については栃木・福島両県ともに「18」で一致している。宿場の主な業務としては、
  @宿場と宿場を継ぎ立てる人馬の提供
  A旅人に対する宿泊・休息施設
  B継飛脚としての通信業務
があった。この内の@については、常時どの程度の人馬を常駐させていたのか、まったく記録がないために不明であるが、繁忙期と閑散期で分けていたのであろうか。また、市内坂巻家に残されている元禄8年の文書によると、会津侯に対してご朱印を頂戴したいと願い出ているところから、問屋には許可証が交付されていたようだ。更に元禄10年の鈴木文書によると、問屋には次の宿場までの駄賃、今で言う公定料金を書いた高札が立てられていたことが解る。各宿場名は下記の通りである。
 栃木県‥‥氏家、乙畑、川崎、矢板、山田、石上、横林、高林、百村、板室三斗小屋
 福島県‥‥野際、松川、弥五島、小出、桑原、小塩、面川
ただ、実際に機能したという点からすれば、「16宿」ということとなる。というのは、矢板山田間と小出桑原間は距離が大変短かったために、月半分の交替制を取っていた。具体的には、1日から15日までが川崎〜山田〜石上だとすれば、16日〜30日までは川崎〜矢板〜石上としていた。結局、荷物を積み降ろす時間の方が長かったためであろう。
 このように、問屋は廻米輸送の運営責任者であったために、いろいろな特権も与えられていた。「栃木の街道」によると、会津藩から毎年十俵の給米が与えられていたということだし、更にその身分は世襲制で、「永々長屋門、永々御目見、永々荷付、永々上下、永々苗字帯刀」などの特権が許され、準武士待遇であった。この問屋の任務については、元文2年(1,737年)にその心得が申し渡されているので、それを見てみよう。
  1 附子の積荷は藩によって差別せず、順番を定めて付け送らせること。
  1 順番は町附子を先にし、不測の時に在附子に割当てること。
  1 駄賃の高下や宿並は問屋の指示に従わせ、荷主、荷の軽重、賃銭の多少によって選り嫌いさせず、また荷の奪い合いや停滞の起こらないようにすること。
  1 橋掛人足や道普請人足などは、問屋の指示に従わせ、洪水時の川越銭や橋銭などの徴収も同様にすること。
  1 荷口銭の徴収については、3〜4名の年番取立人を問屋が指定し、貯蓄して年貢上納や宿場の諸入用に使い、残りは宿住民に分配すること。
こうして問屋役はこの特権を利用して、財を蓄えてその集落における代表的地位を築き上げて行くのである。
 次に、一里塚について見てみよう。まず、栃木県側の「16基」であるが、これについての記録はまったくない。このためであろうか、各市町村で立てている看板には、「江戸から何里であったかは不明」と記されている。(矢板市の3基には、それぞれ34番、35番、36番とあるが、これについては後で述べる。)故伴内翁のメモ書きによると表2のとおりであるが、翁がこの記録をどこで入手したかは不明である。
 ただこの中では、4つの疑問点がある。まず第1点目は、その起点である氏家宿を32番目としていることである。氏家町では、狭間田にある奥州街道の一里塚を32番として、町の文化財に指定している。であるから、当然31番ということになる。(白沢宿が30番目)ただ、ここは氏家宿というよりは、距離的に見て勝山付近である。参考に、勝山付近にある道路標識には、「東京から124km」と表示されていて、ほぼ一致している。
 第2点目は、下大貫の「松方」である。この松方がどこを指しているものかが不明である。(接骨木?)距離的に言っても、下大貫の次は横林で良い。第3点目は、井戸沢の次に三斗小屋を持ってきていることである。この間はざっと12kmあるので、2基は欲しいところである。(早坂峠と麦飯坂の上)更にこの先の大峠までは5kmあるので、その手前の峠沢付近、通称「荷替え場」と呼ばれている箇所にも1基あったと伝えられている。これで「16基」となる。こうして見てくると、矢板市の3基はそれぞれ33番、34番、35番となる。
 第4点目は、境林荒井間の距離である。これが車で測ると6.5kmあるのである。昔の道の方がより直線的であったとしても優に6kmはある。丁度日光北街道との十文字周辺ではなかったか。ただこうなると、次の石上までが問題となってしまう。更に調査が必要である。
 また、西那須野町4区の久保氏宅にある道標も疑問がある。ここには、江戸36里・日光16里・佐久山3里と刻まれている。まず、この36里についてであるが、時刻表を見ると、東京・西那須野間は151kmとあるので、38里以上はある。次に日光からの16里であるが、これでは黒磯市を通り越して福島県にまで入ってしまうのである。(この条件を満たす場所はあるのであろうか。)
 一方、福島県側を見てみよう。数合わせで15基としたものの、これには無理がありそうだ。下郷町史によると、鏡沼入口のものを若松市から数えて13番目としている。これは距離的に言って、弥五島宿から塩生宿に抜けた小出通りコースということになろう。いずれにしても、福島県側では現存しているものが2基、所在の確認できているものが5基という状況にある。
 こうしたことを踏まえて、これからそのひとつひとつを紹介して見たい。ただ、この番号については、その起点である氏家勝山を1番とすべきであるが、一里塚の目的が江戸からの距離を表しているところから、敢えて31番とさせていただいた。
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31 氏家町勝山 旧国道沿いの勝山ドライブイン付近。近くにそうめん地蔵が立っている。旧道は氏家製靴工場の敷地内を通って中町の所で水戸街道と合流した。(阿久津河岸図)
32 氏家町長久保 奥州街道と分かれてそのまま北上し、今宮神社の東を通り国道を横断して押上街道に入り、途中から右折して国道と合流。馬場と長久保の境の通称秣場付近にあった。
33 矢板市乙畑 太鼓塚にあったと伝えられている。その太鼓塚そのものが一里塚であったかどうかは不明である。この付近にある道標には、右安沢左川崎とあって追分になっていた。
34 矢板市境林 ドライブインはたごのすぐ裏にある。明治19年に日本鉄道株式会社が開通した際に壊されたという。ここで始めて大峠を目の当たりに出来る。
35 矢板市荒井 元々2基とも現存していたが、損壊が激しかったために、平成2年に復元工事された。ただ、上記の34番からは7km近くあって疑問視されている。
36 大田原市石上 全く不明である。上の問屋と下の問屋の間と思われる。
37 塩原町下大貫 2基とも現存している。塩原町指定文化財になっていて、看板も立てられている。
38 西那須野町赤田 全く不明である。酪農試験場の敷地内にあったと伝えられている。
39 西那須野町横林 県道を挟んで2基とも現存している。東塚には測量杭が埋められている。最近看板が立てられた。
40 黒磯市高林 T字路に1基だけ残されている。 
                                                             熊川の渡し
41 黒磯市笹野曽利 黒磯市の浄水場前にある。2基とも現存していて東塚は雑木林の中に、そして西塚は牧草地の中にある。
42 黒磯市百村 百村集落の外れに1基だけ残されている。
43 黒磯市板室 乙女の滝ドライブインの南の雑木林の中にある。2基とも現存しているが、東塚は炭窯に使われ半壊している。(宿場図)
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那須町 最近、早坂峠と麦飯坂上で確認された。
46 黒磯市(飛地) 三斗小屋宿内と思われる。(宿場図)
47 那須町 峠沢付近か。馬の荷替場があったと言う。
48 下郷町大峠 鏡沼入口から大峠に向かって200m位進んだ所に2基とも現存している。平成12年に石碑が立てられた。 記録によると若松市から数えて13番目のものと言う。
49 下郷町野際 野際集落の手前にあったと伝えられ、上記同様に石碑が立てられている。
50 下郷町杉ノ沢 福島県側で2基現存しているのは、これと48番のみであり大変貴重なものである。
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54
下郷町 全く不明である。
55 会津若松市舟子 大川ダム公園の近くにある。平成7年に開通300年を記念して立てられた標識がある。
56 会津若松市小塩 最近の調査で1基保存されていることが判明。
引下集落に標柱が立てられている。
57 会津若松市南原 国道沿いにあって55番同様に標識が立てられている。
58 会津若松市石村 上記に同じ
59
会津若松市御山 全く不明である。
   いずれにしても、この街道は大峠が最大の難所であった。

   大峠の塔碑群
 
    落合側から大峠を望む

標高にして1,468mあり、しかも現在も名うての豪雪地帯であり、5ケ月間は通行不可能であったろう。確かに、距離にして西街道よりも20km近かったというものの、駄賃は5割増し8割増しとあっては、結局駄賃の差はそれ程なかったし、残雪期などには1俵ずつ背負って運んでいたというから、附子泣かせでもあった。そして、中街道は開通後わずか9年間で脇街道に編入、更に享保8年(1,723年)に西街道が再開されるに至って、その座を譲ることとなったのである。

(追記) しかし、中街道は脇街道に編入されてからの方が活況を呈してくるのである。これは皮肉といえば皮肉な話だ。今風に言えば、規制緩和というところだ。本街道時代には、道中奉行からの厳しい規制があったが、これが外されると商人たちが一気に頭を持ち上げてくる。駄賃も荷主との交渉次第だし、2駅の荷継ぎも可能となる。新しい問屋も次々に誕生してくる。また、中街道と原方道を結ぶ横道まで造ってしまう。すると当然、荷をめぐる紛争が起きてくると言う訳だ。デフレ不景気と規制緩和、昔も今も何ら変わってはいない。
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各 宿 場 と 問 屋 名
宿  場 元 禄 8 年 当 時 明 治 3 年 当 時
@ 氏 家 宿 (平石)六右エ門  
A 乙 畑 宿 (永井)六郎兵衛       太郎右エ門
B 川 崎 宿 (加藤)八郎左エ門 

(加藤)九兵衛   

(大桶)利兵衛        
八右エ門

五郎左エ門

直重郎
C 矢 板 宿 (坂巻)八左エ門 八郎右エ門
D 山 田 宿 (高野)      

(伊東)             
七左エ門

治郎右エ門
E 石 上 宿 (小野崎)静六         東助
F 横 林 宿 (東泉)五郎左エ門       五郎右エ門
G 高 林 宿 (菊地)              長右エ門
H 百 村 宿 (   )甚五右エ門                        平佐右エ門

八左エ門
I 板 室 宿 (   )  
J 三斗小屋 (  )  
K 野 際 宿 (   )谷右エ門  
L 松 川 宿 (佐藤)新助  
M 弥五島宿 (   )六兵衛  
N 小 出 宿 (   )弥五右エ門  
O 桑 原 宿 (   )四郎右エ門  
P 小 塩 宿 (   )藤兵衛

(   )隼人
 
Q 若 松 宿 (   )  
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