日光北街道を往く


 この街道は、日光市(旧今市市)と大田原市を結ぶ全長11里31町(約44km)の街道を言う。寛永13年に完成した日光東照宮に合わせて開削されたもので、これによって宇都宮以北の三十数藩の大名たちは矢板経由で日光社参が出来るようになったのである。

 これを裏付けするものが、矢板市倉掛にある「倉掛村新路記」(嘉永4年製・矢板市指定文化財)である。この本文の1行目から3行目にかけて、次のように刻まれている。
           
@ 奥羽北越より日光に赴く者は、白河を過ぎ宇都宮を歴(へ)れば、則ち其の路正しくて迂なり。
         A  或いは大田原より或いは高原東麓より倉掛邨を歴れば、則ち其の路険にして捷し。是を以って人多く其の捷きに由る。つまり、三角形の一辺を行くことで、かなり短縮されたことになる


                       

 

    これによって、この街道は大田原宿から日光への近道、脇街道であったことが解る。唯、古くは「白河道」「棚倉街道」とも呼ばれており、今市と白河や棚倉を結ぶ街道であった。

    これを、大名行列でも通れるように改修したのである。(第1次改修は元和3年(1617年)

参考に、この碑文を書いたのは、宇都宮の豪商「佐野屋」の当主菊地教中である。当時24歳で、この11年後に起きた坂下門の変の首謀者大橋訥庵は、姉の夫である。
彼もまた連座した者とされ投獄、その後まもなく病死している。

以下その足跡を辿って見よう。ただ、この11里という距離は丁度一日の行程で、今市宿あるいは大田原宿を朝立ちした旅人は、その中間の玉生宿で昼食を取ったという。


今市宿から船生宿へ

東武線下今市駅で下車し、そのまま国道119号線に出る。ここを右折して250mほど進むとT字路となる。この角に「旧会津街道相之道通り」の標柱が立っている。その裏面には、「会津若松まで112km(28里)」、「日光神橋まで8km(2里)」と書かれている。そして国道の反対側には「元漂」が立っており、ここが会津西街道の出発点である。(現在の会津西街道(国道121号線)はこの先の春日町交差点を起点としている。)

 相の道通りを進むと、 正面に大きな病院が現れて来る。この前を通り、坂道を下ると国道と合流する。右折して東武日光線の下を潜る。造り酒屋の前を過ぎると、右手に回向庵の案内 板が立っている。ここの大きな墓地の一角に、戊辰戦争で戦死した土佐・佐賀両藩の武士たちが葬られている。




大谷橋を渡る。左手奥には、日光の山々が白く輝いている。渡り終えたら、ほぼ直角に右折する。ここから200mほど進んだら、酒店の脇の細い路地に入る。 大谷向町公民館の裏を抜けると、石仏が4基並んでいる。この中の、高さ120cmほどの庚申塔が道標にもなっている。「右白川みち左會津みち」とあり、こ の辺りが大谷川の渡し場であった。
大谷向駅前を過ぎると、旧国道121号線との追分に出る。この角に、「右大田原左會津みち」の道標が建っている。東武線を渡り、豊田橋を渡った所でちょっと南下する。ここにお堂があって、地蔵尊と十九夜塔が納められている。



び国道に戻る。ここから静かな田園地帯を歩く。左手奥には杉並木が続いている。1,5km程で、国道461号線のバイパスに合流する。これを左折して四車 線の歩道を歩く。大型店が並んでいる。芹沼の十文字に出る。この角にある墓地の中に、饅頭型の塚がある。これが分限絵図に載っている一里塚なのであろう か。木の枝に大きな草履が掛けられている。この由来は、「この地区には、これを履くような大男がいるので近寄るな!」という魔除けだそうである。この足元 に、「右しらかわ左あい津」の道標が建っている。また、左手の少し奥には、「右日光左鹿沼」と刻まれた十九夜塔が2基並んでいる。

バイパスと分かれて461号線を進む。ここからは、石仏とお堂が次々に現れて目を楽しませてくれる。この芹沼地区は裕福な土地柄であったのだろう。保育園の角に、石仏が6基並んでいる。この内の2基に「右日光道左山道」と刻まれている。


左手の小高い山は富士山である。浅間神社の入り口にも先ほど同様の大草履が掛けられていた。轟交差点に出る。左折すれば大桑、右折すれば大沢である。

交差点から1km程歩くと、右手に「轟城跡」という案内板が立っている。ここから舘坂と 呼ばれる坂道を下って行く。「舘」とは、この城を指しているのであろう。道の両側は杉林である。この坂道の終点付近の右手下に、旧道が走っている。曲沢を 渡ると、右手に大きな松の木があって、その下に大きな地蔵尊と庚申塔が立っている。

いよいよ大渡宿に入る。T字路の角に「貴船神社」が建てられている。ここに、「右日光左 会津」と刻まれた道標がある。かって、日光見物を済ませた芭蕉一行は、ここで北街道に合流した訳である。このT字路の正面に、仮本陣を勤められた大貫家が ある。秋田藩主や弘前藩主が休憩をした際の関札を保存されている。

郵便局を過ぎて、次の信号の所で直角に曲がる。この角に「右宇都宮左白川道」の道標が立っている。東照温泉を過ぎると、道の両側が杉林に覆われて来る。これを抜けると、まもなく鬼怒川である。

大渡橋を渡ると、左手下の左岸の岩上に石仏が4基並んでいる。一番大きいのが水神様であ る。船生の船場地区に入る。その名の通りに、河岸が置かれた場所である。鬼怒川の最上流に位置し、主に南会津や三依方面、そして地元の物資を江戸まで運搬 していた。しかし、10年程で閉鎖されている。



国道を歩く。ここからしばらくの間、歩道もなく危険な箇所である。右手前方の富士山方面 から、新設中のバイパスが延びて来ている。旧東武鉄道の線路跡を横断し土佐川を渡る。新谷(にゅうや)地区からほぼ直線道路となる。船生小学校を過ぎる と、かっての船生宿である。手塚家文書によると、宿並が25町15間で幅が8間、道路の南側には約40軒、北側には約35軒ほど並んでいる。そして中央に は用水路が走っていた。




旧船生支所の裏手に、庄屋を勤められた斉藤家がある。四方を土手に囲まれ、その入り口には立派な四脚門が建っている。戊辰戦争の際に、船生宿は焼き払われたが、この門だけが残されたという。

 郵便局を過ぎて200mほど歩くと、T字路になっている。右折して県道を進めば佐貫を経て宇都宮方面に通じている。富沢川を渡ると、左手にコンビニが建っている。その角を左折すると、岩戸別神社である。

 長峰地区に入る。左手に小さなお堂が建っている。「子持地蔵尊」である。このお堂の前にある2基の塔碑の内の左側には、「左てらこうち」と刻まれている。


泉川に架けられた「合柄橋」を渡る。500mほど進んだら左折する。細い道を少し歩くと、また「子持地蔵尊」が祀られていた。

 この先で大きくカーブして、再び国道に戻る。正面に「船生かぶき村」の建物が見える。その前をバイパスが走っている。天頂の交差点を左折すると、直線道路が続く。ほぼ1kmほど進んだ左手の高台に「山神塔」が立っている。

昭和3年のもので、裏側には「西船生東玉生」と刻まれている。分限図によると、この辺りに「一里塚」があったと思われる。ここから芦場新田である。



 


芦場〜矢板

 右手の赤い鳥居は芦場神社である。旧道は、この前から塩谷幼稚園の裏側を通っていた。 国道に一度戻り、会津西街道との分岐点に出る。ここに、高さ170cm程の石柱が建っている。嘉永6年(1853年)製で、地元では鬚題目と呼ばれ、「南 無妙法連華経」、「天下泰平・国土安穏」と刻まれている。また、この台座が道標になっていて、「右ハ大宮左ハ玉生」と刻まれている。元々はこの場所にあっ たのではなく、先ほどの幼稚園の東側にあったとのことである。

その場所まで行き、T字路を右折して農家の裏道を歩いて行く。まもなく石の橋を渡る。これが義経伝説の「駒ケ岩」である。





 砂利道に出たら右折する。林の中まで来ると、右手に1基の追分石が立っている。「右うちゑ左大多ハら道」とある。これは安永4年(1775年)のもので、十文字の梵字が刻まれている珍しいものである。

 再び国道に出る。正面奥に塩谷中学校の建物が見えて来る。ここから歩道を歩き、左手に酪農家が見えたら、その庭先に入り、そのまま右手の雑木林の中を進む。石材店の所まで来ると、道型がはっきりとして来る。ここに、青面金剛像が1基ひっそりと立っている。



 
地蔵坂を上り始める。右手が葦原で、かっては湿地帯であったのだろう。坂を越えたら、左折して山沿いの道を歩く。建設会社の倉庫を右に見て進む。正面にフェンスで囲まれた変電所が現れて来る。この先の山側に旧道らしき箇所が残されている。







 いよいよ玉生の宿通りに入る。この角に、平成10年建立の「芭蕉通り」の石碑が立てられている。この反対側には、四面に地名の刻まれた道標が立っている。その内の一面に「北倉掛、幸岡、矢板」とある。関東バスの駐車場まで来ると、「芭蕉一宿の跡記念碑入口」という看板が目に付いた。100m程入ると、藪の中に碑がひっそりと立てられていた。かっての庄屋、玉生家の屋敷跡である。

 芭蕉通りを北上する と、鉤の手に曲がっている。その角に「伯耆根神社参道」の立派な石柱が立てられている。この正面の山が玉生城跡である。宮橋を渡るとT字路になっていて、 左折すれば県民の森方面に通じている。まもなく左手に「塩谷町役場」が現れて来る。ここで右折して細い路地に入り、直ちに左折して、国道とほぼ平行に進 む。玉生小学校の通学路に突き当たると、ここに大きな石碑が3基並んでいる。湯殿山・熊野山・男體山の参拝記念碑である。この内の男體山の礎石の部分に 「右ハ大田原左ハ山道」とある。旧道は、このまま小学校の校舎裏を通り、田の中の畦道を抜け、玉生中学校の校庭内を横断して荒川を渡ったようだ。

一度国道に出て梍橋を渡り、100m程歩いたら右折する。すると、中学校方面から伸びている農道に出くわす。これを左折して進むと、田所入り口交差点の手前に出る。そのまま林の中を進む。ゴルフ練習場の所で、再び国道に合流する。

 国道とバイパスの分岐点に出る。この辺りは、「コマガ原」という所である。ゆるい上りの頂上に「供養塔」が立てられている。享和2年(1802年)のもので、秩父・西国・坂東の観音霊場巡拝記念碑である。この台座に「右大田原左てら山」と刻まれている。

 坂を下ると矢板市であ る。旧道は、ここから左手奥にある修理工場の手前まで進み、そして大きくカーブして再び国道に合流していたと言う。下り坂の終点が変則十字路になってい る。左折すれば喜佐見方面に、そして右手のドライブインの脇の細い道を入ると、「小山帰り」地区である。この辺りが「たてば」とよばれている所だ。ここから少しの間国道を歩いたら、右手の杉林の中に入り込む。この中に旧道が残されているのだ。そして、国道から取り付けられた

林道に合流したら右折する。緩やかな坂道を登って行くと、正面に柵が見える。ここを左折してそのまま登って行く。これが、倉掛三坂のひとつの「外出坂」である。ただし、これは嘉 永3年に開削された新道であって、旧道はこの左手の高台にある。更にその左手にもう1本残されているが、この2本はやがて合流して、倉掛峠の所でV字状に 削り取られている。この辺りが、この街道で最大の難所であった。これを見兼ねた地元有志3名が主唱者となって、改修工事を実施したのである。

これを称えた記念碑が、この「倉掛村新路碑」である。工事が完成した翌年に立てられてい る。この隣にある「道供養碑」は安政3年のものである。ここから「日光坂」を下って行くと、倉掛の集落に出る。ここに「右日光道」と刻まれた道標が立って いる。弘化4年のもので、「日光まで8里」ともある。

 再び国道に出る。これ を横断して右折し、民家の手前で左折して坂道を上って行く。これが「戸方坂」である。上り切ると、右手に石の囲いがしてあって、その中に松の木が植えられ ている。これが八幡太郎義家伝説の「鞍掛松」である。分限図によると、ここに一里塚があったという。

 正面に国道が走ってい る。左手奥には、アセチレンガスの充填所がある。国道に出たら、左折して歩道を進む。この左手の高台に旧道が走っているが、それも束の間で国道に吸収され てしまう。正面に東陽機器矢板工場の建物が見えて来る。この道向かいにある建物は、たかはら森林組合の事務所である。

 合会バス停の所でT字路になっていて、右折すると県道大宮線に通じている。

そしてここが、御巡検街道の入り口になっている。それを示す道標があったのだが、今では不明である。(昭和50年発行、郷土読本に記載あり。)右手にある食堂の先のカーブから、そのまま宅地分譲地の中を進めば良いのだが、藪がひどいので、少し歩道を歩いてから杉林の中に入り込む。そして雑木林の所まで上がって行くと、ここに旧道を確認することが出来る。左折して進む と、至大にはっきりとして来て、坂を下ると砂利道となって来る。ここから左手の高台に注意して歩くと、薄暗い林の中に2体の石仏が並んでいる。寛政12年 (1800年)製の庚申塔である。保存状態そして出来具合も良く、市内でもトップクラスのものである。

 市道に出たら横断してそのまま進む。石材店の前を通ると国道だ。これを右折して100mほど進むと念仏橋で、下を流れるのは簗目川である。今から40年程前になるが、この河川の改修中に、川底から新生代(約1,000万年前)の団球が発見されたのである。この橋の袂に、信州高遠の石工による「橋供養碑」が建てられている。  文化4年(1807年)のものである。

 そのまま進んで、幸岡公民館バス停の所で左折し、坂を上って行く。落ち着いた雰囲気の漂 う集落に出る。ここが、曾良日記にも出てくる高(鷹)内宿である。今でも「問屋」、「菊屋」「ときわや」などの屋号が残されている。この集落の東端で、左 カーブの下り坂となるが、旧道は右折して家と家との間の細い道を下る。

 運動公園への進入路を 横断し、高速道路の下を潜ると国道に合流する。ここに架けられているのが「株木橋」である。この下を流れる宮川は、分限図によると、「川原巾壱八間常水八 間冬春仮橋平日歩行越」とある。正面にカントリーエレベーターの建物が見える。旧道は、ここからその方向に走っていた。次の中川を渡り、T字路の所で左折 する。カントリーエレベーターを左に見て進んで行く。

その入り口の角に、道標が建っている。「右日光左江戸」とあり、ここが会津中街道との交差点であった。ただ、実際にはもう少し南東の方角の「堀の内」地内にあったという。

 ここから農道を進んで、JAの敷地内を抜けて内川を渡る。県道那須矢板線を横断して郵便局の脇道を進む。通称「後宿通り」と呼ばれているこの通りがかっての北街道である。




 交差点を2つ越えたら右折する。塚原川沿いに120mほど進むと国道に出る。安永4年(1778年)の古地図を見ると、この川の東一帯に人家は全く見られない。そして、ここに弁財天が祀られていた。現在は、塩釜神社に移設されている。

 国道に出て150mほ ど進むと扇町交差点である。そのまま歩いて跨線橋を渡る。旧道は、ここから左折してマンションの裏を通り、踏み切りを渡って公園に出ていた。今ではその踏 み切りは閉鎖されてしまっている。正面に長峰公園が広がっている。下り終えたら直ぐに左折する。跨線橋沿いに進むと公園に出る。

 ここから公園を右手に見て進む。坂を上り平坦地になると、右下には長峰公園墓地が広 がっている。正面に分譲地が見えて来る。その右側に幅が一間ほどの細い道が走っている。そこに、矢板市教育委員会で立てた案内板がある。日光北街道とここ を通った芭蕉のガイドが書き記されている。

 ここから、雑木林の中を600メートルほど進むと国道4号線である。そしてこの区間 が、旧道の原形を止めている箇所である。クッションの利いた土の道は快適である。坂道を下って行くと、正面に木材共販場が現れて来る。その向こうに4号線 が走っている。この入り口にお堂があって、中に地蔵尊が祀られている。地元では「鼻欠け地蔵」と呼ばれて親しまれている。嘉永4年(1851年)のもの で、この台座には131名の寄付者名が刻まれている。その上には「右日光左江戸」ともある。また、その隣の寒念仏供養塔には、「日光海道」「川崎海道」と 刻まれている。こちらは元禄7年(1694年)のものである。

 4号線を横断して国道461号線に降りる。右手の分譲地は「ハッピーランド」である。左手にプラント工場を見ながら坂道を下って行く。間もなく左手に階段が現れて来る。「境ケ峰地蔵尊」という標柱が立っている。ここは、沢と土屋、それに成田の三方境いである。

 江川を渡ると、田園風 景が広がって来る。矢板を代表する穀倉地帯だ。正面に新幹線が南北に走っている。その下を潜ると沢の集落である。かっての城下町で、鉤の手に住宅が並んで いる。最初の角には大きな馬の供養碑が建てられている。豊かな水と広い牧草地があったことから、「馬市」が開かれ大変賑わった所である。



 駐在所前を通り、その まま進むと右手に問屋を勤めた根本家(現在蓮見家)がある。更に進むと、正面に四脚門付きのお宅が見えて来る。こちらの伊東家も問屋を勤められた。この門 には、陶製の鯉が飾られていたが、それが地元で焼かれたものである。この正面の山が沢城跡で、その中に観音寺が建てられている。

 ここから左折して坂道を下る。人家を抜けると正面に箒川が現れて来る。ここには、かって木橋が架けられていたが、平成3年に、この200mほど上流に新しく付け替えられた。そしてその橋は「かさね橋」と名付けられた。



 再び県道に出て橋を渡る。これを越えればいよいよ那須野ケ原である。ほ場整備された田が南北に広がっている。500mほど歩くと、段丘への上りとなる。

最初に現れた人家の所で左折する。この細い道が旧道である。お寺の裏の駐車場に出て、県道を横断して薄葉公民館の前で県道と合流する。このお寺の境内に「右大田原左日光」の道標を見ることが出来る。

 左手奥に薄葉住宅団地が広がっている。コンビニを過ぎると間もなく那須塩原市に入る。この手前に、句碑が建てられている。蓮実先生揮毫によるもので、「かさねとは…」の句が、そして裏側には、子姫との出会いの場と刻まれている。

 ライスラインの交差点に出る。これを渡ると、左手に小さな鳥居が立っている。その名も「合格神社」とある。更に進むと、右手に「南無阿弥陀仏」と書かれた石仏が立っている。これは道標にもなっていて、「右日光左ひらさわ」とある。この平沢への道が「原街道」である。

 右手に赤い鳥居が目に入って来る。ここは雷電神社であるが、それよりもここに立っている「なんじゃもんじゃ」の木の方が有名になっている。この通り名にもなっているほどである。正式には「ヒトツバタゴ」という。

 実取地区に入ると、まず3階建ての市営住宅が目に入って来る。ここで右折して旧道に入るが、ここは300m程で再び県道に出る。大型パチンコ店を左に見て進むと、大田原の加治屋地区である。道の両側に立派な構えの農家が並んでいる。しか も、そのほとんどの家の庭先に「馬頭観音」が祀られている。馬は正に身上柱、生きている時は勿論、亡くなった後でも大切に扱われていたのである。

 右手にビニールハウスが並んでいる。この角に「右大田原左薄葉」と刻まれた道標が立っている。更にその先の八幡神社入り口には、「右薄葉・澤・矢板町左大田原」の道標がある。共に「御大典記念」の際に立てられたものである。


 百村川を渡り、交差点を渡ると左手に大きなホームセンターが現れて来る。次の交差点を渡 り、800mほど進むと正面に大きな欅の木が立っている。これを過ぎると国道に合流する。これを右折すると神明町交差点である。右折すればさくら市方面に 通じている。これが奥州街道である。日光北街道はここで終わる。ここの追分にあったとされる道標が、先ほどの合流点から少し北側に入った共同墓地に隠れて いた。ここには「左日光みち」と刻まれている。文化9年(1812)製のものである。


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