311057間を歩く

桑原〜会津若松
(地図)
 に県道を進む。正面に小野岳が見えて来た。あの麓が湯野上温泉である。会津線が左手下を走っている。ここからしばらく並行して歩く。杉林に入ると左手下に旧道らしきものが走っている。テレビ等に良く出てくるレストランを過ぎると、湯野上温泉の中心街である。ここには4本の大きな橋が架かっていて、東西を結んでいる。旅館やホテルは左岸の国道沿いに集中している。 ここも一大景勝地である。深い谷と、大小の岩がマッチしていて、自然美を形成している。ここまで来ると、小野岳は見上げる位置にある。標高はそれ程ではないが、圧倒される大きさである。この集落の外れで、国道118号線と合流する。右折すれば、羽鳥湖を経由して須賀川へと出る。一時的ではあるが、旧道は田代集落から標高675mのピーク上を通って、小出に出たこともあるようだ。なお、会津西街道は小野岳の西を回って、大内集落へと続いていた。今回は左岸の国道を歩くこととした。輪禍の危険に晒され、騒音と排気ガスに悩まされ、正に現代の難所であった。
 下郷トンネルの手前で右折すると小出集落である。ここは下郷町の最北端にもなっている。次の宿場の桑原宿は会津若松市である。かつて下郷四組の西端小出組九ケ村の本拠地であった。村の中央には文禄3年建立の西福寺がある。会津三方道開通後は、馬宿として大変栄えたという。桑原宿には船で渡った。
 川ダム(若狭湖)は100万キロワットの揚水式発電所である。平成3年に14年の歳月と、1680億円をかけて完成した。このために、桑原と沼尾の集落は水没し、現在地に移転した。桑原宿においては、そっくりそのままの形で18軒が移転したという。若狭橋を渡る。といっても、これが500mもあって渡りきるのに骨が折れた。湖水は南北4kmにもわたっている。このために、この辺一帯の気候が変化したということだ。

 原宿のほぼ中央に「芦ノ牧温泉南駅」がある。温泉地内にはスペースがなく、こんな不便な所に設けられたものである。その道向かいに、桑原宿跡という標柱が立っている。ここでは、今でも昔の屋号で通用するそうだ。いよいよ舟子峠へと向かって出発する。
 ここからも難所である。かつて三島県令によって三方道路が造られ、一時国道に昇格したものの、ダムが完成した後は県道に格下げとなった。 蟹坂トンネルが造られた際にも難工事を極めたという。正面の山の中腹に舟子峠が見える。その上を高圧線が走っている。大きくカーブを曲がると、今度は舟子の集落が目に入ってきた。左手下は公園になっていて、テニスコートなども作られている。T字路を左に折れて下ると、ゴミ焼却場に突き当たる。右折して進めば、沼尾を経由して芦ノ牧温泉へと続く。 舟子の一里塚は、この焼却場から150m先の右手高台にあった。記録によれば、五霊神社に前に立っていたとあるが、近くに神社らしきものはなかった。先ほどのT字路に戻って、今度は直進する。と、左手前方に大川ダム公園駅が見えて来た。桑原駅からはすべてトンネルである。舟子の集落の中を通り抜けて林道に上がった。正面に[工事中につき通行止め]という看板が立っていた。

 こから舟子峠には、ほぼ等高線上に道が造られている。左手の雑木林の合間から、国道を走り抜ける車が目に入ってくる。「舟子峠跡」という標柱が左手の高台に立てられている。上がって見ると、踏み跡を確認することが出来た。芦ノ牧温泉目掛けて高圧線が走っている。右手にカーブして切り通しの中を進むと、正面に「茶屋跡」と書かれた標柱が立っている。面積にして2百u位はあろうか。この部分だけが平坦地になっている。しかし、この場所では前山が邪魔をして、全然視界が聞かないのである。茶屋には不向きではなかったろうか。

 ここからヘアピン状の下り坂が続く。しかしこれは、重機で削ったような道なのでおかしいと思っていたら、案の定、右手の高台から道跡が続いていた。合流すると、今度は左手下にS字状に走っている。この方向だと、下の引下集落に続いていることになる。この方が地形的に自然であろう。このまま上小塩まで下って行く。すると途中に沢があって、橋が架けられている。大きく抉られているので、昔、こちらを通ったとするとかなりの難所であったろう。
 建設会社のプレハブ小屋を通過すると、舗装道路となる。左手下に会津線が走っている。上小塩の集落に出て、会津線の踏切を渡ると市道芦ノ牧線に合流する。さすがに交通量が多くなる。ここから大豆田までは会津線と平行して歩く。ここで一度左折をして、引下まで戻って見ることとした。すると、集落の一番手前の家の入り口に、「舟子峠」という標柱が立っていた。ここが一里塚跡であった。

 
界が解らぬままに下小塩に到着した。この外れに湧水地があって、地元のご婦人が水汲みをしていた。大戸岳から湧き出たもので、最近の名水ブームにのって、連日たくさんの人が汲みに来ているという。正面に闇川橋の大きな橋脚が見える。市道はこのまま下を潜って大豆田の集落にと出る。しかもここは、大川と闇川の合流地点で、双方とも川幅が広く、その上深く抉られている。大変な難所であったろう。橋を渡り終えた地点に、「闇川橋跡」という標柱が掲げられていた。
 道と合流して香塩に向かう。ここには小中学校や市役所の支所などがあって、この辺切っての繁華街である。これから若松市までは、ほぼ国道を歩くこととなる。右手奥にある「保福寺」に向かう。ここは無住のようであるが、この境内に、戊辰戦争十三人の墓が立てられていた。 再び国道に出て左手にカーブする。と程なく、右手に香塩の問屋跡の標柱があり、その先には「御殿跡」の看板が立てられていた。黒森林道の入り口である。ここは、元禄9年に会津藩主によって建てられた休憩所である。この先は下り坂になっていて、その名も御殿坂という。九ノ沢を渡ると、いよいよ南原の集落である。ここには一里塚があって、その跡地に標柱が立てられていた。集落の北端がT字路になっていて、左折すれば本郷町である。またこの辺りはリンゴの産地らしく、リンゴの里まで1kmという看板が立てられている。
 ここから上雨屋までの2.4kmというものは、ほぼ直線になっている。道路の両側は田になっていて、視界も段々と広がって来た。ホテルや旅館の看板も目立って来た。旧道は右手の山裾を走っていたというが、今ではその痕跡は見られない。また、この辺一帯は大遺跡群で、昭和58年の発掘では102基の須恵器窯が確認されたという。

 
松沢川を渡ると、正面に330mの餓鬼岳が目に入って来た。この山は、かつて狼煙台に利用されていたという。この山裾には、その標柱とともに、高さ2mはある馬頭観音が祀られている。大戸町の産馬組合が奉納したものである。彫刻も誠に見事で、こういう立派なものは初めてである。 宮内に入る。ここには、大同年間創立という金峯神社がある。100mほど回り道をして見学をすることとした。ここは山伏の修行道場で、日本三社のひとつに数えられている。大同年間というと、寺山観音寺と同じ創立ではないか。
 先ほどのリンゴに加え、今度はブドウ畑や柿の木が目立って来た。下雨屋の入り口で、国道を外れて右手のリンゴ畑に入る。ここに旧道が一直線に走っている。途中に寺のマークがあるが、今では建物も壊され、卵塔が2基並んでいるだけである。正面に館山?が見える。大きな生コンの工場を左手に見て進む。数十本の松が岩山に付いていて、一幅の山水画を成している。昔の阿賀野川は、この直ぐ麓を流れていたということなので、旧道はこの山の右手を巻いていたようだ。
   S字状に坂を登ると、左手に石碑が
2体並んでいる。その奥に薬師堂が立っている。石段を降りて再び国道に戻った。右にカーブをして進むと石村の集落だ。左手の桜の老木が目に付いた。「土田」というお宅の庭先にあるもので、ここは旧家なのだろうか。この道向かえに、一里塚跡の標柱があった。「飯豊山」という高さ1.5mほどの石塔で、その右手には「左たじま 右 」と刻まれていた。その前から杉林に向かって旧道が延びていた。
 泰安寺の看板を後にして、「面川」に入る。ここには肝煎兼問屋が置かれ、増井家が代々勤めていた。若松から8kmで最初の問屋である。この集落を過ぎた所で、会津中街道は国道と分かれ、右手の館山と下山の裾を歩くことになる。この分岐点に、「右大戸 左若松」という道標が立っていた。
 面に若松の市街地が目に入って来た。総合体育館の大きな屋根が見える。鶴ケ城の天守閣が、そしてその奥に見えるのは、紛れもなく「飯豊山」だ。いよいよここまで来たか。さアー、気を取り直して出発だ。すると間もなく、「村社多賀神社」の前に出た。祭神は長井の多賀神社と同じなのだろうか。
 200m程砂利道となるが、左手に人家が現れた所から再び舗装となる。ここから県道会津若松裏磐梯線を歩く。根岸地区に入る。この西側の田は、昔の条里制の跡だという。左手奥には博士山、そしてその右手に見えるのは明神岳である。堤沢に入ると、体育館の屋根が一段と大きくなって来た。右手に杉林が見えて来る。入り口には「五佛薬師如来」と書かれた石門が立っている。曹洞宗慈光寺である。本尊は薬師如来で、弘法大師の作と伝えられ、会津地方にある五大薬師のひとつに数えられている。
 御山地区に入ると、道の両側に柿の団地が表れて来た。これが実に半端ではない。若松市街地に入るまでの90分間というもの、延々と続くのであった。「会津身しらず」の一大産地なのである。丁度摘果の最中で、農家の人がバイトを頼んで作業に励んでいた。道の両側には大きな構えの農家が並んでいる。「柿大尽」を何人も生んでいるのだろう。途中から右手に入って、八幡神社を見学することにした。寛文12年に保科正之が再興し、流鏑馬を行ったという所縁のある神社である。
 再び街道に戻る。すると左手に電話ボックスが立っているが、これが良く見ると「町内放送室」とある。つまり有線放送なのだった。いつの間にか、バイパスがすぐ左手を走っていた。そこから延びてきた大きな道路を横断する。右手に進めば岩屋観音である。

   
木地区に入る。すると、「木師屋」とか「会津塗り」といった看板が目立つようになって来た。いよいよ城下町に近づいて来たのだろう。
 ここから大道東通りを進む。Y字路の入り口に、高さ1.4m、幅1mの大きな道標が立っている。文化8年のもので、「右たじま日光 左ハいわき観音」とある。15分程で南青木消防詰所に出た。この前が五差路になっていて、そこに宮沢川が流れ込み橋が架かっている。正面に金毘羅大権現が2体並んでいる。
 左の大きなものは嘉永元年に立てられたものである。この石は赤色をしていて、岩屋観音付近から産出するものだという。この辺の土塀の基礎には、この石がかなり使われていた。


善龍寺山門。次ページを見てください。 北青木では善龍寺を訪ねた。竜宮城を思わせる山門は、唐風造りで文化財に指定されている。本堂の北側には、戊辰戦争で殉難した233名の会津藩婦女子の名を刻んだ「奈与竹の碑」が建てられている。恵倫寺の入り口でバイパスと合流する。



いよいよ小田橋、御府内だ。渡り終えた所で直角に左折して湯川沿いに歩く。途中で右折して直進すると城内に入る。左手の大きな建物は県立体育館だ。右手の高台は陸上競技場で、中学生の大会で賑わっている。

 角に曲がると右手前方に県立博物館が見える。ここで左折をする。と、三の丸の入り口だ。思わず胸が高まって来た。木橋を渡る。31里10町57間の道中の最終点だ。
氏家町から同行していただいた小林さんとガッチリ握手を交わす。
万歳!