311057間を歩く

野際〜湯野上温泉
(地図)
 よいよ野際に向けて出発しよう。ここからは下り一方である。いや、厳密に言えばニゴリ沢の源頭部を渡る際に一度だけ上りとなる。ジグザグに15分程下って行くと、右手に「一里塚」と書かれた大きな道標が立っている。確か平成12年に下郷町で立てたものである。そのすぐ裏手に一対の塚が見える。ということは、旧道は現在の道の右手を抜けていたことになる。
当時は、舗装変わりに石畳を敷いていたというが、成る程、所々にその跡が伺える。鏡沼の入り口に到着する。この沼は、モリアオガエルの産卵池としても有名である。また、沼の周囲には2抱えもあるブナの大木が並んでいるが、それも高さ3m位までで、そこからは小枝が伸びている。全く異様な姿をしている。みな雪に押しつぶされてしまっているのだ。

 り返ると大峠が見える。その右手には加藤谷川がV字状に深く食い込んでいる。沢を渡ると駐車場だ。ただここは狭いので、車3台位で一杯である。更に進むと車10台位のスペースのある所に出る。ここからは山岳道路をそのまま歩くこととする。この辺りが「荷替場」であろうか。 この道路も毎年舗装工事が進んでいて、今では日暮滝の手前まで舗装されている。滝見台を過ぎると広河原だ。堰堤工事がかなり上部まで進められている。
 視界が開けるのはこの部分だけで、再び雑木林の中に入る。左手に気象観測台の建物が見える。この山側が中峠で、会津軍の有賀左司馬の戦死の地である。勾配が次第に緩くなって来た。宿場が近いのであろう。

 際新田は、標高940mの山岳地である。昔は冬場になると、麓の落合に下りていたが、今では雪が少ないために年中ここで生活しているという。ここではまず口留番所跡を訪ねた。鳥居をくぐって石段を登りつめた所にある。国境境を警備する関所跡である。
 ここには現在3軒しかないが、宝暦8年の記録では12軒で61人が住んでいたという。その屋敷跡は今でもはっきりと区割りされている。観音沼の駐車場に来ると、県外の車で一杯であった。ここは年中カメラマンたちで賑わっているのだそうだ。
 ここから少し下ると、左手に「一里塚跡 左20m」という道標が立っている。しかし、それらしき箇所を探してみたが遂に見当たらなかった。岳観世音堂の入口まで来ると、ここには樹齢200年程の大松が立っている。その根元には高さ2m程の石灯籠がある。ここで行われた馬市は、福島県内はもちろん、那須地方からも参拝客があったほどの賑わいぶりであったという。

 に進むと、道の右手に石仏が立っている。その右手に細い山道が走っている。これこそが中街道である。石仏の台座には、「右松川道 左たじまみち」と刻まれている。この山道を10分程登ると二股になっていて、そこに道標が立っている。明和5年のもので、「右なくら沢 左若松道」とある。しかし、ここからというものは、荒れがひどくて踏み跡もない。やっとの思いで舗装道路に出た。ここから杉ノ沢コースも更に荒れがひどい状態であった。この区間は県道を歩いて十文字まで進み、そこから杉ノ沢に入ることをお勧めする。

 坂を下ると正面に杉ノ沢の集落が目に入って来る。その手前で右折して山道を入る。二股になったら右折して雑木林の中に入る。200m程進むと、右手に釈迦堂が建っている。この少し先に「一里塚」が2基並んでいる。福島県で2基とも保存されているのは、ここと先ほどの野際のみである。その先は荒れがひどいのでもう一度杉ノ沢まで戻ることとした。

 ほどの二股に出たら、今度は右折する。少し進むと右手に石仏が3体並んでいる。その左端は馬頭観世音であるが、よく見ると、「右なぐら沢 左松川」と刻まれている。ここから杉ノ沢の集落が一望出来る。10軒程の集落で、藁葺き屋根も2軒建っている。周囲を小高い雑木林が囲んでいる。日本の原風景とはこのような所をいうのであろうか。
 次の集落の大松川に向かう。ここから観音川まで下り、小坂橋を渡ると、今度はきつい上りが待っている。これを上りきると、目の前に大きな集落が現れて来る。二股を左折する。右手前方には拡幅された国道289号線が走っている。集落内に入ると、道の両側に大きな構えの農家が並んでいる。木令から原を過ぎ、上ノ村集落に入る。中街道はここから2つに分かれていた。右折して和田から小松川に向かうのが田代通りで、こちらは旅人が中心であった。また直進して宮内から張平、塩生ヘのコースが塩生通りと呼ばれ、荷駄類を運搬していた。人と荷物を一緒にというのは無理だったのであろうか。問屋は宮内の佐藤宅が勤めていた。

 今回は田代通りを進むこととした。旭田郵便局の前を通り、国道を横断して小学校の前に出る。大松川の集落が一望出来る。かなり大きな集落で、この辺一帯の中心地である。晴れていれば、甲子旭や大倉山・三倉山が良く見えるのだろう。この国道は、甲子峠を越えて白河市に通じる道である。着工から10年以上経過しているが、完成はいつのことになるのだろうか。

 田から寺岡に入る手前にお堂が建っている。この周囲に石仏が8体並んでいるが、この中の馬頭観音には「右のぎわ道 左やま道」と刻まれている。
 寺岡の集落に入る。ここは10軒足らずの所であるが、元々は、寺山と赤岡の二つの集落が合併したものである。この赤岡には、かつて館があり、赤岡雅楽なる者が館主として居城していたという。天正
19年、この地は松川騒動の舞台となった。奥州検地の際に検地役が殺害、百姓方では死者44名、負傷者9名を出し、60名が処刑されたのである。
 ここから小松川に向かうため、右折して坂道を登る。途中で振り返ると、松川の集落が見渡せる。峠を登り詰めると、足元に小松川の集落が目に入って来た。観音川支流の段丘にへばり付いたような所だ。その奥に、沢入に向かう一本の道が峠めがけて上っている。結構な勾配だ。

松川では、まず正面の杉林が目に入って来た。村の鎮守であろう。坂を下って直角に曲がり、集落の中央通りを歩く。それも100m程で集落の外れになる。
 本通りは直角に左折する。旧道は、ここから右折して細い道を下り、ヘアピン状に曲がって観音川の支流まで下る。右手の崖上には農家が建っている。崩れて仕舞わないのだろうか。

 び上りになる。思えば、福島県側は皆こうである。とにかく視界が狭い。これは周囲が山ばかりの精だ。このため、隣の集落に行く場合には、必ず峠越えをせねばならない。平地がなく坂道が多い。次の沢入の集落もそうだ。坂道の両側に石段を積んで、家を建てている。しかも周囲が山ばかりであるの冬場などの日照時間は2〜3時間位ではなかろうか。沢入を過ぎて澳田に出ると、やっと視界が開けてくる。と、言っても矢板あたりの比ではないが。
 県道347号線に出る。左折すると、中妻を通り塩生へと抜ける。ここは右折して水門へと向かう。大川の右岸に開かれた台地を歩く。平らな道をのんびりと歩く。木々の間から、弥五島の宿並みが目に入って来る。

 門は「みつかど」と読むそうだ。集落の手前で左折して、幾世橋を渡れば弥五島宿である。この橋も今でこそコンクリート橋であるが、昔はこの断崖絶壁のどこに橋を架けたものか。上下流の見渡せる範囲はすべてこんな状況である。 集落を後にすると男女川が流れている。川幅は狭いものの、川底は5mもあるのではないだろうか。これを渡ると二股になっている。県道は右折すれば良いのであるが、左に下りる道も気になったので歩いて見ることにした。すると正面に民宿があって、道はそこでストップしている。しかし、雑木林の間から「塔の斫(へつり)」のつり橋が見える。一時的、あるいは渇水期にはこの道を通ったものだろう。 県道に戻って九十九折に上って行くと、塔の斫の真上に出た。ここもかなりの勾配だ。しかし正に絶景の地で、この街道中でもベストに入る地であろう。旅人は誰でもここで疲れを癒したことだろう。上阿久戸の入り口まで降りると、左手に「塔の斫」という看板が立っている。これは、下阿久戸集落を通って塔の斫橋を渡り、大川の左岸に出るコースである。先ほどの民宿から塔の斫の右岸を通った場合には、この下阿久戸に出たのであろう。

 
阿久戸集落を過ぎると、すぐ白岩の集落となる。この外れに隅川が流れている。ここも結構川底が深い。この右岸から見下ろすと、昔の橋の脚部が残されていた。これを渡ると、左手に鳥居が見えて来た。その奥に、社が建っている。神社名を見ると、何と「白鳥神社」とあるではないか。これまで彼方此方の神社名を見てきたが、こういう名のものは初めてである。何かしらの由緒があるのであろう。(石祠には菊の御紋章あり)