311057間を歩く

沼原〜大峠 
(地図)
 譲地への道と分かれて進むと、砂利道になってしまう。
そのまま沢名川を渡ると再び舗装道路となる。ヘアピンカーブを曲がって進んだ辺りが薄窪と呼ばれる所だ。戊辰戦争の古戦場のひとつで、慶応4年8月23日に小競り合いがあったという。
ここで、旧道は板室温泉からの山道と合流し、現在道を横断しそのまま沼原の駐車場まで上っている。ここから3.8kmほど舗装道路が続く。砂利道に入ると、正面に調整池の提体が見えて来る。この辺りは、季節によっては猿の群れに出くわす所だ。ヘアピンカーブを曲がると、間もなく駐車場だ。右手に白笹山が聳え立っている。(この駐車場の手前2kmの早坂峠に、一里塚が残されているという。これは平成8年に、高林郷土史研究会によって発見されたものである。西塚は現在道が開削された際に取り壊されたという。) 沼原の駐車場に到着する。上池の水の色が瑠璃色に光っている。ここから湿原を目指して下ってゆく。石の階段を下りて平坦になった所に、「子守石の伝説」に出てくる大きな石が横たわっている。安澤の万屋由来のものである。

 
原は標高約1200mの湿原である。木道が架かっており、ニッコウキスゲなどの時期にはたくさんのハイカーで賑わう所である。かつてここに揚水発電計画が持ち上がった時に、いち早く反対を表明されたのは深田久弥氏であった。この湿原環境を賞賛されていたのである。そして今、沼原の南半分が調整池となり、乾燥地が進んでいるとのことだ。当然のことであろう。
 板室の一里塚は2基とも保存されているが、東塚は炭窯に利用されたために半壊の状態である。ただ、ドライブインの手前の県道沿いに、「旧会津街道」という木の標柱が立てられていて沢名川の右岸を通ったようになっているが、これだと川を2度渡らなければならない。地図を見ても右岸は等高線が混んでいて大変な難所であったので、ここは左岸を通ったのであろうと思われる。(要調査)
 室街道を左折して山岳道路に入る。
この先は大別荘地帯で、黒尾谷岳の中腹まで家が並んでいる。すると直ぐにT字路となる。ここに標識があって、「沼原まで7.4km」とある。また、先ほどの板室の道標に従えば、板室三斗小屋間が3里8丁とあるので、この間には2つの一里塚があったはずであるここから湿原の東岸を歩いて麦飯坂を目指す。ここの標高差は150mはあろうか。大峠に次ぐ難所である。
日の出平への分岐を過ぎ、平坦地を10分ほど進むと、左手に赤い帽子を被った地蔵尊が立っている。沓石観音である。この街道が最盛期の頃、馬の鞜を履き替えた所で、それこそ山をなしていたという。 
 いよいよ麦飯坂への下りにかかる。
V字状の谷間に造られたこの道は、いったん雨でも降ろうものなら、たちまち川になってしまうであろう。トチの木の大木が目立って来た。しかし、予想以上に道がしっかりしている。結構ハイカーがいるようだ。20分ほど下ると、左手に石仏が立っている。天保11年室井金左衛門とある。 涸沢を渡り5分ほど進むと、正面に石積の塚があった。これが一里塚だということだが、疑問視もされているようだ。10分ほどで澄川に出た。結構な水量である。丸木橋を渡ると、今度は湯川の本流だ。左下に青白く光っている。随分と鉄分が多そうだ。10mほどの川幅であるが、橋が完全に流されてしまっている。

 
とか渡り切ると急登が待っている。これを上り詰めると、山岳道路との分岐となる。ここに、5年製の自然石で出来た道標が立っている。「右ハやまみち 左ハ板室みち」とある。ここからは悪路の連続である。4駆でもなければ全く無理である。大黒屋と煙草屋の墓地を左に見て進む。すると、六地蔵と並んで戊辰戦死若干墓があった。これを過ぎると、まもなく三斗小屋宿である。
 ここは黒磯市の飛び地になっている。かつては黒羽藩大関氏の支配地であった。明治元年の記録によると、戸数14戸、人口63人、馬47頭とある。現在は全く無人であるが、灯篭やたくさんの石仏が、当時の繁栄振りを物語っている。
この中には、上伊佐野地区で寄付をした灯篭が1基残されている。

 の三斗小屋宿で、もう一つ忘れてならないことがある。それは、白湯山信仰の基地としての賑わいぶりである。参拝客は、中街道が開通する前は栃木県の北部地区が中心であったが、開通後は、福島県の人達に取って代わられたという。
特に田島町や下郷町では、成人となるための通過儀礼として重んじられた。ここを参拝することで、一人前の社会人として認められたという。寛政3年4月8日の山開きには、1日だけで1,008人の参拝客があったという。この中には、伊佐野の人たちも混じっていることだろう。参考に板室野際間の距離は6里であるが、この駄賃が約300文であった。これは氏家横林間とほぼ同額である。かなりの割り増しであったことが解る。
 さて、いよいよ最大の難所である大峠越えである。標高が1,468メートルで、ここからの標高差が約370mもある。
また、野際までの距離が12kmあって、その全行程が険しい山道である。しかもここは、現在でも名うての豪雪地帯である。半年は通行不可能であったろう。ここからどのような道を辿ったのであろうか。
 の尾根は、流石山への登り坂である。夏には一面がニッコウキスゲで埋め尽くされる。右手の尾根は、三本槍への登り坂だ。振り返れば、沼原の上池が光って見える。良くぞここまで到着したものと、誰しもが胸を撫で下ろしたことだろう。
 この大峠は、豪雪地帯であると同時に、風の通り道でもある。それも半端ではない。日本海から直接強風が吹きつける。ザックを背負った体が吹っ飛ぶのだ。そのためか、ユヅリハなど、この地方では珍しい植物が結構見受けられる。
 大峠で忘れてならないことがある。それは戊辰戦争の大戦闘地になったことである。慶応4年4月、官軍と会津軍が激しい戦闘を繰り広げたのだ。今でも会津軍が築いたという塹壕跡が残っている。東西70m、幅2m、深さ1.3mにも及ぶものである。これには近隣の農民が大勢動員されたとのことだ。

                                              
                         拡大します。

         ここにある首なし地蔵は黙して語らない。
          はるか峠沢の方でホトトギスが激しく鳴いている。