311057間を歩く

石上〜板室宿
(地図)

 川を渡ると、農道が下石上に向かって一直線に走っている。
この間約1kmである。見渡す限りの水田地帯である。ここからの高原山の眺めもまた格別である。かつて与謝野晶子が絶賛したというが、さもあらんである。国道に出て左折すると西光院の前に出る。前方に陸橋が見える。その右手に下石上小学校が建っている。陸橋の橋脚部には「奥羽街道」「東京街道」「塩原街道」と書かれた大きな道標がある。ここからほぼ直進して国道と分かれる。


  石上宿に入る。ここには上下2つの問屋があったという。ただ、旧道は果たして国道まで出たものであろうか。というのは、集落の西端部には細い道が南北に走っていて、所々に馬頭観音が立てられているのである。また、36番目の一里塚もこの辺に在って良いと考えている。
県道関谷線を700mほど北進すると、右手に火の見やぐらが立っている。その手前に広い屋敷構いの小野崎家がある。かつての問屋である。寛永20年8月5日に保科正之公が宿泊されたという。いまでも「会津中納言御泊」と記された看板を保管されている。小野崎家を後にして、更に北上する。塩原町との境界付近に寒念仏供養塔が立てられている。この台座をよく見ると、「右いたむろ 左しおばら」と読める。表示に従って右側の細い道に入る。車が1台やっと通れる位の道だ。 


   興住宅地を抜けると、左手に大田原市の浄水場が見える。この裏で、先ほどの県道から伸びてきた道路と合流する。ここから右側には、私道につき侵入禁止とある。右手に養鶏場の建物がいくつも並んでいる。中街道はここを直進する。ただし、雑木が両側から張り出していて、ちょっと勇気がいる所である。この道を100mほど進むと塩原町となる。左手に田んぼが現れ、一瞬光景が開けるが、すぐまた雑木林に入る。舗装道路を横断するとすぐ左手に塚らしきものが現れるが、一里塚はこの先で、道の両側に2基とも現存している。ここには塩原町で立てた看板があるが、江戸から何里という表示はない。ここから先は藪で、通行不可能である。一度西那須野町に出て、再び塩原町に入る。


 の境界部に、「会津中街道」の道標が立っている。建立年月日は不明であるが、中街道と表示されているものはこの他に2ケ所しかなく、大変貴重なものである。ここから西那須野I.Cに向かって、ほぼ一直線に伸びていたということだが、その痕跡は全くない。ただ4区の久保氏宅の庭先に道標があるのだが、これも最初からここにあったのかは疑問である。というのは、ここには江戸36里・日光16里・佐久山3里と彫られている。
  36里というのは矢板市の荒井の距離だし、16里というと黒羽を通り越して福島に行ってしまうのだ。この3つの条件を充たす場所はあるのだろうか。この久保氏宅のすぐ後ろを高速道路が走っている。ご主人の話によると、旧道は庭の西側にある田の角を斜めに走り、I.Cの方向に抜けていたという。


 
谷街道に出て、高速道路のガード下をくぐると、右手に西那須野I.Cが見える。この先の広大な土地は、農水省関係の試験場や県立公園となっている。首都圏移転の最有力候補に挙げられている所だ。赤田の一里塚はこの敷地の中に埋もれてしまっている。
 県道折戸線に出て北上する。先ほどと同じように高速道路をくぐると、まもなく塩原町に入る。この左手に塚があって、「一里塚」という看板が立てられている。しかし、ここは南により過ぎており疑問視されている所である。誤解を招くので、撤去して欲しいと願う。300mほど進むと、左手に横林小学校がある。この校門の植え込みの中に、「中街道」の道標が立っている。年月日の記載はないが、ここから南方に向かって旧道が走っている。その先は、那須野が原ニュータウンの分譲地で、旧道を探すことは困難である。


 
道折戸線に出て北上する。先ほどと同じように高速道路をくぐると、まもなく塩原町に入る。この左手に塚があって、「一里塚」という看板が立てられている。しかし、ここは南により過ぎており疑問視されている所である。誤解を招くので、撤去して欲しいと願う。
 300mほど進むと、左手に横林小学校がある。この校門の植え込みの中に、「中街道」の道標が立っている。年月日の記載はないが、ここから南方に向かって旧道が走っている。その先は、那須野が原ニュータウンの分譲地で、旧道を探すことは困難である。 学校を後にすると、すぐ右手にかつての問屋である東泉家が建っている。まもなく十字路となり、ここに文化2年8月に立てられた道標がある。「南 大田原 東 はったち(波立) 北 たかはやし 西 せきやたけ山」とある。この関谷への道が、通称「村長道」と呼ばれている街道である。

 に北上する。すると、道の両側に一里塚が立っている。ただ、ここは両方とも藪の中にあるために、余程注意して見ないと見過ごしてしまう。この東塚の中央には、陸地測量部によって立てられた三角点がある。標高は347mである。那須疎水に架けられた橋を渡ると、雑木林となる。正面に杉林が見えてくる。道はその手前で二股になっている。ここに文化2年8月建立の道標が立っている。目を凝らして見ると、「右たかはやし 左よこばやし」と読める。右手の砂利道を進むと分譲地に入る。所有者名を記した看板が朽ち果てている。これもバブルのつけか。

 こを過ぎると突然、左手に人工の山が現れる。産廃(?)か。T字路に出たらこれを右折する。目の前に蛇尾川が見えてくる。この辺一帯は、水が地下を流れているために容易に渡ることが出来る。昔も変わらぬ光景であったろう。 これを渡ると黒磯市に入る。ほ場整備された水田が続いている。西山開拓と呼ばれている所で、開田記念碑には昭和39年とある。正面に那須岳が見えてきた。県道高林線に出る。この角に3体の馬頭尊が立っている。左折して高林へと向かう。下の内の集落を過ぎると、700mほどで高林の中心街となる。郵便局や小中学校、そして商店街もある。


 
道矢板・那須線を横断して500mも歩くと、木綿畑本田の集落である。ここは本田と新田とに分かれている。やがて人家が途絶えると、左手に空き地が現れ、古堂やら念仏供養塔が立っている。ここは市営バスの停留場にもなっていて、「太師堂」と書かれていた。
 ここで県道と分かれ、木綿畑の新田を目指して歩く。正面に那須連峰が目に入ってくる。手前の松林と見事にマッチしている。この道中でもベストに入る光景であろう。ほ場整備された水田地帯がいっぱいに広がっている。旧道はここからほぼ北の方角に向かって一直線に走っていたという。T字路に出ると、正面に稲荷神社がある。境内はかなり広くて、集会所も建てられている。左折して百村の集落に向かう。

400mほど進むと路肩の広い所に出る。ここに壊れた自販機が立っている。旧道はこの裏手に抜けて来たという。道路はこの先で半分くらいの道幅になってしまう。
そこに寛政5年に立てられた寒念仏供養塔があって、台座に「右のむら 左やま道」と刻まれている。道標に従って右折する。砂利道で、地元民でもめったに通らないような道だ。熊川と平行して歩くと、左手に養鶏場の建物が何棟も見えて来る。 右手に大きな川原石が現れる。そこには「会津中街道」と刻まれている。ここは渡し場であったのだろうか。
この部分だけブロック積みが切れ、河原まで降りることが出来る。ここを渡り、雑木林の中を抜けると、正面に大牧草地が現れる。その中にポッと塚が立っている。笹野曽利の一里塚で、東塚は右手の雑木林にある。この道中で一番美しい光景と思っている。ただ季節によっては、トウモロコシに埋め尽くされてしまうのでご注意を。



 
面に黒磯市の浄水場が見えてくる。この右手にある砂利道を北上する。高圧線の下までくると、牧草地から雑木林に変わってくる。このまま2kmほど進む。途中に分譲地の看板が見受けられた。林が切れると、正面に百村の集落が見えてくる。左手から上がってきた舗装道路と合流する。少し進むと、今度は百村新田からの広域農道と合流する。その地点に石仏が5体並んでいる。この中には、宝暦11年製の寒念仏供養塔がある。そう言えば、この街道沿いには数対の寒念仏供養塔があり、それも宝暦10,11年ものである。


 
村宿は、古宿・中町・新宿の3地区に分かれている。また、お寺は光徳寺と東福寺の2ケ寺がある。宿の中は街道に沿って屋敷割りがなされている。文化年間には57戸を数えていたという。この光徳寺には、御城米の運送状況が記された古文書が残されている。それによると、元文4年には536駄、寛保元年が1,130駄とある。これらは西街道が開通されてからのものであるので、閉鎖時にはこの何倍もの米が運ばれたことであろう。
 この百村宿に入って驚いた。ここは今、改築ブームなのだ。ちょっと大袈裟に言えば、2軒に1軒位の割合で立替中である。10年位前に訪れた頃のイメージは全く一変させられてしまった。
 ここは西から東にかけて下り坂になっている。人家が途絶えると、左手に庚申塔が立っている。更に東進すると、左手に細い山道が走っている。ここを入ると正面に「日記記念碑」が立っている。宝暦8年のもので、「右いたむろ 左やまみち」と刻まれている。そしてこの裏手に一里塚が立っている。西塚は全壊に近い状態である。
 板室街道の松原バス停から砂利道に入る。周囲は大別荘地である。碁盤の目のような分譲地が続いている。150mも進むと、その先は段丘になっていて、那珂川まで一気に落ちている。落差は50mはあろうか。このどこを下ったのだろうか。ほとんど踏み跡もない所を降りると、廃道らしきものが南北に走っている。はるか下に那珂川が見える。ここは危険なので、一度油井まで戻り阿久戸橋を渡る。直ぐに左折して砂利道を進む。すると、川の中に巨岩が一個見えて来る。昔はこれを橋脚替わりにしていたという。旧道は、ここから左岸にある月井宅の裏側を抜け、杉林の中を九十九折に上って分譲地に出た。


 
在の板室集落は中街道が開通してからのもので、それ以前はもう少し南部にあった。現在、元屋敷と呼ばれているところである。会津藩で屋敷割りをし、24戸住まわせたという。中には田島町の方から移転させられた者もいた。そしてここに、本陣と脇本陣を配置した。とにかくここの宿場は、これから三斗小屋宿に向かう者にとっても、三斗小屋から麦飯坂を越えてきた者にとっても特別の思い入れがあったろう。 この宿場の外れで、もと板室小学校近くに、高さ1.6mもある道標が立っている。天保7年のもので、「右 会津街道三斗小屋江三里八丁 左 ゆもと道従是二十八丁」とある。旧道はここから県道を横断し、沢名川の右岸沿いを進み、乙女の滝の南で渡河し一里塚に抜けていた。また、この学校は明治時代まで二階建ての建物で、白湯山参拝者の宿泊所であったという。