311057間を歩く

氏家〜やいた
(地図)


  津中街道の旅は、まず阿久津河岸を訪ねることから始まった。鬼怒川沿いに設けられた48河岸の中の最北端である。
とに角、奥州街道と会津西街道、それに会津中街道と原街道の4街道の集散地でもあった。これを聞いただけでも、その繁盛ぶりが想像付こうというものである。
   ここの河岸問屋として、一切を仕切っていた若目田家は、道安の代に最盛期を迎えた。ここで扱った藩米は実に15万俵、金額にして9,000石(両)、現在高で10億9千万円ともいわれている。小形船を707艘所有し、その屋敷は3〜4,000坪もあり、今の国道4号線から鬼怒川まで続いていたという。この若目田家は、永代名主兼河岸問屋を命ぜられている。また、この孫にあたる八兵衛は平野の庄屋を勤め、民政を施し住民から親しまれた。幕末に平野焼を始めた惣左衛門はこの末裔に当たる。 現在、この若目田家の繁盛ぶりを見ることが出来るのは、船玉神社だけである。海運事故防止のために建てられたものであるが、この彫刻は誠に豪華であり氏家町の文化財にも指定されている。

 さて、この境内にある燈篭は弘化2年に建てられたものであるが、台座には「右 奥州街道 左 江戸道 此方 河岸道」と、記されている。この道標に従ってほど進むと国道に出る。跨線橋をくぐると勝山への上り坂となる。これを詰めた付近に一里塚があったという。 右手にそうめん地蔵を見て、更に進むと「氏家製靴」の工場に出る。今は閉鎖されてしまっているが、中街道はこの敷地内を斜めに走っていた。そして宇都宮線を横切り、水田の中の道を直進すると水戸街道に出る。ここの三叉路に道標が立っている。

 こから氏家町の市街地に向かって北上する。バイパスとの十字路を横断すると、右手に黒須病院の大きな建物が目に入る。その道向かいにある「平石歯科医院」が氏家宿の問屋兼本陣を勤めた平石家である。庭先に立っている大きなケヤキの木が、かつての繁栄ぶりを物語っている。また、県内では珍しい標柱、「従是喜連川領」が立っている。氏家町役場のひとつ手前の信号を右折する。これが奥州街道で、12qほどで喜連川町の中心街となる。右折すると直ぐ左手に細い道が走っている。かつての中街道である。そして会津若松への出発点だ。これから31里10町、約125kmの旅路である。この分岐に立ったかつての旅は、一体何を思ったことだろうか。

 場の西に出てそのまま直進する。600mほど進むと今宮神社である。境内の大きなイチョウがまず目に付いた。氏家24郷を統治した氏家家の氏神でもある。
 国道を横断して押上街道に入る。両側に大きな構えの農家が続く。途中のT字路で右折し、国道に向かって北上する。中街道はほ場整備の際に、完全に壊されてしまっている。国道に出ると馬場地内である。これを北上して長久保地内との境界付近、通称上野原秣場と呼ばれる所に一里塚があったとされている。因みに、国土交通省で立てた標識には「東京から128km」とあり、ほぼ32里ということになる。なお、ここの信号を左折して200mほど進むと西街道と合流する。

 家教習所を右に見て、更に北上する。蒲須坂の集落に入る手前で、広域農道グリーンラインと交差する。これを横断すると直ぐに市の堀用水が東西に走っている。この橋の50mほど西側に炭窯が築かれているが、この付近に「川崎街道橋」が架けられていたという。旧道は、この先のフルーツセンターから青木家に向かって50mほど残されており、当時を偲ぶことが出来る。  最近になって、荒川橋の手前の十字路が拡幅されたり、コンビニが立ったりして大きく様替わりしてしまったが、大宮よりの所に「だんごや」と呼ばれる茶店があったという(鈴木家談)。

  こから荒川を渡るには、一度国道を横断し、ガソリンスタンドの脇から東側に大きく迂回して渡っていた。地籍図を見るとこの辺一帯は湿地帯で、小河川が何本も入り組んでいる。大変な苦労を強いられたことだろう。荒川の右岸は河岸段丘になっていて、ここに4軒の家が建っている。この一番東側のお宅の裏手に旧街道を見ることが出来る。これを渡り終えると、国道沿いに立っている大きな榎を目指して、つまり北西に進むこととなる。この榎の下には、ほとんど気づかないほどの小さな橋が架かっている。この下を流れている川が「元荒川」である。昔の荒川という訳である。続いて谷川橋を渡る。現在掛け替え中である。ほどなく左手に人家が表れ、この前を市道大槻線が走っている。
 街道は、この市道を20mほど進んだ所で右折をする。ここからが乙畑宿で、問屋を勤めた永井家は歩いて100m位の距離にある。国道と宇都宮線の間に挟まれたこの地区は、掘割もそっくり残されており、大変貴重な地区だ。更に西側の尾根は、高原山塊の最南端で遺跡の宝庫でもある。この集落を抜けた所で踏み切りを渡る。間もなく左手に一里塚跡の標柱が立っている。江戸から34里とあるが、これは今回の調査で33里であることが解った。この付近は「太鼓塚」と呼ばれているが、この太鼓塚そのものが一里塚であったのかは不明である。またこの先には数体の石仏が立っており、その中の一体の台座には「右安澤」とあり、追分になっていたようだ。

 銭橋という小さな橋を渡る。この辺一帯は主要地方道路の建設中で、大きな橋脚が何本も架けられている。これを過ぎると、つつじケ丘ニュータウンに入る。
 このほぼど真ん中を進み、3階建ての市営住宅の西側に出る。ここから県道塩谷・喜連川線までほぼ一直線に広域道路が走り抜けている。旧道は、この道路の左手を市道大槻線まで辿ることが出来る。更にその先の雑木林の中にも一部残されているが、ここはひどい藪でお勧めは出来ない。

中から右手の市道に下りる。右下に見えるのは県営住宅である。更に進むと、左手に最近完成したばかりの「たけのこ園」と「デイサービスセンター」が立っている。県道を横断すると、頭上を新幹線が走っている。住宅の間の細い道に入る。車1台がやっと通り抜けられる位の道だ。しかし、これこそが中街道そのものである。エンプラスや日本調理器といった工場が進出したり、矢板インターチェンジが建設された中で、よくも残されたものだと思う。通岡の公民館前を過ぎ、インターチェンジの入り口で県道に出る。


 工業団地の入り口まで進むと、右手に立派な四脚門を構えた篠木家が目に入る。(この門は氏家の本陣に立っていたものと伝えられるが)この篠木家は中街道が脇道に編入されてからの問屋で、荷鞍倉や他の問屋との馬継ぎをめぐる古文書などが多数残されている。屋敷林の北端に、寛永8年生の馬頭観世音が立っている。旧道はこの前からほぼ北にむかって、田の中を走り抜けていた。また丁度道向かいの所に、国道開設時の「陸羽街道」の記念碑が建てられている。
 JR宇都宮線を渡り、愛宕地蔵を見ながら線路沿いに進む。一度右に迂回して市道を横断し、それから山裾の細い道を進む。当時の面影をそっくり残した箇所である。

 こを歩く時はいつでも、時代を忘れてしまう。1Kmほど歩いて和田坪の踏み切りを渡ると、突然視界が広がり田園風景が目に入ってくる。はるか彼方に大峠が見える。昔の旅人たちは、ここで何を思ったことだろう。まもなく境林の一里塚である。明治19年に鉄道が敷設する際に壊されてしまっている。
ここから県道を横断して舘ノ川の古宿に向かう。高台にあるこの地区は、堀江山に城があった時代の武家屋敷の跡であろうか。

  こには自然石で出来た道標がある。「右 舘野川、田所、境林、大宮 左 乙畑、氏家、宇都宮」と刻まれている。坂を下ると三叉路となる。頭上を高圧線が走っている。ほ場整備の際に造られた農道を北上する。右手に建得寺が見える。田町の集落に入る。ここは境林の飛び地になっている。ほぼ等間隔に区割りされた家並みが続いている。この一番奥の家が、問屋を勤めた大桶家である。尤もこの川崎宿は変則で、問屋が3軒あったために、月10日の3交代制をとっていた。内川を渡る。車がやっと1台通れる位の幅である。目の前に川崎の宿並みが入ってくる。
ここは昭和20年代まで、道路の両脇に堀割があったという。今でも屋号が残されており、親しみを込めて呼ばれている。この川崎地区は、反町、新町、柿の木町の4町があって、それぞれ散在していたが、この中街道が出来てから現在のような姿になっている。龍泉寺の入り口付近が変則十字路になっていて、旧道はこれを左折する。その手前の加藤家が、かつての問屋で「台加藤」と呼ばれている。また、この先の問屋(名主)の加藤家は、「反町加藤」と呼ばれ、区別されていた。

 の宿並を過ぎると、左手奥に緑色の大きな建物が目に入ってくる。公共温泉の「城の湯温泉」である。ここに温泉の自動販売機が立っているが、その足元に道標があって、「右幸岡道大田原」と刻まれている。ここから国道461号線までの区間に、かつての面影を残す物は何も残されていない。ただ、川崎行政区に保管されている地図には、川崎街道という地名が残されているし、宮川も右に左に大きく蛇行していた。これを避けるように北上している。また、中川も現在の星野土木の前で宮川に流れこんでいたことが解った。

 道に出て右折し、中川橋を渡ったら今度は左折する。カントリーエレベーターを左手に見て進むと、ここの角に土地改良の記念碑と共に、道標が立てられている。元の位置はもう少し南東で、日光北街道との十字路にあったとのことである。この道標には「右日光 左江戸」とあり、貴重な歴史資料である。ここに西の問屋と呼ばれた坂巻家があった。古文書を見ると、中街道が開通する7ケ月に、会津候に対して「御伝馬宿」を許可していただきたいという願書を出している。情報を一早くキャッチしてのことだろう。商魂のたくましさを感じる。

 太田で県道と合流し、そのまま北上する。右手にある最初のお宅が「板屋」の屋号を持つ井上家である。ここから更に県道を進んだ所で右折する。長屋門が東西に2軒並んでいる。この家の前を通り抜けて水田地帯に出る。ほぼ一直線に進んで(東)内川を渡った。現在の城戸崎橋の20mほど南だという。

 字路に出たら左折して東泉方面に進む。右手にある人家の裏手に細い山道が走っている。この入り口に木の標柱があって、よく見ると旧会津中街道と書いてある。ここからしばらく雑木林の中を歩くことになる。山田境いの尾根は割山と呼ばれているが、その麓には一里塚が2基とも完全な形で残されていた。これを平成2年に復元し、以後、地元の老人クラブが管理しているとのことである。ただ、この2つの距離が離れすぎていて、大変珍しいものとなっている。また、境林の一里塚との距離も6km以上あって、疑問視もされている。





 田に入ると、一気に下り坂となる。T字路に出たらこれを左折する。この角に、行政区で立てた会津中街道の標柱がある。開通300年を記念して立てられたものである。山田宿のほぼ中心街に、山田公民館が建っている。昔の分校跡である。その手前の細い道を入ると、右手に一本のカヤの木が立っている。樹齢750年を数えるという大木で、市の天然記念物にもなっている。下の問屋以東家の中庭にあったものという。元治元年に武田耕雲斎率いる天狗党一行千数百名がこの下で会談を開いた所でもある。風雲急を告げる幕末の一大事を、このカヤの木は目撃していたのである。この宿は18宿のひとつにかぞえられているが、矢板宿と余りに近かったのために、半月交代であったという。中心街を通り抜けると、十字路となる。

 折して坂を越えると東泉の集落である。目の前の空き地に新築の家が1軒建っているが、ここはかっての問屋跡である。左手奥の高台は山田城で、山田筑後守業辰の居城と伝えられている。ここは右折して切通しを抜けると、目の前いっぱいに水田地帯が広がっている。箒川を中心とした沖積地で、太古から豊かな実りを与えてくれている。川の向こうは大田原市である。

 て、この川のどこを渡ったかは疑問である。川は生き物であり、毎年のように流れを変える。大雑把には雲入、関根、本社の3箇所が考えられている。この内の最有力は関根であろう。というのは、この部分の川幅が一番狭く、地元民はついこの間までここを渡っていたという。そして対岸にある1軒の前に出て石上方面に行ったという。